29話 朝とりんご
「…………ん、う?」
……朝、か?
外から聞こえる鳥の声に、俺の意識はゆっくりと目覚めた。ベッドサイドの時計を見れば、朝の八時。
「ん、んん……」
グッと伸びをするも、まだ頭はどこかぼうっとしていた。
……なにか、夢を見ていた気がする。
「…………」
包まれるような、巻きつかれるような。
守られるような、食べられるような。
そんな夢。
……まあ、熱が出たときは変な夢は見がちか。きのうはそこそこの体温で、店まで休む羽目になってしまったのだ。夕方を前に悪化して、いつ寝たのかすら記憶にない。
「……ん、誰かいる? …………公太か?」
隣のリビングからわずかに人の気配がする。トントンと小気味いい包丁の音も聞こえた。
そうだ。きのう、公太に買い出しを頼んだはいいものの、あいつがやってくる前に限界を迎えてベッドの上で力尽きたのだ。……申し訳ない。
ここでやっと気づいたが、俺の頭の下には冷たい氷まくら、額には冷却シート。……まさか、朝まで看病させてしまったのだろうか。
慌ててベッドから降りる。体のだるさは多少あるものの、ふらつくようなことはない。無事、ほとんど治っているようだった。
リビングへ続く扉を開けながら、俺は言う。
「公太、すまん、お前も忙しいのに面倒を——」
「……あ、お、おはようございます」
キッチンで振り返って微笑んだのは、長い付き合いの友人ではなかった。
そこにいたのは金色の髪を朝の光に輝かせる、鳶色の瞳の女性。
「ごめんなさい、その、か、勝手に……ええと」
「…………」
この人は、…………この人は?
「きのう、あの、内海さんから鍵と荷物をお預かりしまして、……お熱、ずっと下がらなかったので、い、一応居ようかなと…………すみません」
「いえ、すみませんだなんてそんなっ、こちらこそご面倒を………………水地、さん」
だよな? ……どう見ても、そうだ。
「緋金さん、お加減は……?」
「ああ、もうバッチリです。顔色も悪くないと思うんですが」
「ほんとうですね、……よかった」
安心したように言って、ホッと息を吐く水地さん。柔らかく響く声もたおやかな仕草も、やはり見覚えのある水地さんのもの。
だけど、……だけど、なんだ?
……姿にも声にも仕草にも違和感はないのに、それでもどこかが、俺の知っている水地さんとは違うような気がした。
……なんて、ダメだな、まだ寝ぼけているらしい。あるいは、発熱の残滓でも居座っているか。
この人は水地さんだ。清廉で友人想いな、優しいシスター。
「重ね重ね勝手に申し訳ないのですが、朝ご飯を作っていまして、食べられ——」
鼻に届く食欲を誘う香りに、彼女が言い終えるより早く俺の腹が鳴った。
「……お恥ずかしい」
「ふふっ、そんな」
微笑ましそうにこちらを見る水地さん。彼女の瞳が、弓なりにしなる。
それは月のようだった。優しく、なのにどこか妖しく。
……水地さん、だよな?
なんて謎の疑いが、また頭によぎったときだった。
「そのご様子ならたくさん食べられそうですね。デザートも用意してあるんです、内海さんのお荷物にフルーツがいろいろと」
……フルーツ?
「ありがとうございます、たいへん助かります……。公太は、実家が農業の卸関係をやっているのでよく届けてくれるんです」
なんて言いながら、唐突に、鮮烈に、「これだ」というイメージが頭に浮かんできていた。
フルーツ。
「そうなんですね、どれも美味しそうです」
微笑む、水地さん。
ああ、……そうだ——
「……りんご」
「りんごですか? いえ、りんごは入ってなかったかも……」
「あ、ああ、いえ、ではなくて……」
りんごのケーキ、だ。
ずっと考え続けてきた、店に出す新作。
そうだ、りんごのケーキ。……これだ、絶対にこれだ。
出来上がりがはっきりとイメージできる。
「新作、りんごのケーキにしようかと」
「りんごのケーキ! 素晴らしいですねっ、美味しそうです!」
一瞬身構えるほどの酸味があって、しかし口に含んでしまえば逃れられない甘味が広がる。そんな、りんごという果物を使ったケーキ。
思いついてしまえばこれしかない気がするものの……なんでいまなんだろう?
どうして水地さんを前にしたこのとき、俺はそれに行き着いたんだろう。
りんご、りんご、……りんご、か。
「そっか、もうすぐ旬ですものね、りんごって。タイミングもバッチリです」
言いながら、甘く微笑む水地さん。
……りんご。
そういえば、彼女の信じる教えの中では、それはどんな立ち位置だったか。
有名な神話の中で、たしか、そう……
「ふふ、……いただくのを楽しみにしていますね、緋金さん」
——禁断の果実だ。
これにて書き溜め分すべて終了です。
怪獣大決戦の予感がし始めたところで、続きは人気が出たらというか、ご要望多ければ書こうかなと思います。
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(なお、書く作品だいたい重たくてやばめなヒロインばかり出てくるので、この『アリアさん』のお話を好んでいただけましたら、他のものも合うかもなのでぜひ。ファミ通文庫、スニーカー文庫から色々出しています。著作リストはプロフィールにて。
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