2、両家の秘密
アレクの美しさを思い出してはため息が出る。
屋敷に戻り、ご主人様――ジスラン・レスタンクール様――のお部屋の用事をしながらも、頭の中にはぽわぽわと、あの人が舞い踊っている。
そんな私の様子に、ジスラン様は首をかしげた。
「どうした、ぼーっとして?」
ジスラン様は齢五十、今年二十歳になった私とは親子ほどの年の差だ。実家の父とは比べ物にならないぐらい品のある方だけど。二年前からこのレスタンクール家で勤め始めてから、とてもよくしてもらっている。
「お隣に、ものすごいきれいな男性がいたんですよ。まるで、春の妖精のような」
すると、ジスラン様は何か思い当たるような表情をした。
「会ったのか」
その言葉に私は、ジスラン様がすでに、彼のことを知っているのだと気づく。
はい、と私が返事をすると、すらすらと次の質問が続く。
「名前はアレク。歳は二十二、と聞いたが。それぐらいだったか?」
二十二。自分より少し上だ、と、手に入れた彼の情報に密やかに喜びつつ、私はこくこくとうなずく。
「どんな話をした?」
「あ……、え、と」
私は少し咎めるようなジスラン様の口調に、目を泳がせる。
私がメイドとして雇われているここ、レスタンクール家とお隣のコルネイユ家は、実のところ、長らく不仲なのだ。遡れば百年ほど前に、原因があるらしいけど。私ははっきりとした理由を知らないまま、この屋敷で働いている。
お隣のメイドたちとも、あまり積極的な交流はしていない。柵越しに姿を見ても、軽く会釈をしてお互いに立ち去る。なるべく関わり合いを持たないように。
それが、どうだ。アレクは。お客人とはいえ、まさに、垣根を越えて、レスタンクールの敷地に入ってきて、私に話しかけたわけである。小さな罪悪感を覚えた私に、ジスラン様は静かに言った。
「いい。叱ったりはしない。どんな話をしたか教えておくれ」
ご主人様であるジスラン様は、温厚でおやさしい方だ。
叱ったりしない、という言葉を信じて、私は庭であったできごとを正直に話すことにする。……それに、機会があれば私もジスラン様に尋ねてみたかった。あの花を手折ってもよいものか、と。
「彼は花が欲しいとおっしゃいました。マルゲリット様がずっと見てらっしゃるそうです、花を」
「花?」
「あの木の花を」
私は屋敷の窓から境界にある木を示す。ジスラン様はすぐにどれだかわかったようで、ああ、とうなずき、そして言う。
「あれはあっちの屋敷の木だ。次に会ったら、好きにしろと言ってやれ」
「わかりました。お伝えします」
別れ際にアレクは、またね、と私に言った。ということは、しばらくはお隣の屋敷に滞在する予定なのだろう。また会える、そして、そのときには嬉しい知らせをしてあげられると思ったら、とてもわくわくした。
私がこっそり胸の中で期待を跳ねさせていたら、ふいに、ジスラン様が言う。
「あれは、マルゲリットの婚約者だ」
「え」
私の胸の高鳴りは、一気にぎゅんと落ち着いた。……ということは、私のときめきは、ここまでにしておいたほうがよさそうだ。というか、しなくちゃいけない。マルゲリット様のお相手に、横恋慕するほど私も愚かではない。
早速の失恋か、と、がっかりした私にかまわず、ジスラン様が言葉を続けた。
「しかしまあ、よくも見つけてきたものだ。マルゲリットが両親に、結婚するなら、と、条件をつけて探させたらしい。見目麗しく、たおやかで、繊細で、春の妖精のような男……」
私は半ば前のめりになって、ジスラン様に言う。
「まさしく! まさしくそのとおりの方でした」
私の勢いに、ジスラン様は一瞬目をむき、そして、破顔した。
「ミリアが言うなら間違いない。……そうか、理想の相手が、見つかったんだな、マルゲリットにも」
笑ったジスラン様が呼ぶお嬢様の名前には、少し悲しい響きが混じっているような気がした。
◆
次の日。私は仕事の合間合間に、時間を見つけては庭に出た。はっきりとした約束の時間は決めていなかったから、アレクにいつ会えるかはわからない。だからその機会を増やすためにだ。
そんな私に同僚が笑う。
「ミリア、そんなに何度も花を見に行かなくても」
まさか隣の屋敷の客人に会うためだとも言えず、私は花を理由にする。
「だ、だって! しっかり見とかないと散っちゃうし」
同僚は、私の言葉に目を細めてうなずいていた。
「そうだねえ、見頃はあと数日」
この薄桃色の花は、一気に咲いて、一気に散ってしまう。雨でも降れば更に早く。みんな、そのことをよく知っている。
花を見に行くふりをして、私は庭で彼を待つ。
もしかしたら今日はいないかなあ、期待しすぎる自分にあきれるし、……だめだなあ、彼はマルゲリット様の婚約者。私が好きになってもどうにもならないのに、なんて、拗ねた気持ちもわいてくる。
ため息をついてうつむいた。足元には散って落ちた花びらがじゅうたんになっている。私の靴の先に、またひとひら。薄桃色の花びらが舞い落ちる。
「ミリア!」
名を呼ばれ、私は顔を上げた。
柵の向こうから近づいてくるその人が手を振るのが見えて、私は自分の心臓が、どうしようもなく舞い踊るのがわかる。
アレクは今日も簡単に柵を飛び越えて、私の前に着くなり尋ねた。
「ね。花のこと。ご主人様に聞いてくれた?」
そうだそうだ、そのことを。私は彼に伝えなければ。
「この木は、そちらの。コルネイユ家のものだから、お好きにどうぞと」
「ほんと? じゃあ、一枝……」
アレクは嬉しそうにそう言って、早速とばかりに満開の花のなる枝に手を伸ばした。
私ははっとして、それを止める。
「待って、アレク。ちゃんとコルネイユ家の方に、花を取っていいかどうか尋ねたほうがいいよ」
アレクの今の立場はお客人。屋敷の所有物を好きにするのは問題ありだ。
すると彼はああ、とつぶやき、そっと手を下す。
「一枝でも?」
「うん。もし、アレクが枝を取ったのが、こっちの、レスタンクール家からの意見のせいだとか伝わったら。なんかよくない気がするし」
念には念を入れて。石橋は叩きまくって。……遠くの国にはそんな教えもあるらしい。
たかが花を一枝折るぐらい、と思われるかもしれないけど。私は揉め事の種は作りたくない。
慎重さを重視する私に、彼はちょっと首をかしげ、尋ねた。
「なーんか、僕もなんとなく思ってたんだけど。ここの屋敷……お隣同士、あんまり仲がよくない?」
私はその問いに、あたりを伺いつつ、声をひそめてうなずく。
「うん」
するとアレクは残念、とため息をついた。
「お嬢様をびっくりさせて、喜んでもらえるかなと思ったんだけど。結局枝を取っていいか尋ねないといけないなら、サプライズのプレゼントにはならないね。残念」
ああ、彼は。マルゲリット様を喜ばせたいから、花を欲しがっているんだよなあ。
ひとりしょんぼりしていたら、アレクは私の顔をのぞき込んで尋ねる。
「でもどうして? いつから不仲なんだろう? ふたつの屋敷は……」
今度は私が首をかしげる。はっきりとした理由は私も知らない。
「百年前ぐらい前からってことは、聞いたことがあるんだけど」
私の答えに、アレクが驚く。
「そんなに前のことで?」
「うん」
改めて尋ねられると、私も不思議だとは思う。
「なんか相当な事件でもあったのかな」
そんなことをつぶやくアレクの瞳は、きらきらと輝いていて。私の中の好奇心をくすぐろうとする。
百年の年月が経てもわだかまりが解けないということは、それなりの理由があったということだろう。雇われの身としては詮索しないほうが働きやすい。だから、目をそらしていたのに。
「ねえ、ミリア。何かわかったら教えてよ」
「……うん」
困ったことに、私は彼の望みからは、目をそらせそうにない。