5話 ケーキと空手
それは今よりも、すこしだけ夏に深く入った時期のことだった。
日差しがまぶしくて、空気が湿って気怠くて、通りの向こうがゆらりゆらりと陽炎で揺れる季節。
「高校二年の夏、事故に遭ったんです」
「……え」
「ちょうど、空手の大会に行く途中でした」
夏の全国大会。俺は、手前味噌を言うのなら、優勝候補の一角だった。……もうすこしだけ調子に乗らせてもらえるのなら、その最右翼でもあったかもしれない。
昨年、一年生のときの成績はベスト4。最終的に優勝した三年生に、準決勝で敗れた。
ならば今年はと、息巻いていた。
「普段の行いが、よほど悪かったんでしょう」
「そんなっ、……そんな」
あとすこしで会場というところ。
横断歩道を渡る子どもへ、突っ込む車が見えたのだ。信号無視……居眠り運転だった。
とっさに突き飛ばして、そのまま自分が吹き飛ばされた。
「大型車にやられまして、何メートルか空中を横っ飛びです。原因は、……そうですね、自分の不出来です」
俺は水地さんに、轢かれそうだった子どものことなど事故の詳細は語らず、それだけ言った。
もっと早く気づくこともできただろうし、もっと上手くやることもできたろう。修行が足りなかったのだ。だから、あれは俺の不出来だ。
だけどその罰は、俺にはすこしばかり重すぎるものだった。
「鍛えていたおかげか、腕やら足やら肋骨やらがちょっと折れはしましたが、それらは後遺症もなく綺麗に治りました。背骨やら腰も問題なく。ただ、一箇所だけ打ちどころがバカみたいに悪くて、……左目が、ほとんど見えないんです、今も」
「っ」
「まいりました、こればかりは。……ずいぶん、まいりました」
決定的に悪くしたのが他の箇所であれば、まだなんとかなったんじゃないか。そんなことを、いまだに思うくらいだ。
「空手に限らず、世の中のすべての武道や武術、格闘技は、煎じ詰めれば制空権の取り合いです。お互いがお互いの間合いを、騙し合って潰し合って奪い合うのが、武のやりとりというものなんです」
「……片目では、その」
「はい、距離感が掴めないんです。間合いが、まるでわからない。それまではそれこそ、手に取るように把握できていたんですが」
特にうちの道場では、眼を大事にしていた。見る眼を鍛えなさいと。俺個人としても、それにはいちばん頼っていた。
力でも技でもなく、見切る眼こそが自分の最たる武器だと信じ、磨き上げてきたのだ。
「体の他の部分が治って、でももうその左目は治らないと言われて、……道場に行ったんです。そこで、師範と構えて向き合って、……打ち合うまでもなく、わかりました。空手家としての自分が、もう死んでるってことが」
「…………」
水地さんは、真っ青な顔だった。申し訳なくなってくるくらいに。
……首を吊ろうとした話は、さすがにできないな。
「あー、ええと、……それで、まあいろいろありまして。ある日、近くのケーキ屋に行ったんです」
その日のことは、よくよく覚えている。
「それまで俺は、差し入れなんかではいただいていたんですが、自分で買って甘いものを食べるということを、してこなかったんです。バカな話、なんだか、自分を甘やかしているみたいで座りが悪くて。武をやるならばそれはダメだろ、というか」
空手家武術家かくあれかし、みたいな変な理想があったのだ。
「でも、もう空手はできないから。そう思って、だったら食ってやるってケーキ屋に行って、端から端までケーキを頼んで、そのままイートインでバクバク食べて。食べて食べて食べて……途中からボロボロ泣いて」
甘いだかしょっぱいんだか、わからなくなったものだ。
「異様でしょう? 男子高校生がひとりでケーキ屋入ってきて、大量に注文してひとりで食べ始めて、しまいには泣き出すって。店内にいたお客さんみんな、『どうしたのどうしたの』って集まってきてくれて……ついには」
君、うちの店始まって以来の食べっぷりだね。
いつの間にか目の前に座っていたその人は、気風のいい言い回しが様になる、かっこいい女性だった。
「そんな状況に気づいたお店の店長が来て……そうですね、いろんな話をしました。俺としてはもう、やぶれかぶれの気持ちで。そうしたら、店長が言うんです。『ケーキづくりだって、そう悪くないぜ』って」
「……その方が、もしかして」
「はい。後の、ケーキづくりの師匠です。……今でもよく覚えていますよ。『君は足腰強いかい?』って、師匠が聞いてきたことを」
俺は、『蹴りは得意です』と答えた。我ながらバカだ。でも師匠は笑わなかった。
「『厨房仕事でいちばん大切なのは、今日も明日も立ち続けることだ』『ずっと立ち続けられるヤツが、この仕事じゃいっちゃん強いんだぜ』って、師匠は続けて。それを聞いて、俺、『じゃあやります』って言ったんです」
それが俺の、ケーキづくり人生の始まりだった。
「……なんでもよかったんです。ケーキづくりだったから、じゃなくて、あのとき俺の前に垂れてくれた糸だったから、俺はそれを掴んだんです」
冷静じゃなかったし、正気でもなかったろう。ただ、本気になれるものが欲しかった。
「そのあとは、師匠の店でバイトを始めて、自分の舌のバカさに驚いたり鍛えた足腰の強さに感謝したりして……高校を卒業してから製菓学校に通って、それから改めて師匠の店で働いて……色々あって去年、自分の店を出した、といった流れですね」
「………………あの」
きゅっと唇を噛みしめ、ぎゅっと強く一度目を瞑って、水地さんは頭を下げてきた。
「申しわけありませんでした、軽々しく、わたし……」
「いえいえそんなっ、いいんです、昔のことですし」
「でも……」
顔を上げた水地さんは、彼女の方が泣きそうな顔だ。まいった、優しいこの人を困らせるつもりはなかったんだ。
「あー、ほら、自分も水地さんに『どうしてシスターになったんですか』ってお聞きしましたし、おあいこですよ。それに……はは、そのあとに続く話も、実はおあいこです」
「え?」
「今の話が、なぜこうして誰かにケーキ食べ歩きをご一緒していただく必要があったのかに、そのままつながるんです」
どうしてシスターになったんですか、という俺の質問が、水地さんが誰かに付き合って『遊び』の経験を積みたいことの理由——すなわち、今日俺に付き合って出かけてくれている理由の話につながったのと、思えばまるきり同じ構図だ。
「いま、イートインでやけ食いしながら大泣きした話をしましたが、……つまりそれが原因なんです、俺がひとりでパティスリーのイートインでケーキを食べていけないことの」
「……あ」
「……情けないことに、思い出してしまって……。トラウマと言ったら大袈裟ですが、とにかく、もうただただ恥ずかしくて……」
あの日の出会いに、俺は心から感謝をしている。師匠の店に行ってケーキを食べたことは、俺の運命の分岐点だったはずだ。
だけど、……それはそれとして、あの日のことが恥ずかしくて仕方がないのも、また事実なのだ。
「あの日と同じ状況になると、じわっと変な汗が出てくるんです……。ケーキの味なんてわかったもんじゃなければ、落ち着いて椅子に座っていることすら難しくて……だからほんとうに、水地さんにはたいへん感謝しています」
「そ、そんな、それはわたしこそ!」
「……ではやはり、おあいこということで」
「……そうですね、はい」
水地さんも、頷いて笑ってくれた。
「あ、新作のアイデアは出そうですか?」
「……うーん、それが、……うーん」
思わず腕を組んで唸ってしまう。
「天才肌を気取るわけではないんですが、そのあたり自分は感覚派で、いろんな刺激を受けていくと、不意にポンっと"こんなのがいい"というのが思い浮かぶんです」
降りてくる……なんて言うと、ちょっと気取りすぎだろうか。だが、そんな感じだ。
「しかしそれが今回はまだいまいち……」
「でも、まだ一店舗めですものねっ。まだまだ、きっとこれからですっ」
水地さんはそう言って、また拳を掲げるポーズといっしょに、彼女お得意なのかもしれない「がんばってください!」をくれた。
「ありがとうございます。……何店舗も回ってしまってだいじょうぶですか?」
「はいっ、ぜひお付き合いいたします。……ふふ、食べ歩きだなんて初めてで……」
なんだかワクワクしますねと、水地さんは神秘的にすら見える美貌に、あどけない少女のような笑みを浮かべた。
結局、最初の店を含めて合計5店舗も回ってしまった。
職業柄ケーキを食べ慣れている俺でも最後はなかなかキツかったのだが、水地さんは平然とした様子。
聞けば健啖家なのだという。腰の細いその見た目からは、ひどく意外だった。
「ありがとうございます、ここまで送っていただければ」
夕陽の射す中、バス停の前で水地さんが言う。この路線にはそのものずばり、修道院前という停車場があるらしい。
「わかりました。今日はありがとうございました、連れ回してしまってすみません」
「そんな、すごく楽しかったです。ふふ、……ケーキ屋さんって素敵ですね、どのお店に行っても、真剣に、でも楽しそうに選んでいる方たちばかりで」
「はい、それは醍醐味のひとつだと思います」
水地さんと過ごす時間は、とても心地がよかった。彼女は穏やかでやわらかで、それでいてコロコロと表情の変わる鮮やかさもあって。
重ね重ね変な気を起こすつもりは毛頭ないが、水地さんが魅力的な人であることは、とにかく事実だった。
「……あ、でも結局、あまりいいアイデアは」
「そうですね、今回はちょっと。でも、またいろいろ自分で考えてみます」
さすがにまた水地さんを連れ回すわけにはいかない。
「うう、お力になれず……」
「そんなそんなっ。というか、こちらこそ、なにか水地さんのお役に立てたものか……」
シスターになった理由について、思い出すきっかけはなにか得られただろうか。
なんて、そんなやりとりをしているタイミングだった。
「ん? 電話……環か」
「あ、どうぞ、ぜひ」
水地さんは携帯電話を持っていないとのことだし、ちょうどいいかもしれない。お言葉に甘え、スマホをタップして応答する。水地さんとも後で替わろう。
「もしもし」
『おはよう柊一! 首尾はどうだ?』
「おはよう、お前にも水地さんにも感謝だよ」
朝の挨拶を口にした環は、もうすでにドイツにいる。夕方であるこちらとの時差は八時間ほど。だから『おはよう』なのだ。
「いろいろ、いい店を回ってくることができたよ。ありがとうな」
『そうか! それならよかった!』
電話越しの恋人の声は、聴き慣れたいつもの調子だ。
ちなみに環がドイツに発って、もう三日ほど経つ。一応、毎日なにかしらで連絡は取り合っている。
『ということは、新作のアイデアは無事浮かんだのか?』
「……あー、いや、それはまだなんだが」
『む、では順調じゃないじゃないか』
「それはそうだが」
『むむう、……柊一、通話の感じからして、いま外にいるな? つまり、まだ出かけている途中だな? アリアはそこにいるか?』
「ああ、ちょうど彼女をバス停まで送ったところだ」
『そうか、我ながらいいタイミングだったな。ちょっとスピーカーモードにしてくれ』
「……? わかった」
スマホを耳から離し、言われた通りにする。水地さんにも聞こえる大きさで、筐体から環の声が響く。
『アリア! わたしだ!』
「おはよう環、ドイツはどう?」
『悪くないぞ! ソーセージとビールの美味さってやつを、みくびっていたことがわかったよ』
「あら、素敵ね」
『だろう? ところで、またちょっと提案があるんだが』
雑談を切り上げて本題に入るその早さが、我が恋人らしい。
『今日だけじゃなくて、また何回か、柊一といっしょに遊びに行ってみないか?』
「……おい、環?」
『なんだ、不満か?』
口を挟んだ俺に、環からそんな問いが飛んでくる。
「不満なんじゃない、逆だ。それは俺に都合が良すぎるだろう。これ以上、水地さんを連れ回すわけにもいかない」
『と、言っているんだが、アリアはどうだ? 『遊び』の経験は十分だったか?』
「もちろん、貴重な経験を——」
『自分がシスターになった理由は思い出せそうか? そのきっかけにつながるようなものは、なにか掴めたか?』
「…………えと、……その、それは」
水地さんは、困ったように口を噤む。
『なんだ、じゃあふたりして収穫なしじゃないか。やり切った感出してる場合じゃないだろう、次の予定を立てろ、次の予定を』
環の言葉に、俺と水地さんはお互いの顔を見合わせる。
「……俺としては、助かりますが」
「わ、わたしも……」
『決まりだな。ふたりとも遠慮しいだからな、そんなことになってんじゃないかと思ったんだ』
呆れたような声の環は、『それじゃあな〜』と、さっさと通話を切る気配だ。慌てて、水地さんが待ったをかける。
「た、環っ、でも、あの、環はほんとうにいいの?」
『あん? はっはっは! 海外に行ってがんばってる間に、大事な恋人が他の女と遊び回っていていいのかってことか?』
身も蓋もない言い回しに自分で換言して、環はもう一度笑う。
『構わん構わん! あっはっはっはっ! というか、この話は前もしたろ?』
「そうだけど……」
『いいのさ、恋人と親友のために、わたしは寂しさを押し殺そうじゃないか。さて、そろそろ研究室に行かねばならん。またな、ふたりとも』
そんな言葉を最後に、環は通話を切った。
「い、……いいんでしょうか?」
「……良くも悪くも、環はああいう女です」
なんて言いながら、正直俺も、環がいったいどういうつもりなのか推し量れないでいる。もちろん、恋人と親友のためを思って言ってくれているんだろうが、……それだけだろうか?
俺と水地さんを会わせたがるのは、なにか他に理由があるんじゃないか?
だって、あいつは——
「…………」
「緋金さん?」
頭を振った俺に、水地さんが不思議そうな顔をした。
「……いえ、なんでもありません。よければ、次の予定を立てませんか?」
「は、はいっ」
……自分以外の誰かの心を、読み切ろうとしたってロクなことにはならない。できるのはいつだって、信じることだけなのだ。
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