27話 蛇と清貧
「アリアちゃ〜〜ん! んふふふふ!」
「どうしたの?」
わたしのもとへ駆けてきたその子は、きっとなにか素敵なことがあったんだろうとひと目でわかるほどの上機嫌だった。
「ね、ね、ね、……これみて!」
「っわあ……!」
そして彼女が指を差したのは、自身の前髪に挿した髪飾りだった。きのうまではつけていなかったそれは、蝶の形をしている。
「——……きれい」
「でしょ!」
「うん……」
派手すぎることのない品のいい存在感に、見れば見るほど不思議な輝きを返す色合い。
「…………」
見つめているだけで、自然に呼吸を忘れてしまう。
小学校に上がってすぐぐらいだった当時のわたしにとって、とにかくそれは、これ以上ないほど素敵に見えた。
「おばあちゃんがくれたの! たんじょうびのおいわいだって!」
「へえ〜、いいなあ……! おみせでもみたことない、そんなすてきなの……」
「なんかね、ずっとむかしに、がいこくにいったときにかったんだって」
じゃあ、同じものを手に入れるのはほとんど無理なんだ。そんなことを即座に思った。
「えへへ! アリアちゃんにいちばんにみせにきたんだ!」
近所に住んでいて歳が同じということから遊ぶようになったその子は、当時、日本に来たばかりのわたしにとって、いちばんの友達だった。
その日の彼女はすごくうれしそうで、わたしもなんだか一緒にすごくうれしい気持ちになった。
大好きな友達だったのだ。元気で、優しくて、温かくて——その髪飾りがよく似合う。
「アリアちゃん、きょうなにしてあそぶ?」
「…………えーっと」
この子はなにをしたがるだろうか。友だちだから、もちろんわかる。
この子がどういう子なのか、いろいろわかっている。
「よみあわせ、やろう!」
「え、いいの?」
問い返す彼女に、わたしは頷く。
「うん、わたしもたのしいから」
読み合わせとは、役者が台本のセリフをそれぞれ読んでいくお稽古だ。その真似っこをして、お気に入りの本をいっしょに音読するのがわたしたちのお決まりの遊びだった。
彼女お気に入りの遊び、でもある。
「やった! じゃあやろうやろう!」
手を上げて満面の笑みを浮かべる彼女には夢があるのだ。いつか女優になってハリウッド映画で主演を飾る、という夢が。
実際、素人の子どもであるわたしの目にも、セリフを読む彼女には特別な輝きがあるように感じられた。なにより、演技の練習がいちばんの遊びになるくらい、彼女には並ならぬ熱意があった。
絶対に女優になるんだ、という欲求があったのだ。
そして、それからいくつか年が巡ったある日のこと。
「アリアちゃん! わたし、わたし、……オーディションの審査、通った!」
「え、ほんと!?」
「うん!」
彼女は本格的に演技の道に進むべく、子役オーディションを受けるようになっていた。
「セリフを読むのが上手いって言われて……アリアちゃんが昔からずっと練習付き合ってくれたおかげだよ〜!」
「そんな、わたしも楽しくてやってただけだから。でも、じゃあこれでデビュー……?」
「ううん、むしろこれからが審査の本番! ……絶対受かってやる!」
「そっか! じゃあしっかり練習しなきゃだね、付き合うよ!」
「ありがと〜!! お願い!! ……ね、アリアちゃんはオーディション受けたりしないの?」
「え、わたし? し、しないよう!」
手を振ったわたしに、彼女は「もったいない!」と言った。
「演技、才能あると思うんだけどなあ。練習付き合ってもらってて、いっつも『上手いなあ……』って思ってるし、わたし」
「そんなことないって……」
「ほんとほんと! へへ、未来のハリウッド主演女優のお墨付き!」
すこしおどけて言った彼女に、わたしも笑う。なるほど、それは心強い。
「ふふ、じゃあ自慢にしようかな」
「してして! ……で、でも、なんてこと人に言うんだったら、まずはこのオーディション軽く受かるくらいじゃなきゃね、わたし。……うう、……受かるかな」
「大丈夫! 自信持って!」
わたしはグッと握り拳を作ってエールを送る。それからわたしたちは、また日が暮れるまで演技の練習をして——
「アリアちゃん」
見たことないくらい堅い顔でその子が会いに来たのは、しばらくしてからのことだった。
そろそろオーディションの結果が出る、そう聞いていたわたしはもちろんそのことを連想する。
彼女の性格を考えるに、良い結果だったら満面の笑顔で知らせに来そうな気がする。この表情ということは……
「……オーディション、受かった」
「…………え? ……え、……も〜! そんな顔してるからダメだったんだと思ったよ! もう!」
予想を裏切り、そして期待に応えた彼女の返答に、わたしは思わず破顔した。
「さすが、すっかり演技派女優だね、騙されちゃった——」
「引っ越すの。東京、行く」
「……え?」
彼女は堅い顔のまま、説明をしてくれた。
オーディションで見事主役を勝ち取ったこと。すごく期待をしてもらえていること。それを受け、両親が「やるなら本気でやろう」と言って、活動のしやすい東京に引っ越そうと提案してくれたこと。
「…………そ、っか。……芸能活動っていうと、やっぱり東京だよね。北海道にいたままじゃ、いろいろ大変だもんね」
「……うん」
「……いつ、引っ越すの」
「来月には……」
すこし沈黙が流れて、それから彼女は伏せがちだった顔を上げた。
わたしの手をぎゅっと握る。
「わたし、向こうに行ったら…………会いに、来ない! 連絡も、しないよ!」
「え」
「すごく寂しい! アリアちゃんと離れたくない……、オーディション受かったのだって、アリアちゃんのおかげ! だから、だから、……だからわたし、絶対会いにも来ないし連絡もしない!」
涙の浮かんだ瞳には、同時に覚悟も湛えられていた。
「夢を、叶えるまで! ハリウッドで主演になるまで!!」
そして彼女は、髪飾りを外す。きょうもつけていた、あの蝶の形をした美しい髪飾りだ。
「これ、アリアちゃんにあげる」
「……え、だって、そんな…………だ、大事にしてたじゃない、いちばん!」
「だから、あげる。もらってほしいの、アリアちゃんに。……ここまでこられたのはアリアちゃんのおかげ。これからそばにいられないのが寂しい。だから」
もらって、お願い。
こちらにそれを手渡しながら、彼女はそう言って。
わたしはうなずいて受け取り、大事に大事にぎゅっと胸元に抱え、思った。
——やったぁああああああああああああああ!!
パタン、とドアの閉まる音。
自宅へ帰ったわたしは、足早に自室へと入った。
「…………」
電気もつけない薄暗い部屋。わたしの手には、髪飾り。これまでずっと親友のもとにあったそれは、闇の中でも美しく。
「……あ、は」
やっぱり掛かったな、と思う。
年単位の時間が掛かったのだ、あの日、ひと目見て「絶対にこれがほしい」と願ってから。
「…………」
ほしい。ほしい、ほしい、絶対にほしかった。
初めて見た日、家に帰ってからもずっと頭を離れなかった。焼きついたように姿が浮かぶ。次の日も、その次の日も、いつになってもそれは変わらなかった。
あの子と遊ぶときは、いつもその髪飾りを目で追ってしまうし、家に帰ってからも気づけば思いを馳せてしまう。
ほしい、ほしい、ほしい!! ——でも、じゃあどうしたら?
考えた。あれを手に入れるためにはどうしたらいい? なにをすべき?
思考を巡らせ、ひとつ行き着く。わたしをこんなにも突き動かすのは、欲。それって、あの子にはあるのだろうかと。
すぐに思いつく。あの子は女優になりたがっている。
……そうか、だったら繋げればいい。繋がるのだ、だって大元はいっしょなのだから。
彼女の「女優になりたい」と、わたしの「あの髪飾りがほしい」。底にあるのは同じだ。未来を求める、ものを求める、『欲』。
目指すゴールは、「この髪飾りをもらってほしい」だ。
そして数年掛かったけれど、いま、わたしの手にはほしかったものがちゃんとある。
彼女も彼女で、女優になる一歩を踏み出した。
わたしの考えは間違っていなかったのだ。
「あ、は、は………………ううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」
だからって、これが正しいことなのか?
そんなの、絶対に否だ。
親友の夢を応援する気持ちは嘘じゃない、そこにできる限りで協力したいと心から思ったことも。でも、あの日からわたしの行動の裏には常に、「あれがほしい」という気持ちがあったのだ。
あるいはそれは、蛇をわたしにイメージさせる。狡猾に狙い、ずるりと巻き付いたなら逃さず、最後には獲物を丸呑みにする——蛇。
盗ってもいなければ奪ってもいない、誰も損していないのだからいいじゃないか……なんて、わたし自身が誰より思えなかった。
だって、親友との別れを知って、彼女の気持ちを受け取って、その場でいちばんに思うことが「これが手に入ってうれしい! やったあ!」だなんて、嫌だ。
友情より熱く、倫理より早く、わたしを突き動かすものが欲望だなんて嫌だ。
嫌なのだ、そんな自分がものすごく嫌だ。汚らわしくて吐きそうなほど。
汚い、汚い、穢らわしい。
部屋の中、崩れ落ちるように座り込んで、「汚い」と連呼するわたしの手の中、それでもその髪飾りは美しい。
ああ、ほしかった、どうしても。うれしい、わたしのものになったことが。
「うううううぅぅぅぅぅぅぅぅ……!」
でも嫌だ、こんなのはもう。
最後にしよう、こんなことはこれで。もうわたしはこんなこと、絶対にしない。
絶対に——
それからまた数年が経ち、わたしの部屋のクローゼットの奥にはひとつの箱があった。
キィィと音を立て、それを開ける。中には、指輪、人形、本、そして蝶の髪飾り。決してたくさんのものが入っているわけではない。
だけど、全部がわたしの心に直撃したものばかりだ。絶対にほしいと、そう願わずにはいられなかったものばかり。
「………………」
髪飾りを手に入れてから、わかったことが、ふたつ。
ひとつ、わたしにはどうやら才能があったこと。人の欲を見抜き、欲の連鎖を見出して、その流れを操り最終的に自分の願いを叶える力。
ふたつ、「もう止めよう」という決心程度で、わたしの欲は抑えることなんてできなかったこと。柵を作ったつもりでも、蛇はするりと抜け出してきた。
「…………なんで、…………なんでこうなの」
なんでもかんでも欲しがるわけじゃなかった。普段の物欲は薄い方で、お小遣いの使い道にも毎月悩むくらい。
なのに、時折訪れる「絶対にほしい」の気持ちは致命的に濃かった。
常識でも倫理でも決心でも薄まらず、叶えるまでわたしの心を一色に染め上げ続ける。
「……うううううぅぅぅ!」
無理やり手に入れたものはひとつもない。すべて円満に、元の持ち主に「もらってほしい」と手渡される形でわたしのもとに来ている。
手に入ったら後はもうどうでも良いとか、そんな風にも一切思わない。全部、心から大事にしていて。
だからと言って、罪悪感はいつも地震のようだった。足元を揺らし、わたし自身を揺らがす。
「……もう、もう、……もう」
もう、嫌だ。
何度も思ったけれど、それでも思う。こんな自分がもう嫌だ。
その嫌悪感には、このごろ、強い恐怖もついて来るようになった。
だって。
「……練習、なんだ、これ全部…………」
全部、心からほしいと思ったものだけど。
でも、ひとつまたひとつと手に入るたび、わかってきたのだ——これは、練習をしていると。
「い、……いつか、…………わたしは」
いつか、これまでのものより遥かに、決定的に、絶対的に、致命的に、『どうにかなってしまうほど、どうしてもほしいもの』と出会う。
それをこそ逃さないための、これは練習なのだ。
「あああぁぁぁ……」
頭上へ徐々に、暗雲が出来上がっている感覚がある。雷が、そこで力を溜め続けながら、地上に落ちるときを待っている。
それが、わたしは怖い。
どんな友情だって振り払い、当たり前の倫理すらを吹き飛ばす、そんな未来が来てしまう。
嫌だ、怖い、そんなの。
制御したい、ちゃんと自分を。こんな自分じゃなくなりたい。無闇に欲しがらない、ないことを良しとできる、清らかで自制の効いた美しい人間になりたい!
そのための方法が、なにかないだろうか。自分ひとりの決心だけで、わたしはわたしの欲を御せない。だから外からの枷となるなにかが、あってくれないだろうか。
——だから、流れとしては自然だったのだと思う。わたしが救いを見出したのが、俗世とは離れたところにある教えだったというのは。
ある日、書店で見かけた本の中、その言葉に出会ったのだ。
「三誓願……貞潔と、従順……」
そして。
「清貧」
自らのための財産を持たないという理念。
それを誓う、シスターという生き方。
「清、貧……シスター……」
これだ。
はっきりそう思った。
現代社会において、ある意味かなり極端なところにいる生き方だろう。だけど、それが良い。
それほどのものでなければ、わたしの内側から溢れる欲に蓋はできない。
「シスター、シスター、……シスター……!」
なるんだ、否、ならなくちゃいけない。わたしは、シスターに!
書店を出て、全速力で近くのお店でひとつのものを買い、勢いそのままに走って家に帰った。見えた光明が消えないうちに、すこしでもいまの気持ちを確かなものにしておきたくて。
自分の部屋に入り、宝物たちの入ったあの箱を手に取る。蓋を開けて中を見ようと思って、しかし頭を振ってその考えを払う。
わたしは箱に、いま買ってきた大きくて頑丈な鍵を取り付ける。ガチャリと、錠を掛けたときの音が頭の中に響いた。
「……なるんだ、なるんだ、……だから」
箱を持ってまた家を出る。向かったのは近くの山の中。
わたしはそこで穴を掘った。子どもが掘れる程度だから大した深さではなかったけれど、そのときできる最大限のもの。
穴の中、鍵の掛かった箱を置く。
「……はあ、……はあ、…………はあ」
無我夢中で動かした体も、上がった息も、……涙の流れてきた目元も熱い。その熱は、実感の生々しさだと思った。
わたしは、欲を埋めるのだ。わたしの中の欲を、埋めてしまうのだ。
「…………っ」
ザッ、と土を掛けていく。埋めろ、埋めろ、埋めるんだ。
箱は土の中に。欲は記憶の彼方へ。取り出すことの、もうできないように!
わたしは、わたしは、
「なるんだ……!」
清らかで美しく、欲で動かない生き方をする人に。
シスターに。
ならなきゃ、いけないんだ。
楽しんでいただけましたら、ページ下部のブックマークやポイント評価で応援いただけるとたいへんうれしいです。




