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こいびとごっこ

作者: 相沢ごはん

pixivにも同様の文章を投稿しております。


(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

 中二になる妹の実咲が、水曜日の放課後、家に友人を連れてきた。その子が、ちょっと寒気がするような美人だったものだから、俺は驚く。大人びていて、とても十三、十四歳には見えない。実咲と同じ公立中学の制服さえ着ていなければ、女子大生としても通用するかもしれない。普段、男子校という男だらけの空間で生活しているものだから、こんな完成した女の子を突然目の前に差し出されて、俺は戸惑いを隠せない。はっきり言って、目の毒だ。

「私、今井譲葉(ゆずりは)と言います。今日は実咲ちゃんのお兄さんにお願いがあってきました」

 リビングのソファの対面に座った彼女、今井譲葉は能面のような無表情で言った。実咲は珍しく真剣な顔をして、励ますかのように彼女の手をしっかりと握っている。

 まさか、交際の申し込みではないだろうな。俺は余計な心配をしてしまう。先日、失恋したばかりで弱っている俺なので、とりあえず受け入れるという不誠実なことをしてしまうかもしれない。

「実咲ちゃんのお兄さん。私の彼氏のふりをしてくれませんか」

 彼女は言った。うん、おしい! どうも、交際の申し込みとは、微妙に異なるニュアンスだ。

「どういうことだろう」

 とりあえず確認してみる。

「少しの間でいいんです。お礼もします」

 彼女は、淡々と言い募る。

「いや、別に駄目って言ってるわけじゃなくて、ちゃんと説明をしてくれないと」

「ああ、そうですよね」

 彼女はうなずいた。やはり、無表情だ。

「ゆずり」

 実咲が心配そうに、彼女の愛称を呼ぶ。

「大丈夫」

 彼女は言い、話し始めた。


 事の起こりは、今年の四月。中学二年生に進級した彼女は、毎週木曜日の放課後、学習塾に通うことになった。高校受験に向けての準備を始めることにしたのだ。

 その塾に、徳永という男性講師がいた。徳永は大学生で、アルバイトで講師をしているという。彼女は、その徳永にしつこく言い寄られているらしい。


「大学生が? 中学生に?」

 俺は、思わず話の腰を折ってしまう。

「私も、信じられません」

 彼女は言って、眉根を寄せて首を左右に振った。初めて表情らしい表情を見たような気がする。

「ロリコンってさ、お兄ちゃんが思ってるよりずっと多いんだよ。あたしたちは、常に危険に晒されてんだからね」

 実咲が言う。いや、今井譲葉の場合は、ロリコンが好みそうな外見ではないのだが。

 彼女は続ける。


 塾の授業が終わると、個別指導室に呼び出され、交際を迫られるのだそうだ。いくら、彼氏がいると言っても納得してくれない。本当に彼氏がいるなら目の前に連れてこいと言い出す始末だ。


「それ、家のひとには相談したの?」

「しました」

 彼女はうなずく。

「でも、しつこくされているだけで、それ以上のことはされていないので」

 そこで彼女は少し間を開ける。

「例えば、身体をさわられたりですとか、そういうことはされていません。つきまといのような行為も、いまのところはありません」

 だから、どう動いたらいいのかわからなくて、と彼女は言う。

「塾のほうには言ってみたの」

「はい」

 彼女はやはり無表情にうなずく。

「徳永は、その塾の経営者の甥にあたるそうです」

 それだけ言って、彼女は口をつぐんだ。要するに、塾に言ってもどうにもならなかったということだろう。

「あ、そうだ。彼氏がいるって言ったんだよね。その彼氏に……」

 言いかけた俺の言葉を遮って、

「うそです」

 彼女はきっぱりと言った。

「彼氏はいません。あの場をスムーズにやり過ごすために吐いたうそです。でも、余計こじらせてしまったような気がします」

 普通は、そんなにこじれないはずなんだがな、と俺は思う。実咲を見ると、実咲も同じ気持ちのようで、俺に目線でうなずいて見せた。

「お兄ちゃん、ゆずりの塾の送り迎えをしてあげてよ」

 実咲が言った。

「徳永ってやつに、仲がいいとこチラッと見せるだけでいいんだから」

 俺は考える。それって、余計こじれるんではないだろうか。

「彼氏のふり云々は置いておいて、とりあえずは、送り迎えだけでもいいのでお願いしたいのですが」

 彼女は言う。そうだな、と思う。失恋したてで、いまは少しつらいし、気が紛れていいかもしれない。そう単純に思った俺は、

「わかった。いいよ」

 とうなずいた。

「では、明日からお願い致します」

 そう言って、彼女は丁寧に頭を下げた。

「実咲ちゃんのお兄さんのことは、翼さんと呼ばせていただきます」

 彼女は俺の名前を呼ぶ。俺は、彼女のことを、実咲同様「ゆずり」と呼ぶつもりで準備をしていた。しかし、

「私のことは、お気軽に『今井』とお呼びください」

 と言われ、「わかりました」とうなずくしかない。



 木曜日、学校から塾に直行するという今井を迎えに中学校まで行く。校門前で今井を待ちながら、俺は身を固くする。俺の高校の制服は学生服だし、今井の中学の男子の制服も学生服なので、あまり目立たないだろうと思っていたら、似てはいるが少し違うその制服が逆に目立ってしまい、チラチラとこちらへ送られる視線に、何食わぬ顔を装いながら耐えるはめに陥ってしまった。

 早くきてくれ、今井。そう念じながら、俺は余裕の無表情を無理矢理に作る。もうこうなってしまっては無表情ですらない。無表情は作るものではない。

「すみません。お待たせしました」

 本物の無表情で、今井が現れる。待ってた! きてくれてありがとう! そう言いたいのを堪えて、

「いや、全然」

 と余裕ぶったことを言ってしまう。

「面倒なことをお願いしてしまって、すみません」

 今井は頭を下げる。そして、俺を促すように歩き始める。

「実は、こないだ失恋したばっかでさ。することがあるほうが気が紛れてちょうどいいよ」

 俺は言う。

「そうですか」

 今井はうなずく。やっぱり無表情だ。

「まだ好きなんですか」

 という質問に、

「うん、そうだな。まだ好きかな」

 そう答えると、今井の無表情が少しやわらいだ気がした。

「翼さんの好きなひとって、どんなひとですか。どういうところで知り合ったんですか」

 今井は興味津々といった感じで訊いてくる。

「ああ、知り合ったっていうか、同じクラスの……」

 そこまで言いかけて、俺ははっと口をつぐむ。今井が首を傾げた。

「翼さん、確か男子校でしたよね」

 今井が言った。俺は観念してうなずく。

「うん、そう。男子校」

「なんだ」

 今井はあからさまに安心したような声で言った。

「ちょっと緊張していたんです。私、男のひとにはいい思い出がなくて。実は苦手なんです」

 きっと今井はこの外見で苦労をしてきたのだろう。中二にして男にいい思い出がないというのもすごい話だが、しかし、気の毒ではある。

「だから、いくら友だちのお兄さんだっていっても、ちょっと心配していました。でも、翼さんはゲイの方だったんですね。よかった。安心です」

 今井はにっこりと笑う。初めて笑顔を見た。そのかわいらしさに少し感動したが、しかしそれどころではない。「よかった」と今井は言ったが、おいおい待て待て、よくないぞ、と俺は思う。誤解だ。俺はゲイではない。今回たまたま好きになったのが男だったというだけで、それ以前には女の子を好きになったことだってある。女性の裸体に欲情したりもする。むしろ、そっちの比率のほうが高いくらいだ。

 そう言おうとして、口を開きかけた時、目的地の学習塾に到着してしまった。

「それでは、帰りもお願いします」

 今井は言って、俺にひらひらと手を振ってにっこりと笑った。学習塾のビルに入っていく今井の後ろ姿を俺はぼんやりと眺める。俺が、ゲイではないと知ったら、今井はあの笑顔を見せてくれなくなるかもしれない。そんなことを思ってしまう。

「よし、保留」

 俺は小さく呟く。今井の誤解を解くのは、とりあえず保留。力強くうなずいてみるも、なんだか情けない。



 今井の塾が終わるまでの間、マックで時間を潰す。木曜日だけは、遅い時間の帰宅を許されているのだ。今井の親は仕事が忙しく、塾帰りの今井よりも帰宅が遅くなることが多いという。そんな今井の親と俺の親の間でも、一応話はまとまっていたらしく、母に、

「あんた、職権乱用してゆずりちゃんに手ぇ出すんじゃないわよ」

 と凄まれてしまった。無力な男子高校生に職権乱用もなにもあったものではない。

「ゆずりが、お兄ちゃんを踏み台にして、少しは男の子に興味を持つようになるといいんだけど」

 実咲は心配げにそう言っていた。踏み台とは随分な言い草だ。俺はしょんぼりと肩を落とす。父のほうを見ると、なにを言われたわけでもないのに、しょんぼりと肩を落としていた。この家では、男は無力だ。


 学習塾のビルから、わらわらとひとが溢れるように出てくるのが窓から見える。どうやら終わったようだ。俺はトレイを片付けて、ビルへと向かう。

「あ、翼さん」

 今井が先に俺を見つけて手を振りながら駆け寄ってくる。付近にいた男子中学生たちの視線がなにやらチクチクと刺さる。おい、まさかおまえは今井の彼氏じゃないよな、ちがうよな、な? と無言で問われているようで肩身が狭い。あれって今井さんの彼氏? えーうそ、ちがうんじゃない? キングオブ普通じゃん、という女子中学生の声も聞こえてきて、ますます肩身が狭い。

「じゃあ、帰ろうか」

 思いがけずキングの称号をいただいた俺は、その名に恥じぬよう普通のことを言う。今井はにっこり笑ってうなずき、なにを思ったのか俺の手をぎゅっと握った。

「な」

「こっち、見てます」

 今井は笑顔で、しかしその顔とは裏腹の緊張を含んだ声で小さく言う。

「え、徳永?」

「はい。今日、ひとを待たせてるからって逃げてきたんで、ついてきたのかも。振り向かないでください」

 首を動かしかけた俺に今井は言う。

「申し訳ないですが、このまま行きましょう」

 にこにこと笑い、今井は俺の手を握ったまま歩き出す。

「ついてきてる?」

「わかりません。でも、いつもはついてきたりはしな……」

 今井がそう言いかけたところで、目の前に学生風の若い男が立ち塞がった。

「こいつが徳永です」

 今井はひそひそと言い、少し後退する。俺は今井を背後に隠すように動く。

「譲葉。誰だ、それは。僕に紹介しないと駄目じゃないか」

 こいつが徳永か。想像していたよりも見た目はまともだが、口調が高圧的で言っていることがなんだか気持ち悪い。別に、今井の関係者をおまえに紹介しないといけないなんて決まりはない。

「彼氏です」

 今井はきっぱりとした口調で言った。ええ、彼氏のふり云々は置いておくって言ったじゃん! と一瞬思ってしまったが、この場合は仕方がない。

「私、このひとと付き合ってるんです。ラブラブなんです。だから先生とはお付き合いできません」

 今井はすらすらとそんなことを言う。もう言い慣れすぎてしまったようで、棒読みレベルだ。しかし、ラブラブとは大きく出たものだ。

 徳永はチラリと俺を見て、

「普通じゃないか」

 と言った。

「ガキだし」

 俺がガキなら今井はもっとガキじゃないか、と俺は心の中で言う。

「そこがいいんじゃないですか! 私は普通がいいんです! 年の近いひとがいいんです!」

 今井がむきになったように言う。言っていることは悲しいが、それでも、なんだかリアリティのあるやり取りだ。しかし、俺は参加しなくていいのだろうか。そう思っていたら、

「そのガキの彼女に手ぇ出してんじゃねーよ」

 今井が、俺にしか聞こえないような声で背後から囁く。え? え? と戸惑っていたら、早く言えと言わんばかりに、背中をつつかれた。

「そのガキの彼女に手ぇ出してんじゃねーよ」

 俺は、今井が言ったそのままの台詞を口にする。棒読みもいいとこだったが、徳永の片眉がぴくりと動く。しまった、言うんじゃなかった、と後悔しても遅い。

「なんだ、おまえ?」

 徳永が言う。不穏な空気だ。もっと言い方を変えればよかった。

「今井は、俺と付き合ってるんです。金輪際、彼女に無理を言うのは勘弁してやってください」

 俺はそう言って、頭を下げる。徳永の舌打ちが聞こえ、足音が響いた。

「行きました」

 今井が言った。俺は下げていた頭を上げる。

「おま、もう、おまえ、なんてこと言わせるんだよ!」

 俺は今井に詰め寄る。

「あれで、あいつが怒っておまえへの被害が増大したらどうするんだ!」

「だって、むかついたんだもん!」

 今井は叫ぶように言った。

「やだったんだもん!」

 地団駄を踏みながら、今井は美しい顔をくしゃくしゃにして、

「なんで私ばっかり、あんなやつに好かれなきゃいけないのよっ!」

 と泣き出してしまった。うわあん、と大声で泣く今井をどうしたらいいのかわからず、俺はおろおろと手を上げたり下ろしたりする。いくら美人で大人びていようが、まだ中学二年生なのだ。そりゃ、泣きたくもなるだろう。

「今井」

 俺は今井を呼ぶ。

「ごめん。わるかったよ、今井」

 遠慮がちに背中をさすると、今井はますます大声で泣く。どうしたらいいんだ。

 とにかく、この声をどうにかしようと、俺は今井の頭を抱き、自分の胸に押しつけた。今井は俺にがしっとしがみついて、えぐえぐと嗚咽をこらえている。

「ごめん。ごめんて。おまえはわるくないよな」

 言いながら、俺は今井の細い身体を抱くようにして背中をさすってやる。

「家帰っても、ひとりじゃいやだろ」

 俺は言う。

「俺んちこい。親御さんが帰るまで実咲とごはん食べて、宿題でもしてろ」

 今井は微かに顎を引く。それから、俺の制服で涙と鼻水を当然のように拭うと、俺の手をぎゅっと握る。どうやら、今井は今井なりに徳永がこわかったらしい。俺はその手を強く握り返してやる。今井は安心しきったように笑った。その笑顔に少し罪悪感を覚えた。

 俺は、その原因を口にする。やっぱり誤解は解いておいたほうがいい。

「あのさ、今井。俺がゲイだって話なんだけどさ」

「わかってます」

 今井は言った。

「私、言いませんから」

「え」

「実咲ちゃんにも、ご両親にも言いません。黙ってます」

 今井は俺を安心させるように言う。

「大丈夫ですよ、翼さん。私は口が堅いんです」

 そういうことではない。俺は思う。本当に大丈夫なんだろうか。



「思うに、塾を変えたらいいんじゃないか」

 木曜日、学習塾への道すがら、俺は今井に言う。

 俺と今井は手を繋いで歩いている。本格的に彼氏のふりをすることになったのだ。今井に彼氏がいるということが公になったほうが、徳永のような変なやつから言い寄られるということも少なくなるはず、という理由だ。

「このあたりで、ちゃんとした進学塾ってあそこしかないんですよ」

 今井は言う。

「そういえば、そうか」

「でも、そうですよね。やっぱり遠くても塾を変えたほうがいいのかも」

 今井は言い、でも、と肩を落とす。

「塾を変えても同じようなことがあるかもしれないと思うと、やっぱり家から近いほうが安全なのかなとも思うんです」

「まだ若いのに苦労してんだな、おまえ」

「翼さんだって」

 と今井は言った。

「苦労してるでしょう」

 どういう意味だ、と訊き返そうとした時、学習塾に到着してしまう。

「それじゃあ、翼さん。またあとで」

 今井はにっこり笑って手を振った。

 マックで時間を潰しながら、気がついた。そうか俺がゲイだから、苦労してるだろう、と今井は言ったのか。実はゲイではないので苦労もまだ人並みにしかしていない俺は、罪悪感でいっぱいだ。誤解を解くきっかけを完全に逃してしまった状態。どうしようかね、などと思いながら俺はシェイクをすする。


 授業が終わった今井と落ち合うと、今井は躊躇いもなくすぐに俺の手を握る。安心しきったような笑顔を見て、やっぱり罪悪感を覚えてしまう。今井にとって、俺と手を繋ぐことは、実咲と手を繋ぐことと、きっとなにも違いはないのだ。

 今井は、俺がゲイではないと知ったら、どう思うのだろう。今井が俺の手を握るたびに、少なからず早くなってしまう脈拍を知ったら、今井はどう思うのだろう。

 初日のあれ以来、今井は、毎週塾の帰りに俺の家で親の迎えを待つようになった。実咲も、今井のことを心配しながらも、いっしょにごはんを食べたり宿題をしたりするのは楽しいようだ。


 あれから、徳永が俺たちに絡んでくることはなかった。個別指導室への呼び出しもなくなったらしい。しかし、「気がつくと見られてることがしょっちゅうあって、気持ちわるいです」と今井が言うので、まだまだ油断はしないほうがいいのかもしれない。



 中学校から学習塾への道中に、駄菓子屋がある。その店先に、色とりどりのホイッスルがぶら下がっている。いつも前を通るたびに、なんで駄菓子屋でこんなものを売っているのだろう、と気になっていた。見ると、その駄菓子屋には、お子様ランチについてくるような簡単なおもちゃも置いてあり、このホイッスルもおもちゃの一種なのだろうと理解した。

 俺は、プラスチックの赤いホイッスルを買い、今井の首にかけてやる。今井には、赤が似合うと思ったからだ。

「なんですか、これ。なんで笛?」

 今井は不思議そうにホイッスルをてのひらに乗せて眺めている。

「身の危険を感じた時は叫べ。大声が出ない時はこれを吹け」

 俺が言うと、今井は納得したようにうなずき、ホイッスルをセーラー服の中にしまう。

「ありがとう、翼さん」

 今井は笑う。俺の心臓は、どっくん、と大きく跳ねる。


 困った。

 いつものように、マックで塾が終わるまでの時間を潰す。

 同じクラスのあいつが好きだった。結局ふられてしまったけれど、それでも好きだった。しかし、その感情はいまや過去のものになりつつある。今井譲葉の存在が、どんどん俺の脳内を侵食してきているのだ。

 今井の安心しきったような笑顔を見ると、たまらなくなる。まるで、誰にもなつかなかった猫が自分にだけなついた時のような、そんな甘やかな気持ちになってしまう。

 しかし、今井が俺に無防備な笑顔を見せるのは、彼女が俺のことをゲイだと信じ込んでいるからだ。自分が恋愛対象にはなり得ないと安心しきっているからだ。やっぱり、ちゃんと誤解を解かなくてはいけないのかもしれない。


 授業を終えた今井が、手を振りながら俺に駆け寄ってくる。笑う。手を繋ぐ。まるで、本当に付き合っているみたいだ。ただのふりにすぎないとわかっているのに、そんなふうに錯覚してしまう。今日も見られていたけれど大丈夫だ、と今井は言う。そうか、と俺は答える。

 いまだ、と思った。ちゃんと言おう。

「あのな、今井」

「なんですか」

 今井はにっこりと笑う。その笑顔に怯んでしまうが、俺は大きく息を吸い、吐き出すように言った。

「俺、ゲイじゃないんだよ」

「え?」

 今井の顔から表情が消えた。無表情だ。

「でも、だって……」

 今井は呟くように言う。

「確かに、俺は男を好きになってしまったけど、でも、女の子も好きなんだ」

「うそ、ついてたんですか?」

「そういうわけじゃない」

 俺は首を振る。

「いやだ……!」

 今井は言った。繋いでいた手を振りほどかれる。

「いやです」

 今井は泣いた。言わなきゃよかった、と思うが、このまま誤解させたままというのもつらい。

「ごめん」

 俺は言う。今井はなにも言わない。歩き始める。俺も横に並んだが、それだけだ。

 きっと、もう手なんか繋げない。笑ってくれるかどうかも怪しい。それでも、これでよかったと思う。騙したまま、隣にいるよりは。



「お兄ちゃん、ゆずりとケンカでもしたの?」

 実咲に言われ、

「いや、喧嘩じゃない」

 俺は首を横に振る。

「じゃあ、なによ。ゆずり、この間まであんなにお兄ちゃんになついてたのに、いま全然じゃない」

 実咲は眉を寄せる。

「今井は、俺になついていたか?」

 訊くと、

「なついてたよ。ゆずりは男が大嫌いだもん。男の前で笑うなんて、珍しいんだから」

「そうか」

 俺はうなずく。やっぱりあの笑顔は、俺がゲイだからこそ向けられていたものだったのだ。

「まだ徳永のことも心配だし、早く仲直りしてよね」

 俺は曖昧にうなずいた。


 今井の送り迎えは続けていた。しかし、今井はしゃべらなくなった。冷たいほど美しい無表情で、今井はまっすぐに前を見て歩く。俺のほうを見ようともしない。もちろん手も繋がない。ただ無言で並んで歩くだけだ。

 学習塾に到着すると、今井は小さく頭を下げてビルの中に入っていく。その様子を見るたびに胸のあたりがひりひりした。


 ビルから溢れ出てくる人間の波を確認して、俺はマックを出る。今井の姿を見つけて、近寄る。

 今井の後ろに徳永がいた。ぎょっとする。どうするべきか考える。ただそこにいるだけかもしれない。騒ぐほどのことではないのかも、気にすることではないのかもしれない。だけど、気になった。

「今井!」

 俺は今井の手を握り、自分のほうへと引っ張った。振りほどかれようがいやがられようが、なにがなんでも離さないつもりだった。しかし、今井は俺の手を強く握り返した。

 俺は今井を自分の背後に隠す。今井が俺の背中にしがみついた。

「ナイフ」

 今井は震える声で言う。

「あいつ、ナイフ持ってるって。騒いだら刺すって。私の背中に……」

「今井、ちがう」

 俺は言う。徳永は笑っている。

「今井、あれは」

 俺は唾を飲み込んだ。

「今井、あれはフォークだ」

「えっ」

 今井が声を上げた。

「本当だ。フォークだ」

 俺の背中から顔を覗かせた今井が小さく言う。徳永は、フォークをメトロノームみたいに左右に振って、固い笑みを浮かべている。

「きみたちさ、本当に付き合っているのかな?」

 徳永が言う。俺はうなずく。ここはうなずくべきだろう。

「信じられないんだよね。だって、きみより僕のほうが上だろう?」

 徳永は言う。年齢の話ですか、と思わず言いたくなる。俺は徳永ほど変なやつではないつもりだ。

「年齢の話ですかね」

 今井が真面目な声でひそひそと言ったものだから、俺は笑ってしまう。その瞬間、徳永の顔から表情が消えた。

「バカにしてんのか?」

 俺はぶるぶると首を横に振った。そんなことをしていたからだ。避けきれなかった。

 気がつくと、俺の手の甲にフォークがぐっさりと刺さっていた。うげ、と思ったが声が出ない。今井を見ると、魂の抜けたような表情でセーラー服の胸元を一心にさぐっている。

 今井は、セーラー服から赤いホイッスルを取り出すと、それを思いきり吹いた。ピューッ! と軽やかな音が鳴る。ピューッ! もう一度。

「傷害だ!」

 今井は叫んだ。

「私の大事なひとを傷つけた! 絶対許さない!」

 今井のその声で、俺はやっと周りの景色が目に入る。今井のホイッスルに反応したのか、野次馬らしき男子中学生たちが何人かで徳永に飛びかかった。誰かが他の講師たちを呼んできたようだ。徳永は取り抑えられ引きずられながら、俺たちの視界から消えた。


「結局、俺はなんの役にも立たなかった」

 ぼそりと言うと、

「そんなことありません」

 今井は言った。無表情だ。

「翼さんは、笛を買ってくれました。私を守ってくれました」

 本当に守ることができたのかどうかというのは甚だ疑問だが、今井は俺を見た。

「翼さんがゲイだろうが、そうじゃなかろうが、それは事実です」

 そして、笑った。

 もう一生見られないと思っていた笑顔に、俺の胸は熱くなる。

「フォーク、抜かないんですか」

 今井が言う。言われて、手の甲を再確認すると、驚くくらいの痛みが襲ってきた。泣きたい。しかし、今井の前なので我慢する。

 フォークを引っこ抜く。血がだらだらと滴り落ちた。泣きたい。

「翼さん、守ってくれてありがとう」

 改まったように今井は言った。

「お礼をします」

「じゃあ」

 手の甲を押さえながら俺は言う。

「本当の彼女になってほしい。ふりじゃなくて」

 少し待ったけれど、今井が黙っているので、俺は焦る。思わず俯いてしまう。調子に乗ってしまった。また傷つけたかもしれない。

「気が向いたらでいい」

 焦って、俺は続ける。

「断ってくれてもいい。俺はしつこくしないから」

「大丈夫です。断りません」

 今井は淡々と言う。

「実咲ちゃんと姉妹になるのも、きっと楽しいです」

 今井は言った。顔を上げて今井を見る。笑っている。

 実咲と姉妹って、それは気が早いのではないだろうか。そう思いながらも、俺も笑った。

 どうでもいいけど、手の甲が痛い。泣きたい。ものすごく泣きたい。



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