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7、春の雨音

 雨である。

 洗濯物は乾かないし、お庭の掃除はできないし。お使いに出るのも気が重い。お隣の屋敷から伸びる薄桃色の花びらも、重そうに雫をしたたらせている。雨が降ると花が散るのも早まる気がする。やだな。

 憂鬱さを雨のせいにする。ほんとは雨はそんなに悪くはない。雨は暮らしに必要なものだし。私自身、そんなに雨が嫌いではない。安全な屋敷の中にいることができるならばなおさらだ。


 私の憂鬱さの原因は、数日前のできごとのせいなのだ。憂鬱……ではないのかもしれない。けれどずっと、胸も頭ももやもやする。

 アレクがあんなことをするなんて。

 ――好きな人、いるの?

 彼は私にそう問うと、

 ――キスしていい?

 そう言って、顔を寄せたのだった。……結果は未遂だったけど。


 ああ、アレクのまつげ長かったなあ、唇、すぐそこにあったなあ。彼はどんなふうにキスをするのだろう。考えると頭がぼーっとする。いつにも増して、ぼーっと。


 私は自分に起きたできごとを思い出しては頬を染めた。いつまでたっても赤いままだから、もともと私はこれぐらい血色良かったですよと開き直って、深呼吸して、キッチンに向かう。雨だろうと憂鬱だろうと関係なく、やらなくてはいけない仕事は、やらなくてはいけない。


「ミリア、ジスラン様のお茶の用意お願いできる?」


 同僚に声をかけられて、私は「はーい」と返事をする。ジスラン様に関わる仕事をしているメイドは、私以外にもいる。私がジスラン様の専属であるわけではない。

 なのに、アレクは私を妾だろう、なんて誤解していた。だったらほかのメイドたちも怪しまれてもいいのでは。いや、怪しんだところで、どのメイドだって妾なんてことはないのだ。

 そもそも、ジスラン様は奥様を亡くしてから、再婚もせずに一人でいらしていて。ご親戚の方が、ジスラン様に「良いご縁」のお話をしに来ても、断っていると聞いたことがある。

 だから私はとにかく、ジスラン様は、亡き奥様のことをひたすらに愛していらっしゃるのだと……思っていたのだけれど。


 ポットで茶葉を蒸らしながら、私はぼんやり考える。

 ジスラン様が奥様――ポーラ様を失って、もう二十年は経っている。二十年といえば私が生まれてから今までの期間ずっとだ。その間ずっと、亡くなった人のことを愛し続けているということか。……それはとても美しいけれど。同時に少し悲しいことかも、と、思ってしまう。

 いやでも、すごいか。すごいよな。愛を貫く人なのだジスラン様は。……たぶん。


「あ、ちょっと、ミリア、お茶! 大丈夫? 濃くない?」


 再び同僚に声をかけられて。私はようやく手元に意識を戻した。

 茶葉を蒸らす時間は既定の時間をはみ出ている。慌ててのぞいたポットの中のお茶は……なんだかずいぶん濃い色だな。これをジスラン様に出していいものか……。

 入れ直すか迷っていたら、そのタイミングでキッチンの入り口に人影。


「ついでだから自分で持って行こう」


「ジスラン様!」


 わざわざご主人様自らキッチンにお寄りになるなんて恐れ多い……とまではいかない。彼自身、キッチンで料理をすることもあるし、こうやってお茶を取りに来ることもある。

 しかし今は困る。私の用意したのはずいぶん濃いお茶になってしまった。失敗を隠蔽する前に見つかってしまったことに慌てていたら、ジスラン様はポットをのぞき込んで、笑った。


「たまには濃いのもいい」


「もっ、申し訳ございません……!」


 淹れ直せ、と命じられるのも覚悟していたのに。ジスラン様のやさしさにどっぷり甘えることにして、トレイの上に茶器を整える。


「ミリアに少し頼みたいことがある。部屋に来てもらえるか?」


「承知しました」


 あ、もしかしたらジスラン様の部屋に行って、皆のいないところでお小言かな、とも思ったけど。……いやあ、これまでそんなふうに、叱られたこともないからなあ。ジスラン様はこの程度のことで従者を責めることはない。


 ◆


 ジスラン様の部屋に着き、改めてカップに注いだお茶はかなり濃い目ではあった。一口、二口。ジスラン様はそれを口に含み、そして眉間にしわを寄せた。苦かったのかな……? と心配になるが、どうやら彼にそんな表情をさせたのは、お茶のせいだけではないらしい。


「どうした、ミリア? なにか変わったことがあったのか」


 問われて、私は胸に手を当てる。ジスラン様からの質問への、正しい答えがわからない。

 こういうときはとりあえず、しらを切ろう。


「いいえ」


 答えた私に、ジスラン様は言葉を足す。


「たとえば隣の……春の妖精と」


 アレクの存在をピンポイントで指摘されて、私は危うくポットをひっくり返しそうになる。私の動揺する姿を見て、ジスラン様は更に眉間にしわを寄せていた。こういう険しい表情を彼がするのは珍しい。


「やはりな。ミリア、あの男にちょっかいを出されているんだろう?」


「いえ。そんなことは」


 私はすべてのものから手を離し、ふるふると体の前で振って見せた。ジスラン様は濃い液体を飲み干したカップをデスクに置くと、ふっと視線を窓の外に向ける。

 今日は雨、どんよりとした灰色の空。そこにある薄桃色の花も、くすんで見える。


「この窓からは庭がよく見える。彼が君と一緒にいるところも」


「!」


 私は体中の力が抜けるみたいだった。足が震える。見られた? 何を? どこからどこまで? 

 この前アレクと庭で話をしたのは、屋敷の階段下だから、ここから見えることはない。この窓から見える位置に移動したのは……アレクに手を引かれたときだ。手を引かれ、抱き寄せられ、「キスしていい?」と問われたときだ。

 誰かに見られたら、誤解されるに決まっていることのオンパレード。私はひいいと内心叫びながらも、なんとかごまかせないかなとも思う。


「少し話をしただけです」


「話をするにしては距離が近かった」


「何もされておりません」


「でも、あの男は君に興味があるようだ。……マルゲリットの婚約者でありながら」


 ジスラン様の言葉に威圧感を覚え、私はぐっと息をのむ。

 そして、アレクにときめく気持ちも、ジスラン様への畏怖も。すべてまとめて吐き出した。


「私はからかわれているだけです。ジスラン様が心配されるようなことにはなりません」


 アレクはコルネイユ家に長くいたい、と言った。それはつまり、マルゲリット様と一緒にいたいということだ。

 私はお隣の、この、レスタンクール家の情報を知るために彼に利用されているだけで。それでついでに、からかわれているだけで……。

 たぶん私の「好き」と、アレクの「好き」は種類が違う。それを考えたら、じわりと涙ぐみそうだった。


 そんな私に、ジスラン様はデスクの上から、一通の封筒を取り出して見せた。


「手紙が届いた」


 手紙? といぶかしむ私の前で、彼は中から便箋を取り出す。どうやらすでに開封し、一読したあとのようだ。


「流暢な文字だ。宛名は私。差出人は、アレク……あの男だろう」


「え?」


 彼がジスラン様にお手紙を? いつの間に、と考えても、お隣同士だ。誰かを間に介さなくても、屋敷に投げ込めばいい。

 封筒には濡れた跡。ということは、届いたのは今日?


 私は背中にたらりと冷たいものが伝う気落ちで、ジスラン様を見つめた。


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