ep.11 天才の限界
暴走の夜から、五日が経った。
リーゼルは研究室に籠もりきりだった。
写本を読み、術式を組み、崩し、組み直す。魔力結晶を触媒にした試験的な安定化術式を十二パターン設計し、そのすべてがシミュレーション段階で破綻した。
十三パターン目を設計し始めたのが昨日の朝。今は——いつだ。窓がないから太陽の位置がわからない。壁の隙間から差し込む光の角度で推測すると、たぶん翌日の夕方。
三十時間以上、寝ていない。
「ママ。ご飯、冷めてる」
ルゥの声が聞こえた。遠い。耳には届いているが、意味を処理する脳の領域が、術式の演算に占有されている。
「あとで」
「三回目の『あとで』。時間にして九時間が経過している」
「…………」
「アルヴィンが作ったスープ。今日のは茸と干し肉。匂いは、ぼくのデータベースでは『最上位』に分類される」
ルゥの言葉は正確だった。匂いは確かにいい。机の端に置かれた木の椀から、湯気はもう立っていないが、茸の香りがかすかに漂っている。
だが、スプーンを手に取る余裕がなかった。
十三パターン目の術式が、また壁にぶつかっていた。
因子の安定化には、魔力の波長を因子の固有振動数に同調させる必要がある。理論上はシンプルだ。だが、因子の固有振動数が一定ではない。感情に連動して揺らぐ。怒りの時と安静時では周波数が異なり、夢を見ている時にはさらに別のパターンを示す。
変動する標的に同調し続ける術式を、どう設計する。
追尾型の術式は存在する。だが、既存のものでは追尾速度が足りない。因子の変動速度は、既知のどの魔力現象よりも速い。
「……駄目だ」
ペンを置いた。
両手で顔を覆った。
指先がインクで汚れている。爪の間にまで入り込んだ黒い染み。ここ数日、手を洗う暇もなかった。——いや、暇がないのではなく、手を洗うという行為が意識から脱落していた。
食事も。睡眠も。着替えも。
全部、消えていた。頭の中にあるのは術式だけ。それでも答えが出ない。
(……前にも、こんなことがあった気がする)
不意に、記憶が浮かんだ。
前世の記憶。いつもより鮮明だった。
蛍光灯の白い光。デスクの上に散らばった書類。モニターに映る数字の羅列。締め切りは明日。いや、今日。もう日付が変わっている。
終電はとっくに行った。
オフィスには自分一人。暖房が切れて、足元が冷たい。肩が凝っている。目の奥が痛い。コーヒーの空き缶が三つ。四つ目を飲もうとして、手が止まった。
——もう無理だ。
デスクに突っ伏した。
冷たい天板が額に当たる。腕の中で目を閉じると、涙が出た。疲労なのか、情けなさなのか、区別がつかなかった。
誰にも頼れなかった。頼り方を知らなかった。「自分でやったほうが早い」とずっと思っていた。実際、大抵のことは自分でやったほうが早かった。でも——早いことと、持つことは違う。
一人で回せる仕事量には限界がある。限界を超えたとき、助けを求める方法を知らない人間は——壊れる。
壊れた。
あの夜、コンビニの帰り道で倒れて、そのまま——
「ママ」
ルゥの声が、記憶を断ち切った。
目を開けた。蛍光灯ではなく、石壁と苔が見えた。
ここは異世界の廃砦だ。前世のオフィスではない。
でも——やっていることは同じだった。
一人で抱え込んで、限界を超えて、壊れかけている。前世から何も学んでいない。
「ルゥ。……ごめん。なんでもない」
「なんでもなくない。ママの魔力が揺らいでる。身体の限界を超えてる」
「……わかってる」
わかっていて、止められない。
止めたら——アルヴィンが死ぬかもしれない。因子が暴走して、あの夜よりもっとひどいことになるかもしれない。
五日前の夜、アルヴィンの腕に触れた感触がまだ掌に残っている。硬い鱗。その下で脈打つ、人間の体温。
あれを——もう一度起きたら、次は止められる保証がない。
だから止まれない。
だが、術式は完成しない。
堂々巡りだ。
ペンを握り直そうとして、指がうまく動かなかった。微細な震え。魔力の消耗か、単なる疲労か。どちらにせよ、この状態では精密な術式設計はできない。
「…………」
机の上に散らばった羊皮紙を見つめた。
十三枚の失敗作。どれも途中まではうまくいっている。だが、肝心の因子の変動速度に追従する部分で破綻する。自分の知識と技術の範囲内では、この壁を越えられない。
——天才でも、できないことはある。
その事実が、静かに胸に沈んでいった。
◇ ◇ ◇
砦の入り口で声がした。
「おーい、リーゼル。いるか」
カイだった。
リーゼルは返事をしなかった。声を出す気力がなかったのと、来客に対応するだけの頭の余裕がなかったのと。
だがカイは返事を待たずに入ってきた。獣人は遠慮という概念が薄い。
「……うわ。すげえ顔してんな」
大広間に足を踏み入れたカイが、率直に言った。
「お前、何日寝てない」
「数えてない」
「数えてないってことは二日以上だな。——おい、アルヴィン。こいつ止めなかったのか」
カイが砦の奥に声をかけた。アルヴィンは——いなかった。
「水汲みに行ってる」とルゥが答えた。「ママを止めようとして、三回追い返された」
カイが嘆息した。狼の耳が後ろに倒れる。呆れの仕草だ。
「お前、ちょっと来い」
「忙しい」
「いいから来い。外だ。五分だけ」
「五分で何が——」
カイがリーゼルの腕を掴んだ。抵抗する間もなく、軽々と立たせられた。獣人の膂力は人間の比ではない。
「ちょっ——」
「歩け。足動くだろ。歩くぞ」
半ば引きずるようにして、砦の外に連れ出された。
◇ ◇ ◇
森の外縁部。砦から少し離れた場所にある、小さな沢。
カイがリーゼルをそこまで連れてきて、岩の上に座らせた。
「ここで少し休め」
「休んでる暇は——」
「お前の目、死んでるぞ。その状態で何を考えたって、まともな答えは出ない。狩りと同じだ。疲れた獣は判断を誤る」
リーゼルは口を閉じた。
反論ができなかったのではなく——反論する気力がなかった。
沢のせせらぎが耳に届く。水が岩の上を滑り落ちる音。木漏れ日が水面に揺れて、光の粒を撒いている。
風が吹いた。
木の葉が擦れ合う、さわさわという音。その中に混じる鳥の声。遠くで獣が鳴いている。
空気が——美味かった。
何日ぶりだろう。砦の中にこもりきりで、外の空気を吸うのは。肺の奥まで新鮮な空気が入ってくると、頭の中で渦巻いていた術式の残像が、少しだけ薄れた。
カイが隣の岩に腰を下ろした。大きな身体を持て余すように足を投げ出している。
しばらく、二人とも黙っていた。
沢の音と、風の音と、森の呼吸だけがある時間。
「……何があったかは聞かない」
カイが、前を向いたまま言った。
「お前が話したきゃ聞くし、話したくなきゃ聞かない。——ただ、一つだけ言わせろ」
「……何」
「お前、一人で全部やろうとしてるだろ」
リーゼルは答えなかった。
「俺にはお前の研究のことはわからん。術式とか因子とか、ちんぷんかんぷんだ。でもな——お前が限界超えてるのは、鼻でわかる。体臭が変わってる。ストレスと睡眠不足の匂いがする」
「……獣人の嗅覚って便利だね」
「便利じゃなくて本能だ。仲間の異変を嗅ぎ取るのは」
仲間。
その言葉に、リーゼルの指が僅かに動いた。
「……仲間って概念が、いまいちわからない」
「わからなくていい。わかんなくたって、もうなってるんだから」
カイが、にっと牙を見せた。
「集落の婆さんを治してくれた時点で、お前は俺たちの仲間だ。お前がそう思ってなくてもな」
リーゼルは、何か言おうとして——やめた。
代わりに、沢の水に手を浸した。冷たい。指先の感覚が戻ってくる。インクの汚れが、水に溶けて流れていく。
「……カイ」
「ん」
「私、前にも同じことをしたことがある気がする。一人で抱え込んで、壊れかけて。……前の、ずっと前の話だけど」
「前って?」
「……うまく説明できない。夢みたいなもの」
カイは詳しく聞かなかった。
ただ、「ふーん」と言って、空を見上げた。木々の隙間から覗く青い空。
「お前が何を抱えてるかは知らん。でもな、一人で死にそうな顔してる奴がいたら、外に引っ張り出して水でも飲ませる。——俺はそういう性分なんだ。嫌なら言え。次からやめる」
「……嫌じゃない」
声が、思ったより小さかった。
カイの耳がぴくりと動いた。聞こえたのだろう。でも、何も言わなかった。
沢の水で顔を洗った。冷たい水が肌に当たる感覚が、世界の輪郭を取り戻してくれた。
五分のつもりが、三十分近く座っていた。
砦に戻ると、アルヴィンが入り口に立っていた。水を汲んできた帰りらしく、両手に桶を提げている。
リーゼルとカイが並んで歩いてくるのを見て、一瞬だけ目を細めたが——それよりも先に、リーゼルの顔色を見て、何かを飲み込んだようだった。
「……少しはマシな顔になったな」
「カイに連れ出された」
「そうか」
アルヴィンが桶を砦の中に運び入れた。その背中に向かって、リーゼルは立ち止まったまま言った。
「アルヴィン」
「何だ」
「……ちょっと、行き詰まってる」
アルヴィンが振り返った。
リーゼルが「行き詰まっている」と口にするのは、出会ってから初めてだった。それが、どれだけの重さを持つ言葉なのかを、アルヴィンは理解していた。
「術式の設計?」
「うん。因子の変動に追従する安定化術式が、今の私の知識じゃ組めない」
「…………」
「でも、諦めてない。手がかりはある。ただ——時間がかかる。それまでに、もう一回あの夜みたいなことが起きるかもしれない」
アルヴィンは黙って聞いていた。
「だから」
リーゼルが、少しだけ目を逸らした。
「あなたにも、手伝ってほしい。因子が反応しそうな時——自分の感情の変化を、できるだけ早く教えて。前兆がわかれば、対処が間に合う。私一人じゃ、あなたの内側のことまでは見えないから」
それは——助けを求める言葉だった。
リーゼル・フォン・メルツハーゲンが、誰かに助けを求めている。
アルヴィンは桶を置いた。
「……当たり前だ」
静かに言った。
「俺の身体のことだ。お前に全部背負わせるほど、腐ってはいない」
リーゼルの肩から、僅かに力が抜けた。
言葉は少なかった。だが——何かが通じた感触があった。
壁にぶつかっている。でも、一人ではない。
それは「仲間」という概念を理解したということではなく、ただ——隣に人がいるという事実を、初めて重荷ではなく支えとして受け取った、ということだった。
砦に戻り、冷めたスープを温め直してもらって、食べた。
美味しかった。
——美味しい、ということが、ちゃんと感じられた。
それだけで、十分だった。
---
* * *
「始祖竜因子安定化計画 記録#14
設計パターン#1~#13、すべて失敗。
因子の固有振動数の変動に追従する術式が組めない。
現状の知識と技術では壁を越えられない。
——が、新しいアプローチの手がかりはある。
写本の記述。『声が竜を鎮める』。
音響と魔力の共鳴。ルゥのメンテナンス時に確認した安定化効果。
……まだ繋がらない。でも、糸口はここにある気がする。
明日、もう一度考える。
今日は寝る。アルヴィンが怒るから」
——リーゼル・フォン・メルツハーゲン、実験記録帳より
---




