20話 傷と身勝手
「んん……しっくりこないな」
クリームをひと舐め、ぼやいた声は自分以外誰もいないキッチンに溶けて消える。
「…………んんん」
俺はグイッと腕を伸ばし、凝り固まった筋肉をほぐした。時計を見れば、あとすこしで日付が変わる。
一仕事終えた爽快感がある、と言いたいところだが、まったく進捗は芳しくない。新メニューづくり、苦戦中である。
——だが、新メニューではないが、きょう出したのは結構うまくいったかな。
ティラミスを筆頭にしたイタリア菓子シリーズ。まだまだ改良点なんか山ほどあったろうが、自分でもいちおう、人に出せるくらいのものにはなったと思う。
水地さんも喜んでくれた……いや、優しいあの人はどんな出来でも笑顔を見せてくれるのだろうけれど。
「……いい時間だったな」
水地さんと過ごす空間は、穏やかで暖かい。ホッとするというか、それこそさっき腕を伸ばして体をほぐしたときのように、心の凝り固まりを取ってくるというか。
なんて、勝手に癒されている場合ではないか。そんなことのために環はあの人と俺を引き合わせてくれたわけじゃない。
俺の側としては、しっかり自分の仕事をがんばらなくては。
……新メニュー、なんとなくだが、形にすべき「これ!」というものがある気はするのだ。
この間の花火大会のときくらいから、そんな感じがある。あのとき、なにかを掴みかけていたような……。
「…………ううん」
だが具体的にものにしようと考えると、スルリと頭から逃げていく。まだしっかり握れていない感覚。
まあ、試行錯誤だ。足掻くのには慣れている。
なんて考えていると、ポケットでスマホが震えた。画面を確認してみると、新規メッセージだ。差出人は、きょう会ったもうひとりの友人。
『データサンキューな! バッチリ再生できたわ! それから! 俺が言ったこと、ちゃんと考えろよな!』
「……考えろ、か」
付き合いの長さというのは、こういうときに鋭さを持つ。……おっしゃるとおりだよ、公太。
俺はいくらか、それ(傍点)を考えることを避けているんだろう。
……痛いのだ、傷が。
「……っ、タイムリーだな、ずいぶん」
公太へ返信を打とうとしていると、着信。しかし相手は付き合いの長いその友人ではなくて——
「もしもし、どうした?」
『よお〜柊一、新作ケーキづくり真っ最中か?』
「お見通しだな、そっちは?」
『わたしはきょうの作業を切り上げたとこだ!』
「ん、……こっちが夜だから、ドイツはまだ夕方だよな? なんだ、お前が夕方に研究を切り上げるとは、調子でも崩したか?」
軽い冗談口調で、しかし本気の心配を込めて問うと、環は明るく笑った。
『はっはっは! 違う違う、連日連夜篭って作業ばっかりやっていたら、あっちのボスに研究室から追い出されたんだ! 『すこしはドイツの街を楽しんでこい』ってさ』
たしかに、電話越しに聞こえてくる喧騒は屋外のものだ。
「へえ、いい人じゃないか」
『だろ? それで——Wie bitte?』
環の声がそこでわずかに遠くなり、彼女以外の人の声が小さく聞こえ始めた。どうやら、誰かに話しかけられたようだ。
聞き慣れた恋人の声で紡がれる言葉は、遠くなっていなくても俺には理解できないもの。
『Ich unterhalte mich jetzt mit meinem Geliebten——』
適当に覚えた付け焼き刃のドイツ語、なんて本人は言っていたが、なかなかどうしてサマになって聞こえる。
しばらく待つと、電話口に日本語が戻ってきた。
『悪い悪い、街を案内してくれてるこっちの研究室のやつがな、誰と話してるんだって』
「感心していたところだよ、普通にドイツ語で会話できてるじゃないか」
『はっはっは、だろう! めちゃくちゃざっくりだがな! ま、あの程度喋れればなんとかなる。込み入った話は翻訳アプリ通すし』
「そういう時代か。結構、そっちの人ともなかよくやれているんだな」
『研究やってる限り、話題には困らないさ』
さっき、環のそばから聞こえてきた声は、男のものだった。理工系なんだからそりゃ男の方が多いだろうし、なんてのは頭ではわかっている。
だけど。
——一度裏切ったやつは何度だってやるぞ。……そんな友人の声がフラッシュバックする。
公太が悪いという話じゃない。結局のところ、俺が肚を決めかねているのだ。
信じると決めたのなら、それを貫けばいいだけで。
まだ疑っているのなら、納得できるまで向き合えばいいだけなのに。
『そっちはどうだ? アリアとは上手くやっているか?』
「おかげ様で。あの人と上手くやれないやつを探す方が難しいだろうがな」
『はっはっは! 確かに! だけど、特に相性いいとは思うけどな、柊一とアリアは』
なあ、環。
お前は、ほんとうはどういうつもりなんだ。そんなことを言うのは、俺たちと引き合わせたのは、まさか俺と水地さんがくっついた方がいいとか、そう思っているのか。
なんて切り込めないところが、傷から逃げ続ける俺の愚かさであるならば。
「一緒にいてホッとする人だよ、波長は合っているかもな」
『似てるところあるよな、うんうん』
この人に裏切られた痛みの辛さをいまだ吹っ切れないのが、俺の弱さであるならば。
『だけど柊一、……まあ、言えた立場じゃないのはわかっているが』
「なんだよ」
『お前の恋人はわたしだぞ、忘れてくれるなよ』
……こんなことを言われてうれしく思ってしまうのが、俺の救えなさだろう。
「……どうだろうな」
『はっはっは、頼むよ。愛している、柊一。ほんとさ』
愛を囁く彼女を身勝手だと、俺は思えていない。正直言って、……環に裏切られたあの日から俺は、それでもこの人を責める気になれていない。
裏切られる程度に、俺が環を惹きつけられていなかった。いろいろなところに目移りする好奇心の塊であるこの人にとって、目を逸らせない存在であり続けられなかった。
なんて、自虐に酔った馬鹿な感傷だとは思うし、公太にもさんざん言われた。けれど、どうしてもそう考えてしまうのをやめられない。
俺の不出来でしかない——そんな結論が、いちばん自分の中で自然なのだ。
『ところで、アリアとは次にどこ行くんだ?』
「ああ、次は……」
——それからいくらかの会話を交わして、俺たちは通話を終えた。
国を跨いだ電話越し、環はいつも通りのマイペースな恋人で。どんなことを考えているのか、相変わらず見通せなかった。
「…………」
自分以外いない、がらんとしたキッチンをなんとなく見渡す。それからスマホにまた目を移し、公太へ返信を打つ。
ため息ひとつ。どこか、心が落ち着かない。
「……もうすこし、やっていくか」
つぶやいて、俺はまた調理器具を手にした。
なんだかんだ、このところはずっとこうだ。……夜になるといろいろ考えてしまうものだから、連日連夜、キッチンにこもって手を動かし続けている。
特にきょうは、遅くまでやっていってしまいそうだ。環の声と、そのそばで鳴った知らない男の声が、頭からうまく抜けてくれない。
体と頭が、なんだか鈍く重い気がする。
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