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28話 欲と罪

『うーん、しかし、そんな愛する恋人が倒れているのに駆けつけられないというのは、こんなに不快なんだな』


 あれほど鳴り響いていた頭痛はいま、ピタリと止んでいた。


『アリアがいてくれてよかったよ、悪いがちょっと看病を頼めるか?』

「…………」

『アリア? ……やっぱり怒ってる? お説教は日本に帰ってからちゃんと聞くよ! だから頼む!』

「……ええ、わかったわ」

『そうか、よかったありがとう!』

「環は、まだ日本には帰って来られなさそうなの?」

『あと一ヶ月くらいはな』

「そう」


 一ヶ月、ね。


『言っておくが、アリアだからいいんだぞ! 流石のわたしも、自分がいない間に恋人の家に他の女が入り込んでいるのは許し難い』

「わたしならいい?」

『ああ、ド安全だろうからな、あっはっはっは!』


 ひとしきり明るく笑って、環は「おっと」となにかに気づいた気配。


『……悪い、研究室のボスがちょっと呼んでいる!』

「行ってらっしゃい。ねえ環」

『なんだ?』

「お幸せに」

『あっはっはっは! 気が早い気が早い! それじゃな!』


 ピッと環は通話を切った。彼女の声が無くなって、部屋の中の静寂がなんだかよくよく耳につく。


 ここには誰もいない、わたしとあの人以外には。


「…………」


 無言、わたしは静かに歩を進め、リビングから寝室へと戻る。

 そこで彼、緋金さんは眠ったままだった。わたしがここに来ていることも、先ほどまで環と話していたことも知らないままだろう。


 どんな女がいま、寝室に這入り込んでいるのか、知らないままだろう。


「気が早い、か……」


 同じことを言うんだな、環も緋金さんも。

 それは否定の言葉ではない。二人とも、結婚の意思自体はあるんだろうと思う。


「おめでたい、ことよね。ねえ、環」


 それって、ずいぶんおめでたいわ。


 ギシ、という音がした。わたしの体が彼の眠るベッドに乗った音だった。

 彼の体へ覆いかぶさるような姿勢。


 実は結構長い、彼のまつ毛がよく見える。すこし汗の匂いがして、寝息がこちらの肌にくすぐったくて。

 つまり唇が近くって。


 わたしのそれが、彼と重なるために迫っていき——



「っ!!」



 なに、してる。


 なにをしてるんだ、わたしは。

 唇と唇が重なる寸前、ようやくわたしの体はびくりと止まった。


「っあ、あ、あ」


 慌ててベッドから降りる。床に降り立って、うまく膝に力が入らずそのまま床に崩れる。


「……はあっ、はあっ、はあっ…………ち、……ちが」


 なにが?

 なにが違う?


「…………はあっ、……はっ、……はっ」


 頭痛は、もうしない。

 欲を封じてきた箱は、壊れてしまった。


 ——欲しいんでしょ?


 声がする。清々しい声だった。やっと思いっきりこれが言える、なんて気持ちがよく表れている。


 ——その人が欲しいんでしょ?


 やめて、言わないで。


 ——ねえ、このために練習してきたんでしょ?


 お願い、突きつけないで。


 ——欲しいんでしょ? ……どうにかなってしまうくらい、どうしても!


「……た、まきの!」


 恋人だ。

 この人は、親友の恋人で。


「わ、たしは……」


 シスターだ。

 信じた教えに生きる身で。


 赦されない、そんなの絶対に!


 ——ほら、触ってみたかったんじゃないの?


「……っ」


 緋金さんがもぞりと体を動かし、その拍子にタオルケットがすこしズレて、彼の片手が露わになった。


 鍛えられた手。男性らしく骨張った大きくて指の長いそれは、いつも機敏に、だけどていねいに動く。まるで彼そのものようにして。

 最初に出かけたとき、一度握ったことはある。でもあの頃とは、もうあまりにも話が違う。


「あ……あ、……あ」


 制御が効かない、気持ちも体も。


 彼の手の甲に、最初に降り立ったのは中指。そこからわずかに遅れて薬指、人差し指、続けて小指。

 わたしの4本の指が、するりするりと緋金さんの肌を撫でるように動く。その感触が背中に甘い電撃を流していく。伝わる衝撃で、脳がふわふわとしていくのわかる。


 彼の手の上へ最後に親指が到達すると、わたしの指たちはまるで絡みつくように彼の手を包み、咀嚼するようににぎにぎと蠢く。

 蛇だ、わたしの中の蛇。


「ああ……」


 強く握ってしまえばこの人を起こしてしまうから、緩く緩く。でも、手の神経すべてで味わうように。


「あ、あ、あぁぁ……」


 空いているわたしのもう一方の手は、自分の口元へ寄っていった。そのまま親指をぎゅっと噛む。そうしていないと、正気がすぐに飛んでいってしまいそうで。


「あ、う、あ……」


 勝手に触っているくらいでこんななら、いったいどうなってしまうんだろう。たとえばこの手のひらが、わたしの頬を撫でてくれたなら。たとえばこの指が、わたしの髪を髪を梳いたなら。


 そういうの、環は知っているんだろう。


「なんで、なんで……」



 なんで、わたしのものじゃないんだろう。



「ほしい……」


 欲しい。


 欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい、絶対に欲しい!!


「だ、いじに、するのに……」


 彼の手は、皮が厚くて丈夫そうだけど、よく見れば傷がたくさんついている。そんなところもやっぱり、彼そのもののよう。

 わたしなら、この人を大切にする。自分自身を大切にできないこの人を、わたしの全部で包んで癒して守りたい。


 そう願うことは、どれだけの罪なんだろう。


「…………だめだ、……ぜったい……だめ……」


 わたしは、彼の手から自分の手を離す。


「で、でぎないっ、でぎない……!」


 視界はもう滲んでいる。ボロボロと、身勝手な涙が勝手に流れて。

 だって駄目なんだ。できないんだ。



「…………————がまん、でぎない……!」



 そしてわたしは、その人の唇を奪った。


 人生で初めての、唇と唇のキスの感触は、わたしの頭の中を焼いていく。焼き付いていく。


「…………——ぁ、あ……あぁ」


 ここが、最後の分岐点だったと思う。


 はっきりとわかった。

 もう切り返せない、引き返せない。

 取り返しが、つかない。


 わたしは、わたしは——。

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― 新着の感想 ―
[一言] 引き込まれて一気読みしました。 アダムとイヴの禁断の果実のケーキどんなお味だろう。
[一言] この小説は甘美な毒沼だね。 幸せな未来が全く見えないけどもう既に膝上まで浸かってるわ。 続き楽しみ。
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