25話 否定と動画
『……いやあ、…………知られたくなかったなあ、その話、アリアには』
「……環」
『あー絶対叱られる! スーパーお説教コースだろアリア! わかってるわかってるわかってるってごめん!』
「否定、しないの、環」
わたしがまずなにより聞きたいのは、そこなのだ。
「ほんとうに裏切ったの? あなたは彼を」
『…………うーん』
「わたしは緋金さんと、そんなに長い付き合いでもないわ。だけど、そんなわたしにだってわかる。あの人は、脆い人よ」
『…………』
「強いところはたくさんある。だけど、なのに、根っこにあるものがあんなに危うい。傷つくことを厭わなくて、傷ついたことを誰かに伝えることも苦手で」
自分の不出来、そんな言葉で話をまとめてしまう彼の姿が、もう脳裏から離れない。
あの人は……
「なにより、傷ついた自分自身に優しくしてあげる気持ちを、削ぎ落とされたまま生きてきた。そんな人よ。……わかってるんでしょう、わたしなんかよりずっと」
お母さんが死んでしまったこと。そのことで父親に疎まれて、兄や姉と比較され責められ続けてきたこと。
長い時間をかけてあの人に刻まれた呪いは、濃く根深くおぞましく。
「どうして、環、……どうして……!」
『ずいぶん、……ほんとにずいぶん怒るな、アリア』
「そんなのっ」
『ああいやいや、叱られるのは予想できてた。だけど、いまのアリアの声はもうお説教の域じゃないなと思って。ここまでくると、叱るじゃなくて怒る、だ』
「なにが言いたいの……」
『アリアはいま、わたしのために叱ってるんじゃなくて、柊一のために怒ってる。……柊一と、しっかり仲良くなったんだな』
「……あなたが引き合わせたんじゃない」
わたしのこれも、大概ずるい言い方だ。
『ああ、そうだよ。気が合うと思ったからな。だけど予想以上だ。柊一の脆さに気づくとまでは思ってなかった。……柊一がそこまで見せるなんて考えてなかった』
「…………」
『なあアリア、柊一は傷ついていたよ』
平坦な声音で環は言う。
『動画を見せたとき、メチャクチャに斬られた顔をしたんだ。思ったよ、ああ、内臓までざっくりいったなって。届いちゃいけないところまで届いた傷なんだろうなって。そういう傷つき方をしたんだって、はっきりわかる顔だった』
「……よく、言えるわね。他人事じゃないのよ、あなたがやったの、あの人にやったの」
声が震える、頭が痛い。ズキズキ、ズキズキ、体全体へ響くほどに。
「ほんとうの、ことなのね、動画を見せたのも……動画に映ったことをしたのも」
『…………』
「予想以上だった、なんてまた言うつもり……? そんなに傷つくなんて思ってなかった?」
ぎゅっと彼のスマホを握りしめ、わたしは言葉を吐き出す。
「あの人は、あなたが大好きなのよ……。心から、愛してるのに……!」
『知ってるよ、柊一はわたしが大好きなんだ』
「環ッ!!」
『…………う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん、どうしようかな……』
返ってきたそんな環の言葉は、本気で迷っているときのトーンだった。
どうしようかな、って。なに言って……。
『これでわたしも柊一を愛しているんだ。あいつがまた傷つくことを望んでいるわけでもない。だからなあ、……いやあ、…………まー、でも、……うーん。……そっか』
「……環?」
『アリアは、柊一を大切に思ってくれてるんだもんな。なあそうだよな、アリア』
「っ、そうよ」
わたしの抱える想いを、まさか見透かしたのだろうか……そう思ったけれど、どうやら違うらしかった。
『そうだよなそうだよな、だからこれから話すことをもし柊一に伝えたら、あいつがもっと傷つくってわかるし、それを避けるだろうから、秘密にしておいてくれるよな。……うん、うんうん論理的にはそうだな。……じゃあいいか、話して』
「……これから話すこと? 緋金さんが、もっと傷つく?」
『ああ』
じゃあ、つまり。
「なにか、事情があるのね?」
環が緋金さんにしたことが帳消しになるわけではないだろうが、それも仕方ないと言える事情が、あるのだろうか。
『ある。まずな、アリア。動画を柊一に見せたのはほんとのことだ。だけど……』
環は、するりとそれを告げた。
『わたしは実際、他の男とセックスなんてしていないんだ』
「……っ、……ほ、…………ほんとう、なの?」
『ああ、してない。ていうか、アリアからすればそっちの方がしっくりこないか? わたしがそういうの、わざわざ他の男とするタイプに見えるか?』
「見えない……」
『だろ? 合ってるよ、さすがの付き合いの長さだな』
「で、でも! 動画は? そんなにはっきりした証拠があるから、だから緋金さんも信じたんでしょうっ?」
『ディープフェイクって聞いたことは?』
「……? いえ」
聞き覚えはない、きょうは知らない単語をよく言われる日だ。
『ざっくり言うと、自動で簡単に作れる合成映像だ。従来からあるような高い技術を持った人の手によるものではなく、機械学習を駆使した——なんて、細かい話はいいか』
「……合成、映像?」
『そ。技術は進歩してるんだよ。ある程度PCの知識さえあれば、昔は専門家じゃなきゃ作れなかったようなもんを作れるようになったのさ。たとえば、映画の中の有名人の顔を別人に差し替えるとか』
「………………まさか」
『そ。わたしと体型や髪型がよく似てる女が出てる、それっぽいAVの映像を用意して、顔だけわたしに差し替えたんだ』
ずるり、とわたしの体は床に崩れた。
『なかなかの出来だぞ! 粗もあるが、暗がりのシチュエーションだし、元からリアルっぽい感じのノイズもあるしで気付きにくい』
長い息を吐く。
そういうことについて、詳しいことはわからないけれど……、
「……裏切っては、いないの? 緋金さんを」
『ああ』
「……そ、っか」
一層、力が抜けた。
そうか、……そうだったんだ。
ぐったりしそうなわたしに、環は朗々と話を続ける。
「もちろん柊一はそう思っちゃいないがな。完全に信じたよ、合成だなんて夢にも思っちゃいないだろう。よ〜く見ればちょっと違和感があるはずだが……」
どこか安心したような気分になってしまっていたが、淡々と当たり前のことを語るような環の声が、神経に障った。
「っ……よく見る気になんてならないでしょう、恋人が他の人とそんなことをしてる動画なんて!」
『そのとおりだ。流したスマホからはすぐに目を逸らしてたよ』
そのときの彼の気持ちを想像して、わたしは唇を噛む。
「答えて、環。どうしてそんなことをしたの……。いちばん大好きな人が、これ以上ないくらい傷つくことがわかっていたのに、それでもそんなことをしなきゃいけなかった理由は、なんなの?」
『……んー、……そうだな、その質問にほぼ答えが載ってるんだが」
「は?」
『だから、”いちばん大好きな人が、これ以上ないくらい傷つくことがわかっていた”から、だよ』
そこまで言われて、ようやくだ。
ようやく、論理というより直感で、環の真意にわたしは思い至った。長い付き合いが、わたしにそうさせた。
『わたしはな、アリア。心から愛しているあいつについて——』
だって、そうだ、……これまでの付き合いで、環がなにか揉め事を起こすたび、わたしはそれを聞いてきた。
『データが取りたかったんだ』
環お決まりの、この言葉を。
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