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21話 良い顔と呪い

「うーん、添えたレモンが爽やかですね。チーズケーキか……チーズケーキ、……うーん、なるほど」


 そうブツブツ呟きながら唸る俺の前、水地さんは穏やかに微笑んでいる。


「日本では定番の大人気ですよね、チーズケーキ。わたしも好きです。でも、専門店なんて初めて来ました」

「結構増えてきているんですよ、こういう特化型の店も」

「へえ〜、ケーキ屋さんも個性の時代なんですね。……なるほど。……選びたい需要と選ばれる自信がある、と。それはどっちが先だったのかな……」


 水地さんは店内を見渡し、そうぽつりとつぶやいた。


 きょうは、初回のときと同じようにしてケーキ食べ歩きをメインにしている。前よりも足を伸ばして、すこし遠目の店を回っている最中だ。


「気になりますか、やっぱりそういうことが」

「す、すみません、習い性というかなんというか……あはは」

「商売を始めたらきっと大成しますよ。シスターさんだとそうもいかないのでしょうが……ん? いやそういえば、シスターさんたちの作っているお菓子が、お土産コーナーの定番品になっていたりもするような」


 俺もなにかの機会に食べたことがあるが、ていねいに作られた優しい味で美味しかった記憶がある。


「ああ、ありますね。そういう形で社会と接する修道会もありますよ。……で、でも、…………でも!」


 水地さんは恥ずかしそうに続ける。


「昔、院長に『うちはそういうのはやらないのですか?』と聞いたら、『アリアが売りもの食べ尽くしちゃうかもしれないから、やめとこうかしらね』なんて……! あ、あ、笑わないでくださいっ」

「……っ、いえ、失礼。……っ、っ」

「もう!」


 お菓子を口いっぱいに頬張っている水地さんを想像してしまい、口元が緩む。健啖さを何度も目の当たりにしているものだから、つい。


「食べ尽くすとまではいかなくとも、アリアの取り分は想定しておいた方がいいかもですね」

「て、天使の取り分みたいに言わないでください! しませんよぅ盗み食いなんて! 院長も緋金さんもわたしを誤解しています!」


 ちなみに天使の取り分とは、ワインやブランデーづくりにおいて、熟成中に蒸発して減ってしまう分のことを言う。洒落た言い回しで、なんとなく好きだ。


「水地さん、いつも良い顔で食べますからね」

「むう……」

「はは、すみません。……いえ、ご機嫌取りに言うんじゃないですが、いちばんですよそれが」

「いちばん?」

「はい。俺たち作る側の人間にいちばん効く攻撃です。それ出されるとお手上げですから」


 挙がる手はやられたのハンズアップであり、やったぜのガッツポーズである。


「……環は」

「環?」

「あの子は、良い顔で食べますものね」

「ああ、そうですね。あいつもなかなか……はは、それこそ初めて師匠の店にやってきたときなんて見事なものでしたよ」


 人混み嫌いの環はあの日、大学からの帰り道でお祭りがやっているなんて知らなくて、『緊急避難』として店にやってきた。

 だから、最初はとんでもないしかめっ面をしていたのだが……、


「ケーキをひと口ほおばった途端、そのままCMに出られそうなくらい笑顔になって。あれは、見ていて気持ちよかったですね」


 俺は普段はキッチンにいたが、店内スタッフの手が足りない日はヘルプで接客に回ったりもしていた。あの日も、ちょうどそうだったのだ。

 懐かしいな。


「……それに、やられちゃったんですか?」

「え?」

「緋金さんが環とお付き合いした理由、です。あの子のどんなところを好きになったのかなって」











「緋金さんが環とお付き合いした理由、です。あの子のどんなところを好きになったのかなって」


 わたしがそんな、自分自身を斬り付けるような質問をしたのは、つまり断ち切りたかったからに他ならない。胸の中の、この誤った気持ちを。


「……ああ、……ええと」

「ふふ、やっぱり照れますか、こういうお話は」

「そ、……そうですね。なかなか、しないもので」


 緋金さんはコーヒーをひと口、喉を湿す。慌てたような誤魔化すようなそんな仕草が、可愛らしかった。


「どんなところ、か……うう〜ん、……そうですね」


 しばらく黙った緋金さんは、やがてポツリと落とすように言った。


「強いところ、ですね」

「…………」

「もともと、やたら良い顔でケーキを食べる姿が良いなとは思っていたんですが、決め手になったのは、……あいつが強いと思ったことです」


 緋金さんの瞳は、コーヒーの黒い水面を見つめている。自分の顔を覗き込むかのようにして。


「自分自身の『こうしたい』とか『あれがいい』を、掴んだり選んだりするのに迷いも躊躇いもない。あいつは、他人の評価や価値観で自分を揺らすことがない。……俺の目にはそう映ります。そしてそれは、俺にはない強さだなと思うんです」

「……たしかに、環ってそういう子ですよね」

「ええ。……良くも悪くも、なのかもしれないですけどね」


 苦労していますと言うように、最後は冗談口な口調の緋金さん。

 ……でも、ああ、でも。

 それが冗談でもなんでもないかもしれないことを、いまのわたしは知ってしまっている。



『一度裏切ったやつは何度だってやるぞ。俺には、あの女にまともな倫理観があるとは思えねえ』



 あの話を聞いてしまった後、結局わたしは、その場へは出ていかずにキーケースを持ったまま店に戻った(だから、緋金さんたちはわたしが話を聞いていたことは知らないままだ)。


 とてもじゃないが、うまく飲み込めなかったのだ。

 ……正直、未だに信じられないでいる部分はある。


 だってあの環が、()()環が、……浮気だなんて。

 倫理的にするはずがない——というのは、ほんとうに申しわけないけれど、ちょっと違う。環はその辺の枷というか、常識みたいなものが人よりおおらかだ。


 わたしが信じられない理由は、まず、そもそも環がそんなに他人に興味を持つのかという点にある。

 誰かと付き合ったことですら大きな大きな驚きがあった。それくらい、わたしの知る環は他人に興味がない。


 なぜかわたしとは友情を築いてくれているけれど、友人にしたって自分の知る限り、他にひとりもいないだろう。作れないのではなくて、作る必要を感じていない気がする。

 そんな彼女が、浮気相手なんてわざわざ作るだろうか。どうしても、ものすごく違和感がある。


 それから、理由はもうひとつ。


「緋金さんにだから、言いたいことをたくさん言うんですよ。環は、緋金さんが大好きですから」


 環は、ものすごく緋金さんに心を預けている——はずだ。すくなくともわたしの目には、はっきりとそう映る。環は緋金さんのことを真実、強く愛しているように思えてならない。明確な執着と言ってもいいくらいに。

 果たして他の人なんて、あの子の目に入るのだろうか。


「大好き……、か」


 つぶやいた緋金さんは、一瞬目を伏せた。


「水地さんには、そう見えますか」

「……ええ、もちろん」

「そうですか……いえ、よかったです。はは、親友のお墨付きなら安心ですね」


 なんでもないように、緋金さんは穏やかに笑う。


 ……わたしの知る環でだけ判断するなら、彼女の浮気は信じられない。

 だけど、……だけど、もしそれがほんとうだったら? 誤解や行き違いじゃなくて、真実だったら?


 すくなくとも、緋金さんはそう思っている。友人の内海さんの怒りに対し、緋金さんは環を庇っていたけれど、最後まで恋人の不貞自体は否定しなかった。

 だからこそ、思い出してしまうものがある。



『母を殺して、生まれておきながら、不出来なままでなんなんだろうって』



 彼が不本意にお酒に酔った日、暗い公園でぽつりと落とした言葉。

 この人はずっと、自分を認めてあげられないままなのだ。お母さんが亡くなったことと、それでお父さんに責められ続けたことが、彼にとっての呪いになった。


 じゃあそんなこの人は、最愛の恋人に裏切られてしまったとき、どんなことを思ったのだろう。


「……水地さん?」

「え、あ、いえ……」


 考えるだけで、暗澹とした気持ちになる。相手より自分を責めるだろうことがわかりきっているから。

 心配だった。……緋金さんは、どんな気持ちで毎日を過ごしているのだろう。


「……その、緋金さん、…………実はずっと気になっていたんですが、ご体調優れないですか?」

「え、そう見えますか?」

「はい、顔色が……」


 そう、それこそきょうは顔色が悪いのだ。目もすこし充血している。


「あー、このところ、遅くまで試作を作っているのでそのせいかもですね。いや、お恥ずかしい」

「きちんと睡眠を取ってお休みするのも大切ですよ。調子が悪ければなおさらで……緋金さんって、ご自身の体調不良に鈍かったりしませんか?」


 わたしの指摘に、緋金さんはちょっと目を見張った。


「……実は昔からそういう節があるようで、ずいぶん悪くなってからようやく気づくことがたびたびあるんですが……どうしてわかったんですか?」


 ああ、やっぱり。


「そうか、環からなにか聞いて——」

「っ違います」


 理性で抑えるより先に、言葉が出ていってしまった。

 ……わたしが。わたし自身が、わたし自身の目であなたのことをよく知ったから。だからわかったのに、それを『環』で塗りつぶされるのが嫌で。


「……ほ、ほら、緋金さん、わかりやすいですから。ご無理しそうなタイプというか」


 環はこんなこと、当然わかっているのだろう。この人の強いところも弱いところも、わたしなんかよりしっかり知っているはず。


 ……でも、だったら。

 ねえ環、だったらどうしてあなたは緋金さんを裏切ったの? ……ほんとうに裏切ったの? こんなに危うく脆いこの人を。


 ……わたし、だったら。

 わたしだったら、そんなこと——なんて考えが、いちばん恥知らずだ。


「がんばってしまうのはわかりますが、お身体は大事にされてください。きょうのこのお出かけも、切り上げた方が」

「いえいえ、それほどではないので。ありがとうございます、きょうは大人しく早めに寝ますよ」


 ほんとうだろうか。……結構怪しい気がする。

 心配のし過ぎだったらいいのだけど……。

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