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3話 悩みと誓い

「最初に行こうと思っている店は、すぐ近くにあります。……ですが、あの、ほんとうに歩きでだいじょうぶでしょうか?」


 今日は七月の頭。ここ北海道は本州ほどに暑くはないし、かつてトレーニングで嫌というほど外を走り回っていた俺にとってはこの程度の日差しもなんともないが、女性には堪えないだろうか。


「ぜひ歩いて行きましょう! 日差しもお散歩も好きですから」


 笑顔で返してくる彼女の顔に、無理をしている様子は見られなかった。

 俺たちはふたり、待ち合わせ場所の公園から、歩いて最初の店へと向かいはじめる。


「鈍いんです、わたし。暑い日でも寒い日でも、平気でお散歩に行くくらいでして……。よく、修道院の姉妹たちに呆れられるんです」

「それはお強い。素晴らしいことですね」


 姉妹、というのは本当の姉妹ではなくて、いわゆるシスター仲間のことだろう。

 そうだ、シスターと言えば。


「……そういえば、今日は修道服ではないんですね。なんとなく、常に着ているイメージが」

「わたしの所属している修道会は、場合によりけりですね。シスターとしてのお仕事をするときは着て、そうでない外出のときなどは着ない、のような。実は、会によってはまったく修道服を着ないところもあるんですよ」

「知りませんでした、そうなんですね……今日の服もお似合いですね」

「え、あ、そ、そうですかっ? あ、ありがとうございますっ」

「ああ、すみません、変なことを言いました」


 まさか、恋人の親友を口説いているわけではもちろんない。ただ、思ったことを言ってしまった。申し訳なさから、俺は話をすこしだけ変えた。


「……しかしこの前、はじめてお会いしたときは、修道服を着ていらっしゃいましたね」


 そこまで言って気付く、もしや。


「……では環は、お仕事中だったところを引っ張ってきたのですか?」

「いえいえ!」

「本当ですか? ちゃんと言っておきますので」


 なにせ、あの女ならばやりかねない。


「違いますよ、ふふっ、やっぱり仲がいいんですね」

「どうでしょう」

「あの日はですね、環に頼まれたんです。修道服の方がそれっぽいから着てきてくれって」

「うーん、それもどうかと……」


 あいつが言いそうなことではあるが、失礼ではないのか。

 ……いや、そういうことを言い合えるほど、ふたりが親しいと見るべきなんだろう。環は、親しい人間であればあるほど、遠慮がなくなるタイプだ。

 だから……俺はあいつに変なワガママを言われる度にいつも、すこしだけ嬉しくなってしまうのだ。


 それから俺たちはしばし、環の話で盛り上がる。どうしても、俺たち唯一の共通話題だけに話はそこに流れがちだ。

 そこから抜け出したのは、環の中学時代のこと(水地さんと環は同じ中高一貫校出身らしい。俺でも知ってるお嬢様学校だ)を話していたときだった。


「環は、卒業したら理工系の大学に行くんだって早くから決めていましたね」

「あいつは昔から好きだったみたいですね、そういう分野のこと。……水地さんはいかがだったんですか? シスターになりたいというのは、いつ頃から?」

「……わたしは」


 つい気になって軽い気持ちで聞いてみると、水地さんはすこし間を置いた。ちょうど差し掛かった背の高い街路樹が、彼女の顔に影を落とす。


「わたしは、小学校の終わりごろからです。将来はシスターになるんだって、ずっと。それで、高等部を出てから修道会に」

「へえ、小学生のころから……、かなり早かったんですね。シスターになろうと思ったのは」


 なぜなんですか、と続けようとして。

 俺は彼女の、その表情の硬さにようやく気づいた。


「っすみません、不躾に。忘れてください」

「あ、いえそんな! その、……ええと、……」


 水地さんはギュッと目をつむり、息を吐いてから言った。


「よろしければ、聞いていただけると。わたしがこうして緋金さんのお出かけにお付き合いさせていただいていることに、つながる話なんです」

「……というと、……悩みの話ですか?」


 シスターとして大きな区切りの前にあるらしい水地さんが抱えているという、ひとつの悩み。前回初めて会ったときは結局、それについては聞けなかったが……。


「はい、その話です」


 コクリと頷いて、水地さんは続けた。


「わたしの悩みは、…………——思い出せないことなんです」

「思い出せない……」


 それは、つまり。


「ご自身がどうしてシスターになりたいと思ったのか、それが思い出せない?」

「はい。……もうすこし正確に言うと、かつて自分がどうして……」



 ()()()()()()()()()()()()()()()と思ったのか、それを思い出せないんです。



 そう、彼女は続けた。

 ……『なりたい』ではなく『ならなければいけない』とは、かなり強い表現に思える。


「強烈な想いだったことだけは、はっきりしているんです。その決心に、なにかものすごく強い気持ちと事情があったことは。でも、……それがなんなのか、どうしてもどうしても思い出せなくて」


 水地さんは、ずっと沈んだ口調だ。


「言ったとおり、わたしがシスターへの想いを抱いたのは中学生になる前の、小学校の終わりごろのことです。物心つく前でもなければ、思い出せないほどの昔でもない」


 水地さんは、俺の三つ下である環と同級生。ということは、現在彼女は二十二歳。たしかに、中学よりも前のことが記憶の彼方の大昔というには、まだ早いはずだ。

 ましてや、人生を決めるほどの強い気持ちだったというのなら。


「思い出せるはず……いえ、忘れるなんてないはずのことなんです。それなのに、わたしはそれがどうしても……」


 まさか「いやあ、よくあることですよ」なんて、薄っぺらい相槌は打てない。


「本来、そんな人間が修道院に入ることも、そしてそこでの生活を続けることも、望ましくないことだと思います。自らの根っこの部分の確かめられていないのでは、やはり。でも、わたしはどうしてもシスターになりたくて、その想いだけははっきりしていて」

「…………」

「どうしても、どうしてもどうしてもどうしても。そんな気持ちばかりで、それしか言えなくて。……でも、そんなわたしを修道院の姉妹たちは受け入れてくれて……特に、院長にはずっとお世話になりっぱなしで」

「素敵な方たちなんですね」

「はいっ。大好きです、ほんとうに」


 彼女は嬉しそうに言ったが、だからこそか、また表情を硬くする。


「……修道院の生活には、いくつか段階があります。わたしはいま、有期誓願期という時期です。貞潔、清貧、従順というシスターとして三つの誓願を、期間限定で立てた状態にあります」

「なるほど、だから有期誓願。では、次は期間を限定せずに立てる?」

「はい。それは、終生誓願と呼ばれます。シスターとしての、最後の段階です。……わたしは結局、自分がどうしてシスターになりたいと思ったのかわからないまま、院長たち姉妹みんなに甘えて、ここまで来てしまいました」


 ギュッと、水地さんの拳が堅く握られたのがわかった。


「ですが、このまま終生誓願を行うわけにはまいりません。自分としっかり向き合って、根っことなった想いを思い出して、その上で先に進まなくては!」

「なるほど……ものすごく大事なご事情ですね」

「はい! ですが、……うう……」


 困ったように水地さんは眉をハの字にする。


「で、できることはやったつもりなんです。生まれ故郷のイタリアを含めて昔行ったことのある場所に行ったり、読んだことのある本を読んだり、両親や親類、昔馴染みにわたしが何か言っていなかったか聞き回ったりとか」

「しかしダメだった、と。……ああ、なるほど、それで『外の世界に触れに行く』なんですね。なにを当たっても思い出せないから、こうなれば触れたことのないようなものと触れ合って……」

「なにか昔のことと関係のあるものとどこかで触れ合えれば、その拍子に思い出せるかも、と!」


 運頼みにはなるだろうが、確かに、わりともうそれ以外にやりようがない気がする。


「納得です。……見えないでいる自分の内面を知るために外の世界と向き合う、というのはとても自然なことだと思います」


 武道なんかやっていると、精神修養は身近だ。俺など武芸者として大したものではなかったが、自分なりに学べたものはあると思っている。


「なんと言うか……自分自身の輪郭は、そのままでは見えなくて、外側のものに触れてはじめてはっきりしますから」

「…………」

「あ、すみません、知った風な口を」


 水地さんが、その綺麗な形の目をすこし丸くしてこちらを見ているのに気づき、俺は慌ててそう付け加えた。


「いえそんな! あの、……ふふ、院長とおんなじことをおっしゃるから、ついびっくりしてしまって」

「それは、恐縮ですというか……」

「それから、……環が『柊一に頼るといい』って言ってくれた理由が、よくわかった気がします。『あいつは頼りになるんだぞ!』って、嬉しそうに言うんです」


 恋人にそんなことを言われていたと聞いて、喜ばない男はきっといないのだろう。


「……期待に沿えるよう、がんばります」


 信頼を裏切るわけにはいかない。

 裏切られるというのは、どういうことであれ、辛いものだ。とても。


「いえ、でも、わたしのことは気にせず、なによりご自身の新作づくりにぜひ集中していただいて! わたしも応援いたします!」


 ギュッと両手でそれぞれ握り拳を作り、ファイティングポーズのようにして胸の前に掲げる水地さん。

 そういえば、俺の傷に消毒をしてくれる前にもこのポーズをしていた。

 人を励ますその所作のずいぶん自然なことが、日頃、彼女が周りに対してどういう姿勢で過ごしているのか、示しているような気がする。


「ありがとうございます」


 そう返しながら、……環からの信頼とはまた別のところで、できる限りこの優しい人の力になりたいとも思う。できる限りをしよう。


 しかし、……思い出せない、か。

 どうしてシスターになりたかったのか、それが彼女は思い出せないのだという。

 実際、どうしてだったのだろう。そして、彼女がそれを忘れてしまった——あるいは記憶に鍵を掛けてしまったのは、なぜなんだろうか。

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