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ep.10 暴走の夜


 その夜は、嫌な風が吹いていた。


 アルヴィンは寝床の上で目を閉じていたが、眠れなかった。


 風が砦の壁の隙間を通り抜けるたびに、低い唸りのような音がする。封印の第一層が解かれてから、こういう音が気になるようになった。以前なら聞こえなかった類の——世界の底で何かが軋んでいるような、不穏な音。


 身体の奥でも、何かが軋んでいる。


 胸の中心。肋骨の裏あたり。ここ数日、ずっと微かな熱を感じている。リーゼルが「因子が脈動している」と言った、あの場所。普段は忘れていられる程度の熱だが、夜になると——特に、意識が弛緩する眠りの際で、それが少し強くなる。


 心臓の鼓動とは別の、もうひとつの脈。


 自分のものであって、自分のものではない鼓動。


 目を閉じると、瞼の裏に光が散った。


 ——また、この夢だ。



 ◇ ◇ ◇



 *舞踏会の広間。*


 *シャンデリアの光が床の大理石に反射して、世界が金色に輝いている。*


 *自分は広間の中央にいる。周囲に人がいる。着飾った貴族たち。笑い声。グラスの触れ合う澄んだ音。*


 *目の前に、女がいる。*


 *栗色の髪。琥珀色の瞳。震えている。——いつも震えていた。自分の前ではいつも。それを、退屈だと思っていた。*


 *「お前のような——」*


 *声が出る。自分の声だ。だが止められない。夢の中では、いつもそうだ。台本通りに口が動く。*


 *「——退屈な女と」*


 *やめろ。*


 *「添い遂げる気は」*


 *やめろ。それを言ったら——*


 *「ない」*


 *女の顔が蒼白になる。広間が静まり返る。そして——*


 *場面が変わる。*


 *牢獄。*


 *冷たい。石の床が膝を噛む。両手は鎖で繋がれている。首に金属の輪が嵌められ、世界から色が抜け落ちた。*


 *鞭の音。*


 *背中が裂ける。*


 *悲鳴を噛み殺す。噛み殺せなくなる。声が出る。喉が裂けるほどの——*


 *「もういい。こいつは使い物にならん」*


 *冷たい声。頭上から。顔は見えない。*


 *「売り飛ばせ」*


 *暗転。*


 *奴隷市場。鎖に繋がれた自分を、人間たちが値踏みしている。家畜と同じ目で。いや、家畜のほうがまだ丁寧に扱われていた。*


 *「魔力が使えない魔術師崩れなんぞ、二束三文だ」*


 *笑い声。*


 *——殺せ。殺してくれ。こんなのは——*


 *胸の奥で、何かが燃えた。*



 ◇ ◇ ◇



 目が覚めた——のではなかった。


 夢と覚醒の境界が溶けている。どちらにいるのかわからない。瞼を開けているのか閉じているのか、それすら判然としない。


 わかるのは——熱い、ということだけ。


 胸の中心から、灼熱が全身に広がっていく。血管を焼くように、骨を溶かすように、内側から身体が燃え上がる。


 皮膚の表面が——変わり始めた。


 右腕。手の甲から手首にかけて、肌の色が変わっている。人間の肌ではない。黒く、硬く、微かに光沢を帯びた——鱗。


 「——あ」


 声にならない声が漏れた。


 鱗が腕を這い上がる。肘を越え、肩に向かう。皮膚の下で骨格が軋む。指の関節が太くなり、爪が伸び始める。人間の爪ではない。鉤爪だ。


 痛みはない。


 痛みよりも深い場所で、何かが書き換わっていく。自分の身体が、自分ではないものになっていく感覚。


 視界が赤く染まった。


 いや——瞳の色が変わっているのだ。深紅が金色に。暗闇の中で、自分の目が光を放っているのが、壁に反射する金色の光でわかった。


 胸の奥の「もうひとつの脈」が、心臓の鼓動を飲み込もうとしている。


 どくん。どくん。どくん。


 速い。速すぎる。自分の心臓ではない何かが、身体の主導権を奪おうとしている。


 ——怖い。


 声が出ない。叫びたいのに、喉が塞がっている。代わりに口から漏れたのは、人間の声ではなかった。低い、獣のような唸り。振動が喉を震わせ、砦の壁に反響する。


 「——アルヴィン!」


 声がした。


 遠い。ひどく遠い。水の底から聞こえるような、くぐもった声。


 でも——知っている声だ。


 足音。軽い足音が、暗闇の中を走ってくる。


 リーゼルだった。


 寝床から飛び起きたのだろう。研究着のまま、素足で石の床を蹴って、こちらに駆け寄ってくる。手には何も持っていない。武器も、道具も、触媒も。


 丸腰で、暴走しかけている竜の因子に向かって走ってきている。


 「来るな——」


 声を絞り出した。人間の声が、獣の唸りと混ざって歪む。


 「近づくな。俺は——今、自分を——」


 「知ってる。見ればわかる」


 リーゼルが立ち止まった。


 二歩の距離。手を伸ばせば届く場所。


 金色の光を放つアルヴィンの目が、暗闇の中でリーゼルを捉えた。鱗に覆われた右腕が、意思に反して痙攣している。鉤爪が石の床を引っかき、嫌な音を立てた。


 リーゼルは——逃げなかった。


 恐怖の表情もなかった。ただ、真剣だった。紫の瞳が、アルヴィンの身体に走る鱗の分布を観察しているのが、暗がりの中でもわかった。


 「アルヴィン。私の声、聞こえる?」


 聞こえる。聞こえるが、遠い。金色の靄がかかったように、世界がぼやけている。視覚も聴覚も、「人間のもの」と「竜のもの」が混線して、何が現実かわからなくなりつつある。


 「聞こえるなら返事して。なんでもいい」


 「……聞こえて、る」


 「よし。じゃあ私の声に集中して。他のものは全部無視していい」


 リーゼルが一歩、近づいた。


 「来るな——」


 「うるさい。黙って」


 静かな声だった。怒りではない。だが、反論を許さない響きがあった。


 「私はあなたの封印術式を誰より理解してる。因子の暴走の兆候も、進行パターンも、今この瞬間のあなたの身体の状態も。——だから、来る」


 もう一歩。


 手が伸びてきた。


 リーゼルの左手が、アルヴィンの右腕に触れた。


 ——鱗の上に。


 硬い。冷たい石のような感触のはずだ。人間の肌ではなく、獣の鎧。触れて心地いいものでは、到底ない。


 だがリーゼルは、顔色ひとつ変えなかった。


 鱗の表面をなぞるように、指先がゆっくりと動いた。まるでルゥのメンテナンスをするときのように——壊れかけたものの状態を確かめるように。


 「……鱗の進行速度、思ったより遅い。まだ右腕と肩だけ。肩甲骨までは達してない。——大丈夫。止められる」


 魔力が流れ込んできた。


 リーゼルの指先から、薄い光を帯びた魔力が鱗の隙間に滲み込んでいく。因子の暴走を直接止める力ではない。——鎮静だ。暴走のトリガーになっている感情の波を、魔力の波で打ち消している。


 精密な作業だった。荒波に小石を投げ込んで波紋を相殺するような、途方もなく繊細な制御。


 鱗の進行が、止まった。


 灼熱が——少しずつ、引いていく。


 金色の視界が、ゆっくりと元の色に戻り始める。


 「……っ、は」


 息が漏れた。人間の息だ。獣の唸りではなく。


 身体の主導権が、「竜」から「人間」に戻ってくる。鱗が端から薄れ、人間の肌の色が覗く。鉤爪が縮み、人間の指に戻る。


 だが——反動が来た。


 全身の力が抜けた。糸の切れた人形のように、身体が崩れ落ちる。


 倒れる寸前、リーゼルが支えた。


 小さな身体で、自分より遥かに大きい男の身体を受け止めている。無理がある。リーゼルの足がふらつき、二人して床に崩れるように座り込んだ。


 石の床の冷たさが、汗ばんだ身体に沁みた。


 「……大丈夫。止まった。因子は沈静化してる」


 リーゼルの声が、すぐ傍で聞こえた。


 近い。今まで聞いたどの瞬間より近い。


 彼女の肩が、自分の頭を支えている。小さい肩だ。骨ばっていて、研究着越しに鎖骨の形がわかる。こんな華奢な身体で、暴走する竜の因子に正面から向き合ったのだ。


 「なんで」


 かすれた声が出た。


 「なんで、逃げなかった」


 「逃げてどうするの。あなたが暴走したら、この砦も森も村も巻き込まれる。止められるのは私だけなんだから、逃げる選択肢はない」


 当たり前のように言った。


 当たり前のことでは、ない。


 「……死ぬかもしれなかったのに」


 「死ななかった。結果がすべて」


 リーゼルの手が、まだアルヴィンの腕に触れていた。鱗が消えた後の、人間の肌の上に。


 離さなくてはいけない。自分から離れなくては。この女を巻き込んでは——


 「離さないで」


 声が出ていた。


 自分の意思ではなかった。身体の奥、竜でも人間でもない場所から——ただ、こぼれ落ちた言葉。


 「……頼む。もう少しだけ」


 沈黙。


 リーゼルが何を考えているのか、アルヴィンには見えなかった。顔を上げる力がない。肩に預けた頭の重さが、そのまま彼女に伝わっているはずだ。


 「…………」


 リーゼルは何も言わなかった。


 ただ——手を、離さなかった。


 鱗が消えた腕の上に、小さくて冷たい手が置かれたまま。


 砦の中は静かだった。風の唸りはいつの間にか止んでいて、壁の隙間から差し込む月光が、二人の影を床に落としている。


 暖炉の前で、ルゥが目を開けていた。


 何も言わず、こちらを見ていた。紫水晶の瞳が、月光を受けて僅かに光っている。


 どれくらいの時間が経ったか、わからない。


 アルヴィンの呼吸が落ち着き、心拍が正常に戻り、身体の震えが止まった頃——リーゼルが小さく息を吐いた。


 「……寝れる?」


 「わからない」


 「じゃあ、横になって。眠れなくてもいい。身体を休めるだけでいい」


 リーゼルの手が離れた。


 冷たい手のあった場所だけが、やけに温かく残っている。


 アルヴィンは寝床に横たわった。リーゼルが毛布をかけた。前にもこうされたことがある。最初の夜。「実験データに影響するから」と言い訳しながら。


 今夜は、何も言わなかった。


 ただ毛布をかけて、少しの間そこに座っていて、それから自分の机に戻っていった。


 ペンを手に取る音がした。


 記録をつけているのだろう。今起きたことの、すべてを。


 アルヴィンは目を閉じた。


 瞼の裏に、もう金色の光はなかった。


 代わりにあるのは——暗闇の中で、自分の腕に触れた指先の感触。


 冷たくて、細くて、でも確かだった手。


 その手が「大丈夫」と言った。


 「止められる」と言った。


 ——信じたい。


 信じてもいいのだろうか。


 この手を。この声を。この女を。


 自分のような人間が、誰かを信じてもいいのだろうか。


 答えは出ないまま——いつの間にか、意識が沈んでいった。


 夢は、見なかった。



---


*    *    *


「始祖竜因子安定化計画 緊急記録

 日時:深夜。正確な時刻は記録できず(寝ぼけていたため)。

 事象:因子の突発的な部分覚醒。右腕~肩の竜鱗化。瞳の金色変化。

 トリガー:悪夢による強い負の感情(推定)。

 対処:魔力による鎮静制御。所要時間約四分。

 結果:沈静化に成功。鱗は完全に退行。

 被験者の状態:衰弱しているが安定。

 術者の状態:魔力消耗・軽度。それ以外は——

 …………

 ……手が、まだ震えている。

 これは魔力消耗のせいだと思う。たぶん」

——リーゼル・フォン・メルツハーゲン、実験記録帳・走り書き


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