やどかり
「ああ、もしもし。お母さんやけんど。シンちゃん、部屋にこじゃんと服を忘れて行っちゅうよ。こりゃあ捨ててええが?」
「捨てていいよ」
「ほいじゃ捨てとくきに」
電話を切ると、スマホの黒電話の音がしばらく耳に残った。本物の黒電話の音とは似ても似つかない。俺はゆっくりと身体を沈め、携帯電話を頭上に放り投げた。
【やどかり】
灯台から海をながめると、砂浜の中に点々と岩場が見えた。ごつごつした赤黒い岩は、ただそこにあるうちに波に削られ、何本もの流線が刻まれていく。陸と海の境界線にざざんと白波がたつ。果てのないシーソーゲームのようなものだ。空の青さとともに目に入ったその景色をよそに、階段をおりた。潮干狩りをする人々の中から母をさがすのは至難の業だ。日が高い。
「シンちゃん、貝をこじゃんと拾ってよ。晩御飯にするき」
錆びたスコップが手のひらでざらついた。赤茶の塗装のはげたスコップから鉄の臭いが漂う。まぶたの裏を日差しが焼き、近づいてきた夏の気配が重くのしかかった。よりどころをなくさぬよう、バケツの取っ手をにぎりしめて砂浜におりた。
水の中でもがくように必死に砂をかいて、何度も額の汗を拭う。スコップを突き立てても、ざくざくと手ごたえがない。何にも当たらない。
「そこいらは、もうはや、とられた後ちゃ」
快活な笑い声に顔を上げると、立ちくらみをした。会ったことのない男性だ。岩場から突き出した人影が砂浜に長く伸びて、まるで一つの黒い塊が話しかけてきたようだった。男の麦藁帽の縁が、光でにじんだ。
「そんならおいちゃんは何しちゅうの」
「よう見てごらん。ここに貝がおるろう」
男が指差した岩場には、紫色で西瓜のような模様の入った巻貝がしがみついていた。横から見ると、ゆるやかな三角形に見える貝を、男は無慈悲にビニール袋へと放り込んだ。
「この丸いのも食べれるきに」
男は続けて、楕円形に星型の模様をつけた不気味な一枚貝を岩からはがす。金属の棒で荒々しく住処からはがされた貝は、身体を縮めて危機をやりすごそうとしているらしかった。貝の縁の黒い毛がうごめくのを、俺は無感動に見下ろした。
「巻貝は塩茹でして、身を針で突いて引っ張り出すがよ。酢醤油で食うと美味いが。一枚貝は魚みたいに煮るとええ」
食べられるのは同じだ。男に従って黙々と貝をバケツに放り込んだ。貝を見つけた喜びよりも、もっと見つけなくてはという焦りが勝った。
「えらい大きいのを見つけたね」
ふと手を止めると、男は色黒の顔を中心に寄せるように、くしゃりと笑った。煙草のヤニに黄ばんだ歯のすき間から銀歯がのぞいて、俺はすぐにうつむき、けれども鼻息を荒くして、次から次へと貝をバケツに投げ込んだ。
岩場にとりついた巻貝に手を伸ばすと、思ったよりもあっさり引きはがせることがある。そんなときは決まって、やどかりの足が見えた。やどかりに当たると、俺は岩場のくぼみで海水がたまっているような場所に彼らをそっと送り返した。岩場に戻した途端に逃げて行くやつも中にはいたが、大抵はそこでじっと息をひそめている。じきにくぼみは、やどかりでいっぱいになった。
「やどかりだらけじゃね」
「やどかりは食えんのじゃろ? 一緒に茹でたらかわいそうじゃ」
バケツにもやどかりが紛れ込んでいることには、気付かなかった。少しばかり背伸びをして大きい貝に棲みついたやどかりは、巻貝と同じに見えた。
「どうして同じ種類の貝に入っちゅうやお? この貝が好きながか?」
「ほがなことあるかえ。きっと入りやすいんじゃろ。やどかりも窮屈になったら貝を変えよるよ」
ふうんと唇をとがらして、新たな貝をさがす。俺の足元から伸びる影も、麦藁帽の男と岩に繋がっていた。
押し寄せた波が足元を濡らす。ビーチサンダルをはいた足の指のすき間から海水があふれ、身体が軽くなる。次の瞬間、退き際の波にさらわれてよろめいた。
俺はフジツボだらけの岩場に手をつかず、少しだけ波にさらわれることを選んだ。もう小さな子供でもない。母は心配するだろうが、今日は波が穏やかだ。流されても、自分で泳いで戻ってくればいい。
***
青い空が雲に押しやられるのを見ていた。灰色がかった雲で覆われた空に、姿の見えない軍用機の音だけがとどろく。
季節には少し早いTシャツの袖からのぞく二の腕に、鳥肌がたつ。
もう少し手狭な部屋に引っ越そう。
海の腐った臭いが鼻先をかすめる。真っ赤に茹だったやどかりを、庭に捨てたときと同じ臭いがした。