表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

無能な男

作者: 森内哲

 勉強はそこそこできても仕事はできない男。勉強はまあまあできるのに、普通の人が当たり前にできることができない男。例えば一人で映画を見に行ったことがなかったり、知らない土地に一人で行けなかったり、文化祭の準備や化学の実験で人に言われたことしかできなかったり。きっと大人になっても一人で飛行機に乗れないだろう。


 高校時代の彼はまさにそんな感じだった。


 ある日の放課後のことである。柔道部だった彼は練習が終わった後、一人道場に残り柔軟を続けていた。別に熱心な部員だったわけではない。練習が終わって静かになった道場の雰囲気が好きなだけだ。その雰囲気を楽しむために、特に用もないのにだらだら居残っている。

 しかし18時を過ぎ、さすがにそろそろ帰ろうかと思い始めた頃だ。道場の重い扉が開き、ジャージ姿の女子生徒が3人入ってきた。


 (――――何の用だろう? ていうか誰……?)


 柔道場に用がある女子生徒など普通いない。目的を図りかねぼんやりとを眺めていると、彼女らは彼に何も告げずに道場内をランニングし始めた。


 (――――? んーと……、んん?)


 突発的な事態に直面すると思考が止まるのは、彼自身自覚している欠点だった。その欠点は彼が成長しても改善しなかったが、それは余談。

 部外者がその場にいる柔道部員に黙って道場で運動を始めたら、追い出さないにしても少なくとも事情を聞くべきだ。彼も後で振り返ると、なぜこの時すぐ声をかけなかったか彼自身わからなかった。


 ただぼんやり3人の女の子がランニングするのを眺めていた。すると、次から次へと女子生徒が道場へあがり、同じようにランニングを始めた。


 (何ごと……? 訳が分からない…………。柔軟でもしてよ)


 とうとう彼は目の前の現実から目を背けた。そこに女子生徒など存在しないかのように、畳の上で一人黙々と柔軟を始めた。前屈には自信がある。つま先どころか踵まで楽に手が届くし、立った状態で前屈すれば手のひらがべったり地面に着く。

 一方で股関節は固く、180°などはるか遠く、90°開くかも怪しかった。そのため練習後にはなるべく時間をかけて柔軟することにしていた。


 痛みに耐えながら股関節を徐々に開いていくうちに、薄っすらと汗をかきはじめた。見た目と違い意外にハードな運動だ。足を開いたまま左の太ももに顔をつけるように柔軟していると、誰かがそばにきたらしく影が差した。「すみません……」と声をかけられる。


 顔をあげると謎のランニング集団の一人が立っていた。知らない女子生徒だった。集団の雰囲気から彼女たちが女子バレー部か女子バスケ部の人たちだというのは察していたが、なぜここで勝手にランニングをしているのかは、やはりわからないままだった。


 「あの、ここでダウンさせてもらっていいですか?」


 (――――もう始めてるじゃん。というかなぜここで……? ああ、もう時間が遅いから体育館出なきゃいけなかったのか。ていうかそういうの普通最初に聞くもんじゃ……? それ以前に僕はなぜずっと咎めもしないで柔軟してたんだろ。バカなのかな?)


 「18時55分の電車に乗りたいから、それに間に合うように出てってくれるんならどうぞ」


 「ありがとうございます!」


 その女生徒は嬉しそうにお礼を言って集団に戻っていった。


 (そりゃいまさらダメとは言えないって。だったらもっと早く言えよって話だし……。何も言わずに黙って入ってきた彼女らも大概だけど、黙って放置してた僕も僕だよな。つかマジで誰なんだよ……)


 柔道場で集団でクールダウンする女バスだか女子バレーだかの部員たち。そしてその脇で一人柔軟をし続ける柔道部員。意味の分からない状況だが、彼は流れのままにそれを受け入れ、ダラダラと柔軟をし続けた。

 さすがに運動をするジャージ姿の女子を間近で眺めるのは憚られた。見たくなかったわけではもちろんない。むしろ見たい。が、たった一人で、しかもどう考えても向こうからバレる状況で、女子の姿態を凝視する勇気は彼にはない。興味のないふりを装いつつひたすら柔軟をすることで、彼女たちから目をそらし続けた。


 しばらくしてさっきの女子生徒が再び彼に近づいてきた。


 (やっと終わったか……。とっとと帰ろ……)


 だがその女子生徒は予想外の要求を彼に突き付けた。


 「すみません、写真撮りたいのでシャッター切ってもらえませんか?」


 「!?」


 当時は平成。それも折り返し点を過ぎてない昭和寄りの平成だ。スマホなどというものはもちろんなく、カメラ付きケータイがぼちぼち出始めたころだ。だから当時集合写真を撮るといえば使い捨てカメラを使うのが当たり前で、彼女が手にしているのも当然使い捨てカメラだった。


 (え……、普通に嫌だ…………)


 彼は写真を撮った経験がほとんどなかった。中学の修学旅行などで多少はあるが、せいぜい自由行動時に同じグループのメンバーを撮ったりだとか、風景を撮影したことがあるだけだ。これだけの女子生徒の集合写真を撮るなど、初めての経験だ。

 そして冒頭で述べた通り、彼は普通の人が当たり前にできることが当たり前にはできない男だった。それを自覚している彼は余程彼女の頼みを断りたかった。


 しかし、とはいえたかが写真である。これだけの女子生徒相手に、「ごめん。嫌だ」と断れば、間違いなくただでは済まされない。また、「ごめん、上手く撮る自信ない」と断ってもそれはそれで呆れられるだけだ。

 悩んだ彼は不承不承カメラを受けとった。2列に並んだ女子生徒を少し離れたところからファインダーに収めようとする。目が悪かった彼は、並んだ女子たちを見てもそこにクラスメイトや顔見知りがいるのかわからなかった。

 なんとか女子生徒の一団(未だ彼は、その一団がバレー部なのかバスケ部なのかわかっていない)をフレームに収め、あとはシャッターを切るだけとなった。


 次の瞬間、自分がとことん仕事のできない男だと実感せざるを得ない経験をする。もしかしたら人類史上初の暴挙かもしれない。彼は…………。


――――静かに、シャッターを切った。


 「はい、チーズ」も「1たす1は?」も言っていない(どちらも当時としても古すぎる掛け声)。全く何の声も出さず、黙ってシャッターを切ってしまった。

 さすがにその愚にすぐ気が付いた彼は、ファインダーから目を外し彼女らに謝ろうとした。しかしそういう時の女子高生の団結力と反射神経のすばらしさは、平成の時代も令和も時代も、おそらく昭和の初めだって変わらない。


 彼女らは一斉にその無能な男彼を指さした。そして声を揃えて叫んだ。


 「えーーーっっ!??」


 ほんと無能ですみません……。

悲しい実話。最後まで読んでくれてありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ