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24話 寝室と質問

「……失礼、いたし、ます」


 父親のものを除けば、男性の部屋に入るのなんて初めてだった。

 そっと玄関で靴を脱ぎながら、心臓がバクバク鳴っているのを感じる。


「……え、ええと、……ここじゃ、ない?」


 短い廊下を抜けた先、静かに静かにドアを開けてまず入った部屋は、リビングルームだった。広めのキッチンもある。……さすがというべきか、そこにはいろいろ道具が揃っているようだった。

 だが、それ以外はさっぱりしている。飾り気のすくないその雰囲気は、実直な緋金さんのイメージそのもので。


「…………」


 そんな中、ソファに置かれたクッションが目についた。カバーには、すこし昔に流行った海外CGアニメ映画のマスコットキャラが描かれている。

 派手なその柄は、部屋の落ち着いた雰囲気の中で少々浮いて見える。部屋の主が選んで置いたものではないなと、すぐにわかった。


 というか……あれは、環の好きなキャラだ。

 クッションを皮切りにして、ひと目見回すだけで気がついてしまう。ひとりだけのセンスでは選ばれていないだろう品々があることに、誰かが頻繁に来ることを前提にした痕跡があることに、……女性の気配があることに。


「…………」


 勝手にジロジロ見るなんて失礼だ。なんて、まともな理由だけで見回すのを止めたわけじゃないことは、自覚できている。


「……緋金さんは、あっちかしら」


 部屋の中には、自分が入ってきたものとは別の扉があった。たぶん、その向こうが寝室だろう。


 何歩か歩けば、そこにはすぐにたどり着く。ドアをゆっくり開けながら、手元のビニール袋が小さくガサリと鳴って、その音がやけに耳に響いた。


「……あ」


 いた。

 ベッドの上、その人の姿があった。静かな寝息に閉じたまぶた、眠っているようだった。

 んん……、と苦しそうな唸り声が聞こえる。


「…………——」


 勝手にごめんなさい……! と思いながら、意を決して彼に手を伸ばし額に触れる。やはり、すこし熱い。

 内海さんから渡されたビニール袋の中から、冷却シートを取り出して額にそっと貼る。


「ん、これも交換しないと……」


 頭の下にあった氷まくらが溶けてしまっているようだった。キッチンへ行き、(重ね重ね勝手にごめんなさいと思いながら)冷凍庫を開けると、予備のものがあったのでそれを持ってきて交換する。


 その間も、緋金さんは起きなかった。


「…………」


 緋金さんが眠る姿を見るのはこれで二回目。


 この人は、起きているときと寝ているときでは印象がかなり違う。無防備ないまの顔には、普段にはないあどけなさがある。

 環は、これを何度も見ているのだろうけれど。


「環……」


 それこそここは寝室で、きっとふたりはここで手を重ね、唇を重ね、肌を重ねて恋人らしいことを何度もしているのだろう。


 だけど、環は他の場所で別の人ともそうしたのだ。

 心さえ重ねなければいいと思ったのだろうか。それとも、心を重ねてしまったからそうしたのだろうか。


「ん、……う……」


 うなされているのか、寝息に混ざって、すこし苦しそうな声が緋金さんから漏れた。


 彼の枕の横にはメモ帳が置いてある。開いたままのそれについ視線を向けてしまうと、ケーキのことについていろいろメモを書き込んであるようだと見てとれた。


 調子が悪いのに無理に仕事のことを考えていた——というより、落ち着かなかったんじゃないかと思う。体調を崩しているときは、悪いように悪いように物事を捉えてしまうから、……遠くにいる恋人のことを考えないように、とか。


 勝手な予想だろうか。でも、外れていないだろう確信があった。


「…………」


 ねえ、環。あなたは、わかっているの。いまの状況を、どれくらいわかってる?


 頭痛がする。ズキズキと頭を割りかねないほどの。

 わたしの中に、大きな感情が蠢く。


「…………ごめんなさい」


 心の中できょう何度もつぶやいた言葉を口から落として、わたしはベッドサイドの充電スタンドに置かれた、緋金さんのスマートフォンを手に取った。


 そのまま寝室を出る。


 リビングに立って、すぐにスマートフォンの画面に触れた。顔認証が走って、当然弾かれる。その後、キーパッドが出てきて暗証番号認証に切り替わった。


 スマートフォンは持っていないが、修道院にあるタブレットとメーカーが同じものなのでだいたいの操作はわかる。

 わたしがそこに入れたのは、環の誕生日。予想通り、ロックは解除された。


 続けて、通話用のアプリを立ち上げて、見慣れた名前に触れる。数回のコール音の後、彼女は出た。


『もしもし、どうした柊一ぃ』

「環」

『……あん?』


 すこしの沈黙の後、言葉が続いた。


『ん、アリア、か? もしかして』

「そうよ、いま電話だいじょうぶかしら?」

『なぁんだ、びっくりしたな。はっはっは、ちょうどいい、こっちはそろそろ昼飯の時間だから休憩に入るよ。きょうは研究室に居るのがわたしひとりでな、ちょっと寂しかったところだ』


 寂しい、か。

 どのくらい本音かだろうか。わたしの知る環は別に、人と話せないことを寂しいと感じる子ではない。だけど、わたしの中の環像はもうアテにならない。


『というか柊一はどうした? なんで柊一の電話でアリアが掛けてくる? あれ、きょうはいっしょに出かける日だったか?』

「緋金さんなら寝ているわ、わたしの隣で」


 正確には、隣の部屋で。


『あっはっはっは! 言うようになったなあアリアも! いいのかあ、シスターがそんなジョーク!』

「そうね」

『そうねって……で、柊一は?』

「だから、寝ているの……具合を悪くしていて。環は、なにか聞いていない?」

『ああん? 具合を悪くってほんとか!? いや、わたしはなにも……。だ、だいじょうぶなのか? 倒れたとかか?』

「すこし熱があるみたい。お友達の内海さん曰く、疲れを溜めてしまってたまにこうなるんだって」


 そう説明すると、環は電話の向こうで『ハアアア……』と大きくため息をついた。


『な〜んだ、よかった……いやよくはないが。まったくあいつは。たしかに、たまにやるんだよなそれ……。で、アリアは見舞い中ってことか?』

「ええ、そう」

『……アリアに連絡が来たのか?』

「知りたがりね、環はやっぱり。質問ばっかり」

『おいおい、そりゃそうだろう。恋人が寝込んでるんだぞ』


 ごもっとも。ねえ、でも環。


「不公平だわ」

『は?』

「わたしにもちょっと質問をさせて」

『アリア? いや、別にいいが……』

「どうして寝たの?」


 その問いに、環は困惑に染まった声を返してきた。


『……もしかして酔ってるのかアリア? それとも、お前も熱出しているのか?』


 酔ってる、か。どうだろう。

 熱は、……そうね、出ている。


『寝ているのはわたしじゃなくてだな——』

「どうして寝たの、別の男の人と」


 そして流れた沈黙は、わたしと環の間でこれまで一度も現れたことのない温度をまとっていた。

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