Story.1 召喚
パクスミール国内・ラコスデント神殿より南、草原地帯にて。
徐に瞼を持ち上げる。青で塗りたくったキャンバスに、白い絵の具を筆でサッと撫でたみたいな空が見えた。その胡散臭い空にリアリティを持たせるのは、天空の中心に陣取り、これでもかと言うほどの自己主張を見せつけている太陽である。とはいえ、春というこの季節に見合うように、太陽は丁度いいくらいの暖かさを持った光を下ろしていた。
寝起きの彼女にとって、その丁度いい光は、とても眩しく感じられる。眉間に皺を刻みながら、小さく呻いて起き上がった。ぼんやりとする頭の中枢が叱咤するように、軽く首を回した。口の中で言葉にもならないものをむにゃむにゃと呟きながら、欠伸を噛み殺す。
彼女の後ろでゆっくりと立ち上がったのは、一匹の獣。つい先ほどまで、身体を枕代わりにされていた、純白の毛を持つライオンである。
「おはよ、ホノオ」
ホノオと呼ばれた白いライオンは、静かな碧眼を、自身の主――ガイア・モナーコスに向ける。
ガイアは、自分の頭をのせていたために乱れている毛並を直すように、そっと掌でライオンの身体を撫でた。太陽を受けている白い毛は銀にも思え、神秘的かつ神々しい。
≪よく眠れたか?≫
ガイアは微笑む。長い灰色の髪を、左手で払った。ペガサスを模した銀の刺繍。藤色の服の中央には、大粒のオパールが太陽を受けて虹色に輝く。
「勿論。ホノオの毛はフワフワだし、体温もあったかいし」
≪そうか。ところで……≫
ガイアの正面に移動し、低姿勢になる。一体どうしたのだろう、と首を傾げた。この体勢は、いつも通りならば自分が乗ると指示したときのものだ。
≪そろそろ行かなくて、良いのか?≫
「何が?」
案の定、彼は己が主を乗せる気でその体勢をとっているようだが、ガイアはまだ、あまりここを動く気はなかった。二度寝に入るつもりは無いものの、この柔らかな草の生い茂る中で、暖かな日を浴びながら、どうでも良い話をダラダラとするのも悪くはないと考えている。
相も変わらず静かに見つめ返してきていたライオンから視線をそらし、爪に傷がないかを何となくチェックし始める。そこで、ホノオの口から、ぽつりと。
≪…………午後の儀式だ≫
「まだ時間に余裕あるでしょ?」
≪……お前が寝ていた時間、どれくらいだと思う?≫
ガイアの動きが、ピタリと止まる。恐る恐ると言った様子で訊き返してみると、予想の倍の時間の答えが返ってきた。サアッと彼女の顔から血の気が引き、
「起こしてよ、もう! 全速力ね!」
叫びながら、ホノオにまたがった。瞬間、ライオンは一声吼えてから、草原を駆け抜ける。
「あっ。お婆様! 戻ってきました!」
聖水を浸した銀皿の前。待機する巫女たちが、声を上げた。
「すみませんごめんなさい休憩時間だと思ってのんびりしすぎました本当ごめんなさい!!」
町から離れ、大陸の中心部に広がる大草原に建築された、神聖な空気を纏うラコスデント神殿。パクスミール国の国章である、一角を持つペガサスが刻まれた門を潜り抜け、ほとんど飛び込む形で、ガイアと彼女を乗せたホノオが入ってくる。同時にガイアがホノオから飛び降りて、土下座せんばかりの勢いで謝罪を口にした。
神殿に集まっている人々は、驚いた様子で目を瞬かせ、その様を凝視していた。
「ほほほ……出来の良い〝聖獣〟に恵まれてよかったですね、ガイア・モナーコス……?」
微笑の裏にどす黒い殺気を滲ませた老婆ケイ・カロシーニが、祭壇の上から、他人行儀に彼女を呼び、見下ろす。儀式が始まるのを待っていた神殿の者達も、何とも言えない苦笑を浮かべていた。
ホノオが、口を挟む。
≪ガイアは、この頃人々の傷や病気を癒すために走り回っていて、まともに寝ていなかったのだ。大目に見てやってはくれないか?≫
それが起こしてくれなかった理由か、と心の中でガイアは納得する。ホノオの言う通りで、だから午前の儀式を終えてすぐ、休憩時間に安眠を求めて、春の陽気である外へと繰り出したのだ。……にしたって、起こしてほしかったが。
「ホノオ、あなたは主人を庇うことでなく、責めることも覚えなさい」
仕方ないですねなんて甘い答えは返って来ず、彼は大人しく引き下がる。生みの親であるケイにぴしゃりと言われてしまえば、逆らえないのだ。
老婆は呆れたように溜息を吐く。
「既に多くの方がお待ちです。お説教は夜にしましょう。来なさい、ガイア」
自分以外の巫女たちがくすくすと笑った。儀式は神聖なものであり、巫女である全員が祈りを捧げてからでないと、始めることができない。だからこそ、ケイはこんなにも怒っているのだろう。
うわあ夜かぁ……と思いながら頷いて、光の糸で織られた外套を羽織る。神殿に勤める侍女がそっと近づいてきて、カチューシャの形を模したティアラを差し出してくれる。頭に慣れた手つきで飾ると、ティアラについた宝石が美しく輝き、ガイアに随分よく似合っていた。
己の〝聖獣〟を促しながら祭壇に上り、台座の上の、聖水が満たされた銀皿の前に立つ。今日も今日とて人が多い。儀式は、一ヶ月に一回だからこそ多くの人が集まる傾向にある。
(今日はどんな子が生まれて来るかな)
そっと自分の掌を見下ろして、拳を作る。どのような生き物になるかは、媒介者となる巫女にも、大神官であるケイにも分かるものではなかった。
〝聖獣〟
この千年に渡って、人々に与えられてきた守護神の総称だ。〝聖獣〟を従えるには、最低限の魔法学の知識と、彼らを扱うに相応する魔力が必要になる。ただ、この条件を満たしていない人間の方が稀なので、実際は〝聖獣〟を持っている方が普通だと言える。
〝聖獣〟は自然に生まれてくるものではなく、神殿で聖なる魔法を扱うことのできる人間によって、生み出され与えられるものである。〝聖獣〟の本質は、自分の中の魔力が目に見える形で出現したものであり、主と分身の関係にある。また、主の魔力を制御する役割を担っている。大きくなり過ぎた魔力は暴走や間違った使用によって、大惨事を起こしかねない。それを未然に済ませるために生み出されたのが〝聖獣〟だ。また、魔力の暴走は魔力を所持する本人にも負担になるので、〝聖獣〟が個人の「守護神」の立場を確立することになった。
通常、事前に〝聖獣〟を従えられるだけの魔力量が足りているか計測され、問題がなければ儀式を受ける手続きをすることが可能だ。実際に従えるようになるのは、平均的に十六、七歳にあたる年代が多い。
ガイアは、神殿で聖なる魔法を扱うことができ、人々に〝聖獣〟を生み出す力を持つ巫女であり、神殿に暮らす娘であった。
「よっ。久しぶり」
目まぐるしく〝聖獣〟を生み出していたガイアが、疲労を感じながら顔を上げて次の相手を迎えた。そこで、ぱちくりと大きな瞳を瞬かせる。
目の前にいるのは、短い金髪の青年。左目の横から頬にかけて複雑な模様の刺青が刻まれている。草色のベストに紺色の外套、黒い革靴を履いていた。
「……クォーツ」
にぃと三日月型になった唇の隙間から、真っ白な歯が見える。祭壇の吹き抜けになっている天井から降りかかる日差しが、彼の笑顔を明るく照らした。
ガイアは微笑を浮かべた。
「……びっくりした。久しぶりね。今ちょっと忙しいんだけど……後で良い?」
「いやいやいや、俺も儀式を受けに来た人間の一人だから」
ガイアの双眸が、再び丸くなる。まじまじと見つめ返し、
「……魔法の才能が極端にないあんたが、〝聖獣〟を持つってこと? 本当に?」
クォーツ・ゾイロは、カピジャにいた頃のクラスメイトで、幼馴染だ。だが、彼は引き出せる魔力が非常に微々たるもので、しかもその僅かな魔力をコントロールすることさえセンスが壊滅的であった。下手をすると、少数派である〝聖獣〟を持たない人間になるかもしれないとすら、思っていたものだ。
「バーカ、努力したんだよ。女のお前に敵わねえって、腹立つしな」
「あらら。それは申し訳ございませんでした。やっと〝聖獣〟を持てるようになったらしいクォーツくん?」
揶揄ってみると、クォーツが渋い顔をして、早くしろよ、と急かした。
喉でくつくつと笑ってから、彼の前に手を翳す。まずは相手がどれほどの魔力を引き出せているか計測し、そこから適正と思われる分の魔力を抽出し、守護神の姿を形作る――と、一瞬驚いた様子でガイアはクォーツを見やった。記憶にあるよりも、魔力が随分強くなっている。
(努力の賜物か……)
魔力が全く引き出せないなら救えないが、少しはできていたのだ。あとは努力次第であったことも確かであり、現在のクォーツの魔力は、人並みかそれ以上の強さは誇っている。弱い魔力ならば、鼠や小鳥を形作るのだが、もう少し大きい生き物になりそうだ。
ふわりと身体を包み込むような温かさがやってくる。目を閉じて、クォーツの魔法の流れを感じ取る。彼の魔力を掴むように翳していた手を握り、それから銀皿の聖水に手の指先をつけて、ゆっくりと持ち上げた。クォーツの傍らに向けて柔らかく手を差し伸べる。指先に付いた聖水が煌めき、そこに光を生んだ。
「おお……」
感嘆の声を上げるクォーツの隣で眩い光を放ち続けるそれは、次第に形を変え、光も徐々に弱まって行った。そして、光の粉をまぶした中に姿を現したのは――大きな黒い鷲だった。
瞼を開くと、主であるクォーツと同じ翡翠の目が覗いた。