人魚が呼んでいるよ
「お母さん! 人魚がいるよ!」
生まれて初めて遊覧船に乗る息子がはしゃいでいる。流れる海の光景を見るのがよほど楽しいのか、甲板の端で柵にしがみつくようにして食い入るように海を見つめている。
もちろん、人魚などいるはずがない。
幼い子供は自分の願望が本当かどうかの区別が付かないのだという。きっとあの子の中では、本当に海に人魚がいるのだろう。
「お母さんもこっちにおいでよ! 一緒に人魚を見よう」
そう息子が誘ってきたが、私は「お母さんは疲れたからここにいるわ」と返した。私は奥まった場所のベンチに座っている。遊覧船に乗りたいと言ったのは息子だった。私はあまり気乗りがしなかった。船は……、否、海は少しばかり苦手なのだ。
故郷に帰って来るのは久しぶりだった。嫌な思い出があるので意図的に避けていたのである。
高校の頃、私は友人を一人海で亡くしている。
彼女と私は同じ男子高校生に恋をしていた。どちらかと言えば引っ込み思案の彼女と違って私は積極的に彼にアピールした。その甲斐あって私は彼と付き合い始める事ができた。ただその直後、彼女は海で死んでしまったのだ。
遺書も何も発見されなかったので、足を滑らせて海に落ちてしまったのだろうという事になったのだが、私はぼんやりと“もしかしたら、自殺かもしれない”と考えていた。失恋のショックから、彼女は海に身を投げてしまったのだ。
だとすれば、彼女は私を恨んでいるかもしれない。
そんな風に思う。
「お母さん! 人魚が呼んでいるよ!」
不意に息子がそう言った。
身を乗り出すようにして海の方を指差している。それを見て隣の男の人が言った。
「危ないかもしれませんよ」
心配をしてくれているようだ。
私は頷く。
「ええ、そうですね。落ちてしまうかもしれない」
と返してから、息子に「落ちないように気を付けなさいよ」と大声で注意をした。
「だいじょうぶー!」
と息子は返す。が、少しも反省しているような素振りはなく、相変わらず海に見入っている。
私は仕方ないと息子に近づいていった。海の傍に行きたくはなかったのだけど。遊覧船の柵にぶら下がるようにしている息子を背後から抱きしめた。
「こら! 落ちちゃうでしょう?」
その後で軽く頭を小突いた。息子は不満そうな声を上げる。
「だって、あの人魚がずっと呼んでいるんだもん」
そう言って指を海に向けた。
その瞬間だった。多分、見間違いだと思うのだけど、波間に高校時代に海で亡くなったあの友人が見えた気がした。
え?
もちろん、そんなはずがなかった。
気が付くと、さっきベンチで横に座っていた男の人が近くに来ていた。
口を開いた。
「変な事を言うようですが。ある地域では、船幽霊は人魚の姿をしているんですよ」
「船幽霊?」
「溺鬼。海で死んだ者の霊です。仲間を欲して誘うと言います」
それを聞いて私は再び海を見てみた。波間に魚影が見えた気がした。もちろん、ただの魚だろうけど。
その時、息子が言った。
「ねぇ、お母さん。あの人魚と知り合いなの? 手を振っているよ」