6話 記事と事故
「うーん……」
修道院の談話室、そのソファの上に座りながら、わたし——水地アリアは唸っていた。
手には、共用のタブレット端末がある。気軽に調べものができるようにと、去年導入されたのだ。
「ど〜したのアリア! 悩ましげねえ」
「あ、院長」
明るい笑顔を浮かべながら隣に座ったのは、この修道院の院長だった。シスター歴は四十年。修道院のみんなにも、周辺の住民の皆さまにも、とても頼りにされている。
わたしも、ここに入ったときからずっと、とてもお世話になっている。
「悩みはハッピーの種よ、大いに悩みなさい。でも、抱えすぎてはいけないわ」
「はい」
「うん、イエーイ!」
「イ、イエーイ!」
華麗に横ピースを決める院長に、同じポーズを返す。
院長はいつでも素敵に陽気な女性で、いるだけでその場の空気が明るくなる。
シスターとしては少々型破りなところもあって、『おもしろシスター』なんて呼ばれてテレビに出たことだってあった。
とても真面目な方々からは、時にはすこし誤解されてしまうこともあるけれど、彼女の型破りはその懐の深さゆえだ。
わたしは、院長のことを心から尊敬している。
「今日は、例のお友達の彼氏さんとお出かけだったのよね? なにかあった?」
「いえっ。緋金さんとのお出かけは、とても楽しかったです!」
「そう! それはハッピーね!」
イエーイ! と、院長はまた横ピース。チャーミングだ。
「はい。とても素晴らしい時間をいただきました」
緋金さんとの今日の食べ歩きは、ほんとうに楽しかった。
夏に入った街中の景色は鮮やかで美しく、どのお店のケーキも美味しくて……そして、緋金さんはとても素敵な方だった。
礼儀正しく、気遣いが濃やかで、纏う凛とした空気は精悍。
とにかく、環は素晴らしい男性を選んだのだなと思う。
「おかげさまで、新鮮な刺激がたくさんありました」
「うんうん」
「……ですが、まだ自分の昔のことは思い出せず……。それで、ありがたいことに、またお出かけにお付き合いしていただけることになりまして……しかも、今度は食べ歩きだけじゃなく、別のところへも行ってみようと」
「あら、アリアのためね。優しい人じゃない」
「はい、とても」
わたしとケーキ屋さん以外の場所へ行く必要なんて、緋金さんにはないはずだ。人気店の店主として、お忙しい日々も過ごしているはず。
なのに、彼の方から「食べ歩き以外もぜひ」と提案をしてくれたのだ。
彼にも、そして彼との外出を今回限りにしないという提案をしてくれた環にも、心から感謝をしたい。
ふたりの厚意を無駄にしないよう、しっかり外の世界を味わって、自分と向き合わなくては。
「じゃあ、次はどこへ行ってみることにしたの?」
「それなんですが、お互い行ってみたいところを提案し合おうという話になりまして……」
「ああ、なるほど、それで悩んでいたのね」
「は、はい。……男性に退屈をさせないような場所って、どういうところなのかな、と……」
行くからには、緋金さんにつまらない思いをさせるわけにはいかない。できたなら、あの優しくて素敵な人に楽しんでほしいと思う。
だけど、歳の近い男性とふたりっきりで出かけた経験なんてないわたしには、どういうところを提案すべきなのか、見当がつかないのだ。
情けなさで肩を落とすわたしに、院長は明るく笑った。
「うん、いいわねえ! そうやって悩むことも含めて、これはアリアにとってとても大切な経験になると思うわ」
「は、はい」
「ハッピーハッピー、素敵なことじゃない。うんうん、ハッピー! ……相手の方のことを、この際、よーく思い浮かべて考えてみたらいいと思うわ」
最後にそんなアドバイスを残して、「ハッピーハッピー、うーん、ナイスハッピ〜!」とつぶやきながら、院長は去っていった。リズミカルな謎のダンスもセットだ。
「ありがとうございます、院長……」
相手のことをよく考えて、か。
……今日、緋金さんのことはいろいろと知ることができた。不躾に触れるべきではなかった過去のことまで含めて。
しかし、知っていけば知っていくほど、「この人についてわたしは何も知らないんだな」と思うことがどんどん出てくるのが、人間というものだ。
やっぱりわたしはまだまだ、緋金さんのことを知らないのだと思う。
「……緋金さん、…………緋金さん」
明確な考えがあったわけではなく、あくまでなんとなく、わたしの指はタブレットの上を動いた。
ブラウザを立ち上げて、検索キーワード【緋金柊一】。
「なにか出てきたり……わぁ」
いっぱい記事が出てきた! 雑誌に載ったこともあるとは聞いていたけれど、え、すごい……!
びっくりしながらタップしていくと、表示されているのは主に、さまざまな雑誌のWeb媒体らしかった。人気パティスリーの店主として名前が上がっていたり、時にはちょっとしたインタビューを受けていたり。
ご本人は謙遜していらっしゃったけれど、やっぱり、すごい人なのだ。
よく考えなくても緋金さんは、わたしと歳もそう変わらないのに、独立して自前のお店を切り盛りしている——だけでなく、それをこうして評判の人気店にまで育て上げた。
……すごいなあ。
すごく、すごく、努力をしたんだろう。そういう人なのだということくらいは、ほんのわずかな付き合いのわたしにもわかる。
空手を失った悲しみから立ち上がり、新たな道をひたむきに走ってきた。彼の今は、その結果なのだ。
すごいなあ。
強い人だ。強い人で、それを驕らない謙虚な方。
「ほんとにすごい…………あれ」
ふと、それまでと毛色の違うサイトにたどり着いた。地方新聞のWeb版だ。
表示された記事のタイトルには、『空手一筋高校生、子どもを決死の救助』とあった。
「……これ」
それは、緋金さんが人命救助で警察に表彰されたことを報じる記事のようだった。
中学時代に全国大会を制覇し、高校でも快進撃を続ける空手家の青年が、車に轢かれそうになっていた小学生を救助。代わりに車に撥ねられ、全身に重傷を負い——治療の末に一命は取り留めるも、後遺症で左目の視力をほとんど失った。
記事には、そんなことが書かれていた。
「もしかして……今日聞いた、空手を諦めることになった事故……?」
……こんな事情、だったの? あのときわたしには、誰かを助けたことなんて言っていなかった。
すごいというか、そんな一言では片付けられない、危険を顧みず身を挺して人を救った話だ。
空手で中学校時代に全国制覇をしていたというのも初めて知った。まさに将来有望な選手で、……そして、この事故でそれをすべて失った。
「……でも…………なのに」
あのとき、緋金さんは事故について確かこう評していた——『原因は、……そうですね、自分の不出来です』と。
だけど記事を見る限り、緋金さんに非があったとは思えない。もしもなにかあったのなら、そもそもこうして表彰もされないんじゃないか。
こんなことがあって、それを自分の不出来だなんて、そんな。
「…………あ」
自分の不出来です、……そういえばそのセリフは、それ以前にもわたしは一度聞いている。
彼が、待ち合わせ場所にすこし遅れてやってきたときだ。びしりと頭を下げて遅刻を詫びながら、言い訳のひとつもせず、そんなことを言っていたはず。
でも、あれも結局そうではなかった。子猫を助けていたから遅れてしまっただけで、どう考えても、緋金さんに落ち度などない。
「………………」
昔の事故と、今日の遅刻。ふたつとも、わたしがその真相を知ることができたのは、偶然だ。彼自身には、わたしにそれを明かすつもりはなかったはず。
彼はあくまで、自分が至らなかった、で済ませようとしたのだ。
「……こういうのも」
彼の強さのひとつ、だろうか。器が大きいというか、人間としての度量が広いというか。
うん、きっとそうだ。
「…………」
……そう思うのだけど。
なんだかわたしは、そうやって片付けてしまっていいのかどうかが、妙に気になった。
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