第五話:素質
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空が白む頃、川に辿り着いた。あの業火で生き延びた者はいなかったのか、それとも恐怖して追わなかっただけなのか、正しいことは分からないが追手も来なかった。シュラルは符を手にして足先を少し川に入れると、水よと呼び掛けた。ざばりと川の水がシュラルを包み、頭の先から足の先まで洗われていく。しまった、ブーツは脱いだ方がよかったかもしれない。疲れていて失念していた。リディリアはそれを眺めながら空中で頬杖をついた。
「人間って服を脱いで洗ったりするものだと思ってたわ。そりゃぁ、私の力があればできないこともないけど、シュラルはおかしな人間ね」
「ここで焚火起こして服が乾くの待ってたら、追手が来るかもしれないだろ」
「それもそっか」
リディリアはあっという間に興味を失って空中で緑色の水彩筆で輪を描いた。土も汚れも落とせたが、ブーツの中のぐちょぐちょ感だけはどうにもならない。岩に腰掛け、右足をずぽんと引き抜く。外側が濡れるだけならいいが、中も乾かさないと不味そうだ。こういった細かい調整はまだ難しい。ブーツにこだわりもないのでもしだめになったら次の街で購入するか、とシュラルはびっちょりとしたそれを履き直した。あぁ、しかし、旅費が、と困ったように空を見上げ、座り続けたい気持ちを奮い立たせ、どうにか立ち上がった。
暇そうなリディリアは今日も今日とてあちらこちらを飛び回り、木の実を見つけてはリスのように齧った。シュラルは疲労感に肩を落とし、とにかく休める場所を求めて歩き続けた。鞄から地図を取り出し、歩いてきた距離を計算し、方角と、リディリアに空から見てもらって次の村や街を求めた。さすがに哀れんだのかリディリアが赤い木の実を差し出してくれた。ありがとうと言いながら齧れば非常に酸っぱくて、ただの嫌がらせだったのかもしれない。けれど、目は覚めた。シュラルは石のように重くなりつつある体を必死に前に進めさせた。
夕方になるかならないか、小さな集落を見つけた。こちらは三十人程度の村だった。
「ここも、なんてことはないと信じたいなぁ」
そろそろ夕闇とあって木製の門扉が閉じられるところだった。断られたら外で座り込んで休もうと決めて門を閉めようとしていた男に声を掛ければ、哀れんだ様子で中に入れてくれた。
この村では子供の声がする。家々から煙も上がっているのでちゃんと人が生活をしている。ほっと息を吐いた。男が心配そうに尋ねてきた。
「大丈夫かい、随分疲れているじゃないか」
「いやぁ、大変だったんですよ」
「そうなのよ! シュラルったら、盗賊に襲われて、その後また盗賊に襲われたのよ!」
ぎょっとされる。シュラルは慌てて手を振り首を振った。
「追われてませんよ! それに、巻き込まれただけです!」
「本当か? もし追われているとしたら、うちの村だって標的に……」
「問題ありません、仲間割れで……火がついて、焼けたので」
リディリアを両手で捕まえて口を塞ぎ、シュラルは平然と嘘を吐いた。ここまで歩いた距離を考えれば煙も見えないだろう。もし誰かが近くを通ったのなら知っていることだ。下手に結末を誤魔化す必要はない。
「……確かに、狩人がそれらしき煙を見たとは言っていたが……」
未だ半信半疑ではあったが、シュラルが演技ではなく倒れそうなのを見て、男はうちに来い、と言ってくれた。こういう村では宿の運営がなく、誰かの家、もしくは前の村のように馬や山羊などの動物と雑魚寝することが普通だ。門を預かっていた男は村の中で護衛も担うらしく、だからこそ監視の意味合いを込めて誘われた。シュラルは素直に礼を言い、男の後をついていった。男が帰ったぞ、と扉を叩けば甲高い声が響いた。
「おとうさん、おかえりなさい!」
「おにいさんだれー?」
男女の双子が顔を出し、シュラルにきょとんと首を傾げる。タイミングまでまったく同じで少し驚いた。双子を見たのは初めてだ。
「きゃぁ! 双子だわ!」
リディリアが目を輝かせて頬を紅潮させ、双子の前に出た。涎を垂らしそうなほどに嬉しそうな笑みを浮かべたリディリアに、妖精という珍しさよりも恐怖が勝ったらしい双子は台所に立つ母親の下へ逃げていく。待ってぇ、とその後をリディリアが追った。
「すみません、妖精って同じものが二つ並ぶのが珍しくて好きなんです」
「危険がないならいいんだが……」
「トロールでもなければ大丈夫です」
シュラルの言葉に男は眉を顰めた。帽子を少し上げて目を合わせながら、にこりと笑う。
「知りません? トロールの取り替えっ子。俺の故郷だと童話があるんですけど」
「このあたりじゃ聞かないな」
なるほど、とシュラルは肩を竦め、足元を眺めた。
「すみません、ブーツを乾かしたいんですがあとで暖炉を借りても良いですか? あと、洗い物のできる場所を教えてください」
「堂々としたもんだな、毒気抜かれちまうよ。アメリア、今日はこいつも飯を食うから、悪いが夕飯は多めでな」
「そちらの小さいお客様は?」
「木の実があれば喜びます」
わかったわ、とほっそりとした女性が微笑み、中腰で暖炉の鍋を振り返った。誰かの手作りはいつぶりかな、とシュラルは案内に従って井戸に向かった。ブーツは食事を作り終えたら暖炉前を借りられるというので、一先ずは衣服の洗濯だ。動物臭がするだろうに見張りに立っていた男、ダンは嫌な顔一つしないでいてくれた。とはいえ子供は素直にいろいろ言うだろうしな、と思い、シュラルは帽子の呪符を解いて自分の首に結び付け、右足の太腿を終点にしていた呪符も、足首に巻き直した。この呪符はシュラルの命より大事なものなのだ。シャツと下着という情けない姿になりながら、暗闇をいいことにざばざばと服を洗い、絞る。替えの服も荷物になるのであまり持っていない。グローブとズボンだけは外すわけにも着ないわけにもいかない。
「不便なんだよなぁ。こういう時は真っ暗闇が有難い」
ぶつくさ言いながら洗濯を終え、できるだけ水を絞った。ズボンの替えを履いて長袖のシャツを手のグローブにぎゅっと突っ込み、肌が出ないようにしてからコートを持って戻った。
「おかえりなさい、こっちで干しておきましょうね」
この家の奥方、アメリアが微笑みながらコートをと帽子預かってくれて壁に吊るした。呪符の巻き方に気になりはするのだろうが、何も言わないでおいてくれた。火を使っている家の中なので乾燥防止にもちょうど良いのだろう。さぁどうぞ、と席に促され、既に軽く一杯楽しんでいるダンの隣に座った。
「あぁ、マシになったな。名前はシュラルだったな、酒は飲めるか?」
「少しなら」
よし、とダンはシュラルのコップに濁った水を注いだ。この辺りの森で取れる果実を使った自家製の酒らしい。果物らしい甘い香りと、それを裏切る度数の高さに思わず咽込んでしまった。ははは、と笑われ、テーブルの上に並んだ料理をどうぞと勧められた。森で取れるキノコと鶏肉のスープ。木の実をすり潰して焼いたパンは平たく、焼きたてはもっちりしている。それに酒か水、これだけの食事だが久々の温かい食べ物が嬉しくて、シュラルはじっくりと味わうように食べた。
「シュラル、お前妖精憑きってことは、ドールなんだろう? あんまりこの変じゃ見かけないが、どこに行くんだ」
「調べ事があって王都まで。王立図書館にならいろいろあるって聞いたんだ」
「図書館ねぇ、紙の束が物事を教えてくれるのか?」
符術師にはね、と答えた。識字率は大きな街から離れれば離れるほど下がる。そういった場所では言葉と実際の行動こそが教科書になるのだ。それもまた生きる知恵そのものだ。スープを綺麗に平らげてひと息つけば、おかわりあるわよ、と言われ、お言葉に甘えた。双子の前に座ったリディリアは木の実を齧りながら似たような動きをする双子をにんまりと眺めていた。
「隣の村にはドールがいるらしいが、そもそもドールってなんなんだ?」
隣の村、に少し体が揺れそうになったのを堪え、そうですね、と生返事をしながら器を受け取った。
「そこにいるリディリアみたいな妖精に、力を借りられる人、って感じですね。たとえば、土を掘り起こして畑を耕したりできますよ」
「ほう、それは便利だな。ドールってのは誰にでもなれるのか?」
「素質は問われます。ええと、絵筆ってわかりますか?」
そのくらいはわかる、と小突かれ、すみませんと謝る。
「絵を描くように、妖精の飛ぶ軌跡が絵の具が伸びるみたいに見えることが、素質です」
緑色の水彩筆がすぅっと伸びるように見えるんです、と言えば、皆の視線を受けたリディリアがえへんと小さな胸を張り、食卓の席をひゅるりと飛び回った。
「わぁ、きれーい!」
「とんでるだけじゃん!」
女の子の方には素質がありそうだ。男の子はつまらなそうにぶすくれて、母親のアメリアに撫でられている。ただ、気をつけなくてはならない。
「素質があっても妖精との付き合い方を知らなければ、死んでしまうことがありますから。なんの勉強もせずに符術師に、なんてことはしないでほしい」
ダンは真剣な表情でそれを聞いていた。目の前の青年は生きてはいるが、とダンの視線は呪符を見た。
「その包帯も、その関係か?」
「いや、これは……、あながち間違いでもないけど。単純に、妖精の機嫌を損ねて、死ぬことが多いんですよ」
土を扱う妖精なら、埋められて。水を扱う妖精なら、水に飲まれて。風を扱う妖精なら、切り刻まれて。火を扱う妖精なら、その身を焼かれて。
大人たちがリディリアに対し恐怖を含んだ眼差しを注ぎ、先程まで褒め称えるようなそれを受けていたリディリアはムッと唇を尖らせた。
「なによぅ! 私はそんなことしないわよ! 四枚羽は心が広くて寛容で優しいのよ!」
ふんす、と大きな鼻息の音を立てて胸を叩く小さな妖精に、食卓は笑いに包まれた。
後片付けの済んだ暖炉の残り火でブーツを干させてもらい、薪と蝋燭を無駄にしないため、就寝は早い。ここまで歩きどおしだったので、シュラルも居間の床を借りて布を敷き、鞄を枕にすぐに寝入ってしまった。
夜半、どの家も寝静まり寝息と梟の鳴き声だけが聞こえる頃、ガシャガシャと物々しい音が村に響いた。遠くで扉を叩く音がした。シュラルは、あまりの眠さに目を開けることは叶わず、ただ眉間に皺を寄せた。
「おい、誰かいるか」
掛け声を掻き消すように扉が叩かれた。シュラルは呻き、それでも起き上がれず、その間にどすどすと苛立ち混じりの足音が横を抜け、扉に向かった。ダンだ。
「こんな夜更けに誰だ」
「騒がせてすまん、人を探している」
「人だって? 騎士様が、なんでまた……」
来訪者は騎士なのか、と思い、急に目が覚めてきた。まさか隣村の焼失の件ではないだろう。あまりに早すぎる。そっと瞼は閉じたまま、会話に耳を澄ませた。
「ドールの兄さんならいるが」
「男ではない、女だ。赤紫の髪で、腰のあたりまで長さがある」
「いや、俺はこの村の門番だが、今日来たのはそこの兄さんだけだ」
「確認させてくれ」
おい、と止める間もなく騎士はガシャガシャと近寄ってきて、シュラルの布を捲った。じりっと熱を感じたのは顔を確認するためにランタンを寄せられたせいだ。カシ、と金具の軋む音が離れていく。
「この騒ぎでよく寝ている」
「随分歩いてきたらしいからな。それに、酒も飲ませてしまった」
「そうか、邪魔したな。もし赤紫の、髪の長い女を見掛けたら、近くの街へ伝令を走らせろ。王国騎士団から礼が出るぞ」
「わかりました」
ガシャガシャと鎧の音が去っていく。ダンはまったく、とぶつぶつ言いながらシュラルの布を掛け直し、寝室へ戻っていった。
遠くで響く音がなくなって、ダンのいびきが聞こえるようになってから暫くして、シュラルは体を起こした。
「なぁにあいつら、乙女の美肌の敵だわ、嫌な感じ」
ふわっとシュラルの横にリディリアが浮かび上がり、むっすりと言う。符術師が村を乗っ取り盗賊のようなことをしていたり、妖精を捕まえて王都に売っていたり、王都を守るべき王国騎士団が報奨金さえ用意して人探しをしている。
「いったい、この国で何が起こってるんだ?」
シュラルは王都への一抹の不安を抱きながら、再び横になって体を休めた。
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