23話 信頼と鍵
やがてわたしが我に返って顔を上げたとき、……内海さんは、静かにジッとこちらを見ていた。
「……柊一の方も、アリアさんのことずいぶん信頼しているように見えましたけど」
「そ、そうですか?」
「キーケース、忘れていったでしょ?」
出し抜けに言った内海さんは、続ける。
「ほら、この間俺が店に行って、柊一とふたりであいつの部屋に荷物取りに戻ったとき。柊一は店のテーブルに、あなたの目の前に、部屋の鍵が付いているキーケースを忘れていった」
「えと、はい」
それを持ってわたしはふたりを追いかけて——話を聞いてしまった。
「油断してんな〜って思ったんですよね、あのとき俺。あいつ、普段はああいうミス、しないですから。それだけ気が緩んでたんですよ、あなたといっしょの時間の中で。気を許しているんです、あなたに対して」
「そ、……そうなんですか」
「気が合うんでしょうね、あなたと。……いや、なんかあのとき思ったんですけど」
ニコリと笑って内海さんは言う。
「ふたりが恋人でもおかしくないよなって。ほんとうの恋人の方より、むしろ」
不意に投げられた言葉は、わたしにとってはすぐに処理できない内容だった。
一瞬固まって、でも不自然にならないようになにか言わなくちゃと焦って、口からはよく考えずに言葉が出ていった。
「う、内海さんは、……環とお会いになったことはあるのですか?」
「ええ、何回か。めっちゃ頭良いんだなって人ですよね。ノリもちょっと独特で」
「……環は、たしかにちょっと独特ではあるんですが、……緋金さんのことが大好きで」
「…………」
「わたしにも、たくさん話をしてくれるんです、とてもうれしそうに、幸せそうに……」
「へえ、そうなんですね。……ちなみに、友だちだけに話す本音とか、そういうのってあったりしないんですか? いやいや、あってもなかなか言えないでしょうけど! はは」
冗談めかしたような、明るく軽い口調。しかし、どこかその内側を覗き込むのが難しいような声だった。
「本音、なんて、……環は」
「柊一は、マジで好きですよあの人のことが。裏なんてない」
「……っ」
「伝えておいてくれませんか? 柊一の彼女さんに。柊一はほんとうの本気で、あなたのことを大事にしてるって。誠実に向き合ってるって。……たのんます、ぜひ。……ぜひ」
内海さんは、ピッと頭を下げる。武道の中にある人らしい、きっちりとした仕草。それこそ、そこからは本気を感じた。
「はは、ちょっとしゃべり過ぎちゃいましたね。……これだけ外で話していて出てこないってことは、柊一のやつ寝てやがるな? 大人しくしてんのは良いことだな」
言いながら内海さんは、わたしから視線を切ってドアへ近づいていき——
「環は、緋金さんを裏切ったんですか?」
暴発してしまった、とは言わない。そのつもりじゃなかったけど弾みで聞いてしまったとか、そんなことは。
わたしは、わたしの意志で聞くことを決めた。
「浮気って、ほんとうのことですか?」
ピタリと動きを止めた内海さんの、その瞳が改めてまたこちらに向けられた。
鋭い光が、宿っている。
「知ってるんですか?」
「聞いてしまったんです、……申しわけありません、ここで緋金さんと内海さんがしていた話を。……キーケースを届けようとして、それで」
「…………なんだ」
ふぅぅぅと、内海さんは大きく長いため息。
「そんなら話が早いです。なあ、あの女なんなんだ?」
「……環は」
「お友だちのあなたにこんなこと言いたくないが、俺はあいつを許す気はない。柊一の相手だって、認める気もない。できるなら説得してくれ、もう別れろって」
「た、たしかなことなんですか、あの子が緋金さんを裏切ったというのは……」
わたしの確認には、はっきりとした声で答えが返る。
「一切ないですよ、誤解の余地は」
「でも、環はほんとうに緋金さんのことが好きで——」
「俺だってそう思ってたさ……!」
こちらの言葉を遮って、吐き捨てるように内海さんは言った。
「ノリはちょっと変だったけど、柊一のことをちゃんと好きなのは間違いなさそうだって。そんで、……柊一もあの女が好きだ。店がどんだけ忙しくても、それを言い訳にしないでめちゃくちゃ大切にしてた」
「……っ」
「恋人に疑われるようなことはしないって、相手を裏切るようなことだけは絶対にしないって、潔癖なくらいバカ真面目に向き合ってた。……それは、裏切られる痛みを知ってるからだ」
ギリ、と内海さんが手を握りしめたのがわかった。
「ガキのころから、あいつは裏切られてきたんだ。……空手で結果を出すたびに、これなら家族に認めてもらえるかもっていつも期待して、でも、……あいつの親はずっと応えなかった。『その程度がなんだ』って。『兄や姉と比べてみろ』って」
昔馴染みだという内海さんの語る言葉は、事実を告げるとき独特の素っ気なさがあった。それは、だからこそ生々しい。
「ずっと期待を裏切られ続けてきて、それでも認めてほしくて誰より汗かいて死に物狂いで稽古して、……いよいよ本気で夢の日本一狙えるところまでいった。そうしたら、……そうしたら最後に空手そのものが、あいつを裏切った」
全国大会の会場へ行く途中、子どもを助けて左目の視力をほぼ失った。緋金さんの空手家としての現役は、そこで終わってしまった。
「愛したものほど、尽くしたことほど、あいつを裏切ってきた。……なにが救えないって、たぶん——」
「緋金さん自身は、……裏切ったのは自分の方だと思っている」
それは、お定まりのあの言葉だ。
「自分の不出来、だって」
「……マジでよくわかってますね、あいつのこと。俺が言いたいのは、それをあの女はわかっているのかってことです」
まるで差し込む夕日のように、内海さんの声は怒りで赤い。
「いや、わかっているはずです。家族と夢に裏切られてきたあいつのこれまでのことを。それなのに、次はその恋人がよりにもよってあんな……」
「……具体的に、環はなにを」
「ああ、そうかそれは知らないですよね。いいですか、ありえないですよマジであの女、柊一にわざわざ、……あー、……いや、ええと……」
まくし立てるような勢いだった内海さんに、急にブレーキがかかった。彼はやがて、困った顔でわたしに聞いてくる。
「なんつったらいいのかな。……あー、あの、……ハメ撮りってわかります?」
「……? はめ……?」
シンプルに知らない単語だ。ポカンとするこちらに、内海さんはたいへん気まずそうな顔をしている。
「考えたらシスターさんになんつー話を……でも、いや、ま、こう言うしかないんですが……だから、……自分たちがヤってる、あー、セックスしている姿を動画に撮ることです。あるいは、撮った動画そのもの」
「……あ、……な、なるほど、はい……」
申しわけない、ものすごく気まずい説明をさせてしまった……——待って。
動揺から帰ってきて、話の流れを頭が掴んで、わたしは真実血の気が引いた。
「……まさか」
「そのまさかですよ。……あの女は、柊一に観せたらしいんです。自分が他の男とヤってる動画を。『悪い柊一、浮気した。これが証拠だ』って」
「………………」
絶句とは、このことを言うのだろう。
「疑いの余地がないでしょ? 本人が現場の映像を観せてきたんだから。ちょっとふたりで出かけたとかそういうんじゃなく、ヤってるところの映像をです」
「……なんで、…………なんで」
「あるいは、あの女なりの誠実さなのかもしんないですね。証拠といっしょに自己申告したんだから。はは、……笑えるぜ」
なにも言えないまま固まるわたしの前、内海さんは続ける。
「……不思議なもんですよね、愛情って。そんなことあったら、嫌いになるもんだと思うんですけど、柊一はそれでもまだあの女が好きなんです」
奔ったのは、ズキリとした頭痛。このところ不意に現れるそれは、その度に強くなっていっている気がする。
「……そういうもんすよね、恋愛って。くっつくべきところがくっつかなくて、離れるべきところが離れなくて。………………殴る蹴るでどうにかしてやることもできない」
ああ、痛い。頭が痛い。
割れるようだ。
「せいぜい、たまに遊びに行ってバカな話して、こういうときに見舞いにきて、それくらいですよ。男友だちのできることなんて」
内海さんは今度こそドアに近寄って、郵便受けの中へ器用に手を入れた。
「よっ、と……あったあった。ここの蓋の裏側なんす、不用心極まりないスペアキーの隠し場所。ま、俺も似たようなことしてるけど。……どうします? アリアさんもいっしょに入り——」
わたしの顔を見た内海さんは、ピタリと言葉を止めた。数秒、そのままジッとこちらを見つめ続ける。
「……ふうん」
「……内海さん?」
「いや、……俺ね、やっぱりあの女、柊一の彼女とは根本から気が合わないんすよ。だって、俺はこういうことをするタイプだから」
内海さんの手が振られ、銀色に光るなにかが宙を舞う。
こちらに向かってきたそれを咄嗟に掴めば、鍵だった。
「え、あの……」
「直感に従うんです、最後はいつも。論理派っぽいあの女とは真逆でしょ? ああ、これもよろしくお願いします」
ビニール袋もこちらへ手渡し、内海さんはわたしに背中を向けた。
「う、内海さん? あの……」
「それじゃ。……頼んますね」
言うが早いか、彼はそのままスタスタ歩き去っていく。
「っ……、わたし、その……!」
なにを言うべきか。『なんでですか』も『ありがとうございます』もしっくりこなくて、投げる言葉を迷っているうちに、内海さんの姿は曲がり角の向こうに消えた。
残ったのは、間抜けに立ち尽くすわたしと、お見舞いの品が入ったビニール袋。
そして、彼の部屋へ入るための、鈍く光る鍵。
「…………」
世界になんとかギリギリ光を降らし続けていた夕日は、しかしいよいよ沈みかけ。
これから、やがて夜が来る。
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