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4、お花見デート

 アレクが選んだのは川辺の広場。川沿いにはずらりと、薄桃色の花を咲かせる木が並んでいる。ここの花は満開を終えて、風が吹くたびにはらはらと花吹雪。桃色のかけらが川面を流れて、この時期は川まで桃色だ。


「すごいね。こんな景色、ほかの街でもなかなかないよ」


 彼はどんな街の景色を知っているんだろう。聞いてみたくもあったけど、聞いてはいけないような気もした。私は視線を春の花に向ける。


「でも、お屋敷にある木ほど、立派なものはないね」


 川沿いの木々はいずれもまだ若い。確か数年前にこのあたりの堤防が整えられたときに彩りとして植樹されたものだ。お屋敷のものとは年季が違う。


「そうだね。ほんと、あの木は立派。マルゲリット様が見とれるのも納得」


 アレクは自分の婚約者の名を気軽に口に出す。私は彼がその名を呼ぶたびに、ちくりと痛む自分の胸の愚かさに苦笑する。


 私たちは広場の芝生に並んで腰を下ろした。斜めになった土手は、大通りを歩く人からは見えにくい位置。きっと私たちのことなど、今はだれも気にしていないだろう。


「半分こずつでいい?」


 アレクはまず、パイを半分にちぎった。お店の人がつけてくれた紙ナプキンで両端を抑え、器用に半分に割る。

 どうぞ、と渡され、私は受け取る。さすがにここまでしてもらって、食べられませんとはならない。というか、とても食べたい。

 私だってマルゲリット様と同じで、この赤い実のジャムが好物なのだ。

 かじりつけばさくりとパイの歯ごたえ。ぎゅっと噛めば中からじゅるりとたくさんのジャムが口の中へ。甘すぎず、しっかりと木の実の豊潤さが伝わるジャムだ。おいしい。


「さいこう」


 私はそのおいしさに震えながら、感想を口にする。すると、隣で食べていたアレクも、うん、と嬉しそうにうなずいた。


「ほんと、最高だね。すごくおいしい」


 パイをお互いぺろりと食べ終えて、そしてアレクはタルトを前に、ううん、と少し悩んでいた。これは、パイと違って力ずくで半分こするのは難しい。

 少しぐらいボロボロになってもいいよ、と言おうとしたところで、私の口元にタルトが差し出される。


「ミリア、先にかじって。半分」


 アレクの指示に、え、え、と私はためらう。

 タルトは手のひらに収まる小さいものだ。ぱくりとかじれない大きさではない。いや、育ちのいい淑女なら、そんなことはするべきではない。ちゃんとお皿にのせて、ナイフやフォークで召し上がるべきだ。そもそも、そういう人は、こんな川辺に座って、手づかみでお菓子を食べてはいけない気がする。

 背徳感と食欲と恋心が私をぐちゃぐちゃに動揺させる。訳がわからないまま、私は結局、彼の差し出したタルトを、言われるがままに半分かじっていた。

 口の中にジャムの甘酸っぱさと、一緒に重なるクリームの甘さと、タルトのほろほろとした食感と、それから私を見てにこりと微笑むアレクと、その後ろにひらひらと舞う薄桃色の花びらと……ああ。

 もぐもぐと口を動かして、ごくりと飲み込んで。頬の熱さを知ったときには。アレクは残った半分を、何の抵抗もなく自らの口に放り込んでいた。


「あ、これもすごくおいしいね」


 私はジャムよりも赤い顔になった気分。うん、とうなずいたら、アレクがふいに私の唇に指を這わす。


「ジャム、ついてる」


 その指摘にも行動にも、そのあとアレクが私の唇を撫でた指をぺろりと舐める仕草も、全部よくない。私はもう全身がジャムよりもどろどろになりそうな……私は今人の形を保っているだろうか。そんな心配すらした。

 そんな私の目を覚まさせたのは――。


「ん、マルゲリット様もきっと喜ぶね」


 彼の口からこぼれるその人の名と。きし、と、再び訪れた私の胸の痛みだった。


 ◆


 屋敷に戻り、お使いの品を厨房に届ける。ジスラン様のお茶の葉っぱや、あといろいろ。

 買い物かごの中に残ったのは空っぽの小さなお菓子箱。中身はアレクと食べたけど、こんなものすら捨てられずに持って帰ってきた私はなんというか……けっこう、諦めが悪いのかもしれない。あと貧乏性。

 屋敷の別棟、従者たちがそれぞれ与えられている個室に、私はこっそりその箱を飾る。

 おいしかったな、パイもタルトも。きれいだったな、川辺の花。それから、アレクも……彼もとてもきれいだったし、とてもすてきだった。

 彼のことを思い出すと触れられた唇が熱くなる。その気持ちを、彼のセリフを思い出して、落ち着かせる。


 ――マルゲリット様もきっと喜ぶね。


 そう。アレクはお隣のお屋敷のお嬢様の婚約者なのだ。私が好きになっていい人ではない。こんなふうにふたりだけの想い出を、密やかにつくっていい人ではないのに。

 だけど、小さな秘密がとても嬉しい。

 誰にも知られなければいいのだ。これは秘密の恋だから。

 この空っぽの箱に、自身の恋心を詰めて隠してしまえたら……そんなふうに思うけど、たぶんそれも、難しい。

 困ったな、会えば会うたび、私はアレクのことを好きになる。


 アレクは無事に、あのプレゼントを、マルゲリット様に渡せただろうか。

 そして一緒にお菓子を食べて……私にしたみたいに、彼女の唇も指先で拭うんだろうか。……いや、きっとそれ以上のことも、と。想像してはいけないことを想像しそうになって、私は慌てて意識を振りほどく。だめ、これ以上はだめ。考えたらいけない。


 妄想から逃げるように、私は仕事に戻ると、他のメイドたちと一緒に炊事に掃除に洗濯にと手を動かした。働いている間はあまり、アレクのことを考えなくてすむ。


 ◆


 その翌日、私はジスラン様から仕事を頼まれた。


「ミリア、この本を探してくれないか」


 渡されたメモには、いくつかの専門書の名前。


「承知しました」


 私はそれを持って、レスタンクール家の書庫に向かった。

 ジスラン様のご厚意で、屋敷の従者たちは自由にこの部屋の書物を読むことが許されている。学びたい者は学べ、と、ジスラン様はよくおっしゃっている。

 私がこれまで興味を持ったのは小説や、料理の本など。辞書的なものも借りたことがあるかな。

 おもしろそうな新しい本が追加されているのを横目で見ながら、私は書庫の奥へ進む。


 ジスラン様が必要とする私には難解な分厚い本たちは、あまり人の触らない場所にあるのだ。私は棚に視線を巡らせる。……あった。

 これと、これと、と、取り出して、そばのテーブルに並べる。

 あと一冊が見当たらない。書庫の本棚は可動式、よいしょと力を込めて棚を動かす。

 定期的に書庫の掃除も行ってはいるけれど、いつの間にかホコリが溜まってる。ここもあとでお掃除しよう、なんて思いつつ、出てきた棚に並ぶ背表紙を確認した。


「……あ」


 私は思わず声を出し、そしてそっと周囲を確認する。今この書庫にいるのは私だけ、なんだけど。少しばかりの後ろめたさがある。

 そこにあったのは、レスタンクール家の家系図だった。


 頭の中に、アレクの声がこだまする。


 ――ねえ、ミリア。何かわかったら教えてよ。


 彼は、レスタンクール家とお隣のコルネイユ家の不仲の原因を知りたがっていた。

 私が屋敷の皆からなんとなく聞いたことがあるのは、百年ほど前に何かあったらしい、ということなのだけど。

 もしかしたらこういうものに、何かヒントがあるんじゃないかな。私が触れる場所にあるんだし、お屋敷の極秘資料というわけではないはずだ。

 私はそれを本棚から抜き取り、開いてみる。

 数代前から今のジスラン様までの、レスタンクール家に連なるお名前がずらりと記載されていた。


 ジスラン・レスタンクールに兄弟はいない。妻の名はポーラ……ジスラン様の奥様は、すでに亡くなっている。そしてジスラン様にお子様はいらっしゃらない。

 ジスラン様のご両親から枝分かれした人たちの名前をたどって、ふむふむと考える。ジスラン様のお父様がシリル様、お母様がセゴレーヌ様。お二人とも亡くなっているが、そのご兄弟に連なる方々――ジスラン様の従兄弟たちは、この屋敷にも時々いらっしゃる。

 でも、たぶん。不仲の原因はもっと昔の人たちだ。

 お隣のコルネイユ家とのいざこざがあったのは百年前……百年って、何年前……いや、百年は百年前……だからそれは何代前? そんなことを考えながら名前を眺める。

 シリル様のお父様……ジスラン様からみると祖父になる方がエドメ様、その奥様がマノン様……私はそこで、家系図をたどる指を止める。

 ジスラン様の祖父のエドメ様。彼にはお姉さまがいた。リュシー様……彼女の没年を見て、私は少し眉を寄せる。彼女は若くして亡くなっていた。

 それは今から約百年前のことだった。


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