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8話 エールとピアノ

「へえ……ずいぶん賑わっていますね。知らなかった」

「街が主催している夏のイベントだそうです。夏祭りみたいなもの、でしょうか」

「なるほど」


 映画館を出て俺たちがやってきたのは、街のメインストリートだ。普段と違い、きょうはそこかしこに出店が並んでいる。人通りも、いつも以上だ。


「水曜日のきょうが初日で、日曜日までずっとやっているそうです」

「まだ学生が夏休みに入っていない平日の昼間でこれなら、土日はすごそうですね」


 この街は、田舎でもないが都会とも言えない。こんなにたくさん人間がいたものなのかと、妙な驚きがある。


「しかし、イベントがやっているなんて全然知りませんでした」

「今年から始まったそうです。わたしも偶然知りまして、……えと、これなら、ケーキに限らずにはなってしまうんですが、またいろいろ食べ歩きできるかなと」

「あー、なるほど……いや、たいへんありがたいです」


 ものすごく、こちらのことを考えてくれた提案のようだった。


「こういう出店には、普段は見ないような面白い食べ物が売っていたりしますから、とても勉強になると思います。ありがとうございます」

「いえ、わたしも楽しみなのでっ」


 水地さんは、善性の塊のような笑顔だ。夏の太陽よりもなお、まぶしいくらいに見える。


「水地さんは、こういう出店での食事は?」

「……じ、実は、……ほとんど経験がなく……重ね重ね世間知らずで……」

「そんなことは。では、いろいろ見て楽しみましょう」

「はいっ」


 ふたりで連れ立って歩き始める。人は多いが、かき分けかき分けで進まなければならないほどではない。こうして平日に来たのは、きっと正解なんだろう。


 ……しかし、うーん。

 人通りが多いと、いよいよ浮き彫りになる——いかに水地さんが人目を引くか、が。老若男女問わず、すれ違う人たちがチラチラ視線を向けてくるのだ。

 一瞬で目に焼き付く、彼女の鮮やかな美に惹かれてだろう。


「わあすごいっ、いろんな匂いがしますね。どれも美味しそうです」

「ですね」


 本人は、ニコニコとしながら出店を見回している。

 ひと目見ただけならば、いっそ近寄りがたいくらいの美しさが印象的だろう。だが、すこし話をしてみたならば、誰もが頬を緩ませてしまうような親しみやすさこそが頭に残る。 

 彼女はそんな、不思議な人だ。


「緋金さん、緋金さん、あのソーセージ、なぜあんなにグルグルと丸まって……!」

「すごい形ですよね」

「環の行ってる本場ドイツには、ああいうのはあるんでしょうか?」

「どうでしょう、あいつが帰ってきたら聞いてみましょうか。とりあえず、食べてみます?」

「はい! あ、あっちのあれも——」


 いろいろ見て、いろいろ買って、いろいろ食べて。

 俺たちは出店を堪能する。ケーキとはまたすこし違うが、出店独特の甘味ももちろん。


「うう……頭が……頭が…………」


 水地さんは、かき氷を食べて目をギュッとつむって唸っていたりもした。食べ慣れていなかったらしい。











「ん、なんだ?」


 人混みの喧騒の中、毛色の違う音が耳に滑り込んできて、俺はつい足を止めた。

 ……これは。


「ピアノの音ですね。……しかも、生演奏でしょうか?」

「そんな感じがしますね」


 水地さんの予想に頷きながら、音の方へふたりで行ってみる。

 すると、そこには人だかりができており——その向こうに簡易のステージが組まれているのが見えた。

 ステージの上にはピアノが置かれてあるようで、脇には『ご自由にどうぞ!』との幟が。


「……ストリートピアノ、みたいなものでしょうか? たまに駅やショッピングモールなんかにある」

「わたし、初めて見ました!」


 水地さんはキラキラと目を輝かせる。そうだ、ピアノが好きだと言っていたな。


「楽しい演奏ですね……! あ、弾き語りになりました!」


 ステージの上では、若い男性が軽やかにピアノを弾いている。水地さんの言う通り、歌も歌い始めたようだ。備え付けのマイクでほどよく大きくなった声が聴こえてくる。


 若いが、実力も舞台慣れもずいぶん立派に見えた。この近くには音大がある、彼はそこの学生さんだろうか。

 やがて男性は演奏を終え、周囲がパチパチと拍手。いい雰囲気だ。


「わ〜っ、素敵でしたね〜! わあ〜!」

「…………」


 小さな子どものようにはしゃぐ水地さん。その仕草までどこか上品なのはさすがと言うべきだろうが、とにかくテンションが上がっていることはよくわかる。

 そんな彼女を見ていて、俺の中に自然とひとつの考えが浮かんだ。


「ロケーションも素敵です、こんな街中にド〜ンとピアノがあって……いいなあ、こういうの……いいですねえ」

「ええ、まったくです。だから、次は水地さんの番ですよ」

「…………え?」

「幟を見てください、『ご自由にどうぞ!』とあるでしょう。弾いていいんです、誰でも」

「え、あ、え、で、でも、わたしこんな人前でそんな……! り、立派なものでは……!」

「高校時代には合唱コンクールで伴奏もやったと。観客はもっと多かったのでは?」

「そ、そうですが……」


 どうしようか。さらに押すべきか、無理強いはやめて引くべきか。


「でも、あの、……でも」


 迷う俺の目に、ちらりとステージを窺うように見る水地さんの横顔が映り——俺は、すぐに方針を固めた。


「水地さん、ここは勇気を出してみましょう」

「え、で、でも……その……」


 だって、彼女の瞳が揺れているのは、恐怖ではなく躊躇と羨望ゆえに見えたから。

 だから俺は、その言葉を言ってみることにした。


「水地さん、あそこに『新しい刺激』が待っていますよ。あなたがきっと、今まで味わったことのないものです」

「っ!」


 ずるいだろうか。


「…………おっしゃる通り、です! わかりました!」


 ああ言ったなら、彼女にはもう前に行く選択肢しかないだろうことを、俺はわかっていた。

 なのに、そんな手段を使ってでも、彼女に挑戦してみてほしいと思ってしまった。


「では……すみません! ちょっと通らせていただけますか!」



「お〜、なんだ?」「次に弾きたいんじゃない?」「開けてやれ開けてやれ」



 俺の張り上げた声に反応して、前にいた人たちがステージまでの道を開けてくれる。ありがたい。



「てか金髪美女だ……!」「雰囲気あるな〜!」「もしかして海外のプロとか?」



「あ、あ、あ、ひ、緋金さん……なにか、皆さまに妙に期待されてしまっている気が……!」

「気のせいです気のせい」

「ほ、ほんとですかっ?」

「はい」


 彼女と並んでステージの方へと歩きながら、俺はしっかりとうなずく。もちろん絶対に気のせいではないのだが、彼女の気持ちを強張らせたって仕方ない。


「ひぃ〜、あ、あ、心臓がバクバクしてます……」


 水地さんは、片手で不安そうに自身の胸元に手を当てながら、もう片手で俺の服の袖をキュっと掴んでいる。たぶん、無意識なんだろう。


 そんな姿を見て、「カップルか〜、いいなぁ」みたいな声が、周りからちらほら聞こえてくる。違うんだ。

 やがてステージの前にたどりついて、


「あっ、ご、ごめんなさいわたしっ!」


 と、水地さんが慌てて俺の袖を放した。


「あの、えと……でも、…………ひ、緋金さん、ひとつお願いが……」

「はい、俺にできることなら」

「その、ど、……どこにも行かないで、み、見守っていてくださると……」


 プルプルと全身を震わせながら、彼女は不安げな瞳でそうつぶやいた。


「もちろん。このいちばん前から、ずっと見ています。約束します」

「……はいっ!」


 うなずいた彼女は、やがてステージにおずおずと上がる。そして、ピアノの前に座り、何度も深呼吸。

 だいじょうぶだろうか。心配になってしまったが……やがて彼女がその身に纏う空気を変えたのがわかった。


「…………おぉ」


 思わず、声が漏れてしまう。


 ピアノの前、水地さんは、ピッと背筋を伸ばしている。鍵盤の上にそっと乗せられた指には、余計な力は入っていないように見えた。

 武芸の姿と同じだ、なんて思う。


 どれだけ緊張していたとしても、"場"に入ったならば、身に染み込ませた型が体を整える。どんなジャンルのものであれ、鍛えるとはそういうものなのだろう。

 彼女の両手がついに踊り出し、伴奏を紡ぎ始め……。



「————、——、————————」



 同時に響き出す、英詩を諳んじる美しい歌声。

 初めて聴くそれは、冬の青空のように高く澄んで、どこか静謐だった。



「……おお〜」「なんかあれだね、教会? とかの曲っぽい?」「こういうのもいいね」



 周りから聞こえてくる声の通り、ピアノの音も彼女の声も、穏やかで厳かな調子。

 曲も、たしかに教会などで歌っていそうな感じのものだ。教会なんて行ったことはないけれど、これはなんとなく聴き覚えがある——


「……あ」


 そこで、遅まきながら俺は気づいた。


「なるほど、そうか……」


 この曲は、あれだ。

 そしてそうであるならば、この先の展開も読める。楽しみだ。


「…………?」


 しかし、俺の予想とは裏腹に、水地さんのピアノも歌も変わらず穏やかな調子を保ったままだった。迷子のように、同じメロディーをずっと繰り返したまま。

 来るはずの変化が、来ない。


「……水地さん」


 迷っている……とは少し違うか。彼女は、躊躇っているのだ。淀みなく動く指先と対照的などこか堅い表情から、それがわかって。


 そのとき。

 水地さんが、ちらりとこちらを見た。


 俺は反射的に、ステージに上がる前の彼女の言葉を思い出す——「……どこにも行かないで、み、見守っていてくださると……」という、彼女にはめずらしいお願いを。


 応えるためには、どうしたらいいだろう。ここにいますと、だいじょうぶですと、伝えるためにはどうしたら。

 歌を遮りたくない、だから声を上げるわけにはいかないが、なにかないだろうか。


 なんて考え込んだのは、結局は一瞬だった。

 俺は胸の前、右手左手それぞれでグッと拳を作り、気持ちを込めてひとつ振る——それは水地さんがたびたび見せる、「がんばってください!」のポーズ。

 きっといろいろな人にこのポーズでエールを送ってきたのだろう彼女に、どうか届いてくれと願いながら。


 伏せ気味だった水地さんの目は、こちらのそれを見て、大きく輝いたように見えた。

 そして、まっすぐ前へと向き直り……。


 ダンッ! と彼女は、大きく強く高らかに、弾けるようなピアノの音色で夏の空気を震わせた。



「わっ!?」「なんだ!?」「えええ、なになに!」



 ざわめくギャラリー。

 唐突に色を変えた演奏は、その調子のままダンダダダッダッと、リズムとキレの良さを見せつけながらズンズン進む。曲自体は同じままだが、あまりに鮮やかな様変わり。

 それまで響いていたゆったりとした静かなものとは、きっちり反対側にいるような調子だ。



「……び、びっくりしたけど、でも……」「なんか……これさ」「うん……」



 テンション上がんね? と、そんな声が聞こえた。

 同意だ。同意だし、これからもっとだ。



「————、——! ————————!」



 響いた水地さんの歌声に、おおお〜! と、思わずといったようにして観客たちから一斉に声が漏れた。

 ピアノと同様、飛び立つような変化を遂げた彼女の歌は、誰しもに声をあげさせるほど強く、よく通り——そしてなにより楽しげだった。


 歌があること、人が歌を歌うことのすばらしさを、その身で体現しているかのよう。



「————、——、——! ————、——、——! ————————!」



 静かで澄み渡った冬の空のようだった彼女の歌声は今や、激しい変化に富んだ力強い夏の空をこそ思わせた。


 やがて観客たちは、誰からともなく曲に合わせて手拍子を打ち始める。

 "曲を盛り上げたい"とか"応援したい"という気持ちもあるのだろうけれど、たぶんこれはきっと——"自分もあの楽しそうなところに混ざりたい"、なんだろう。

 水地さんの歌には、そんな引力があった。


「……映画のまんまだ」


 みんなと一緒に手を鳴らしながら、俺はつい、そうひとりごちる。

 水地さんが好きだと言った映画、『天使にラブ・ソングを…』。その中で歌われたのが、いま、水地さんが演奏している曲だ。


 そして、最初は穏やかに賛美歌風で、だけど途中から一気に楽しげに……なんて、いま水地さんがやった流れも、あの映画のシーンをそっくりなぞっている。



「——、——! ————————! ————〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!」



 やがて、信じられないくらいに伸びやかで、力強く奔り回るようなビブラートを誇る、まるで空へと遡っていく稲妻みたいな高音のロングトーンが、空気を切り裂き終わりを飾って。


 ダン! とピアノの音も最後にひときわ高らか。彼女のステージは、その幕を下ろした。


 無音の時間が生まれたのは、ほんのわずか。

 それはちょうど、落雷と雷鳴の間に挟まる一瞬の空白によく似ていた。



「……うおおおおおおお!!」「さいこ〜〜〜〜〜!!」「すげえええ! めっちゃよかった〜〜〜〜!!」



 ワッと歓声が上がり、万雷の拍手の音がステージを取り囲む。

 その中心で水地さんは、ぼうっと空を見上げていたが、やがて周りの様子に気がついたのかぐるりと視線を巡らせる。


 そして、汗が浮き、ほのかに赤く上気した顔で、こちらを見つめてふにゃりと笑った。

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