2話 猫とシスター
「ほら、暴れるな、すぐ降ろしてやるから……」
ニャアアアアアンヌウウウウウン!! と、すごい声。捕まえたその子猫は、俺の腕の中でがなり立てている。
とれたての魚のようにビチビチと暴れる体を、なんとか怪我をさせないように押さえながら、俺は木の枝から飛び降りた。
「……っと」
高さはあったが、これでも鍛えていた身である。衝撃を関節で吸って、無事に着地。
「ミャーちゃん!!」
小さな女の子が、俺のところへ駆け寄ってきた。
半泣きの彼女へ、子猫を手渡す。ミャーちゃんと呼ばれた子猫は、女の子の体にひしっとしがみついた。
「おにいちゃんありがとぉおおお!」
「どういたしまして」
木に登ってしまって降りられなくなっている子猫……なんて、お話の中では定番だが、実際に目にすることになるとは。
親猫はいないのかと周りを見渡せば、近くには困り果てた顔の女の子。話を聞くと、脱走した飼い猫だというので、なんとか助けることにしたのだ。
「その子、ずいぶん怖かったみたいだ。早く家に戻してあげるといい」
「うんっ!!」
大事そうに子猫を抱えた女の子は、もう一度「ありがと〜!」と満面の笑顔で言ってから、小走りで去っていった。
「よかったよかった……いや」
助けられたのはいいが、状況がちょっとまずい。腕時計を見れば、待ち合わせの時間はもうすぐだ。
もっと手早く猫を助けられていれば問題はなかったのだが、未熟である。……昔の俺ならもうすこし手際よく、なんて考えても仕方がない。
とにかく、急がなければ。俺は、できる限りの速度で待ち合わせ場所へと走った。
「……着いた」
一度も走る足を止めることなく海沿いの大きな公園へとたどり着いたが、集合時間は、結局いくらかもう過ぎていた。タクシーも捕まえられなかったのは、普段の行いが悪いせいか。
公園の中心にある大きな木の下が、待ち合わせ場所だ。
いるだろうか、と視線を彷徨わせるまでもなかった。
「……っ」
そんな場合ではないとわかっていても、一瞬、俺は息を飲む。
陽光に映える鮮やかな金髪、落ち着いた鳶色の瞳。伏せたかんばせは、人形のように整ってどこか神秘的ですらある。
今日は修道服ではないらしい。その身を包む落ち着いたデザインのワンピースが、海の輝きを背景に、品よく柔らかで。
美しい。その概念を、そのまま地上に下ろしたかのようだ。
「……水地さん! 申し訳ありません!」
「っ緋金さん! よかった……!」
駆け寄ったこちらの声に反応し、彼女は憂い顔をパアッと明るくした。
やはりご心配をおかけしていたようで、こちらの申し訳なさもひとしおだ。
「遅くなってしまって、ご迷惑とご心配を……面目次第もなく……」
これではこの間の環の遅刻に、何も言えたものじゃない。
「いえいえ! ご無事だったならよかったんです! ……むしろ、わたしが携帯電話を持っていないせいで、連絡取れず申しわけないです……」
「いえ、そんなことは」
遅れた俺が悪いのだ、百パーセント。
「あの、事故とかがあったわけでは……?
「そういったことはまったくなく、単に、すべて自分の不出来です」
改めてしっかり頭を下げると、水地さんからは慌てた気配が伝わってくる。
「そんなっ、遅れたと言ってもほんのちょっとですし、ご無事なことがいちばんですから、お気になさら……」
「……水地さん?」
「まあっ、たいへん! 緋金さん、血が……」
「え? あ……」
俺の手の甲に、言われてみればたしかに一筋、赤い線が走っていた。
「引っ掻かれていたか……」
「引っ掻かれて?」
思わずこぼしてしまったひとりごとのような言葉は、しっかり水地さんに届いていたらしい。
「あ、いえ、なんでもないんです」
「……えと、とにかく、手当てをしましょう!」
おっとりした印象からはすこし意外なくらいに素早く、彼女は俺の手を取って歩き始めた。まるで、ちいさな子どもの手を引くようにして。
そして、近くにあった水飲みと手洗い用の水道までやってきて、蛇口をひねってこちらの傷口を洗う。
「よしっ、では消毒して絆創膏をつけましょう」
「って、いやいや」
彼女の手慣れた様子に、ついされるがままなっていたが、ようやくそこで俺は口を挟む。
「これくらい、舐めておけば治ります」
「ダメですよ! 猫ちゃんは可愛いですが、傷口からバイキン入ってしまうかもしれませんから」
「わ、わかりました……って」
猫に引っ掻かれた、とまではまだ言っていないのだが。そんな俺の思いを読み取ったのか、水地さんは苦笑する。
「シャツに、猫ちゃんの毛が……」
「あ、ああー……」
しまった、気がつかなかった。
というか、もちろん下心などなしに付き合う相手と言えど、女性の隣を歩くのだから、声をかける前に身嗜みを確認し直すべきだった。こういうところが、我ながら愚かだ。
「消毒、ちょっとだけ滲みますが、我慢していただけると……」
「えと、はい」
胸の前、右手左手それぞれできゅっと握り拳を作った水地さんは、そのポーズと一緒に「がんばってください!」と言った。
それから彼女は、肩に提げた小さなバッグから道具を取り出し、手際良く消毒をして、最後に絆創膏を貼ってくれた。
見れば絆創膏は、キャラクターものの可愛らしいデザインだ。
「……ご、ごめんなさい。子どもたちによく使うのに持ち歩いているもので……」
「いえいえ、ありがとうございます」
「ふ、服の毛も、取っちゃいますねっ」
ガーゼ用だろうテープをくるりと輪の形に丸め、ぺたぺたと俺のシャツに付けては剥がし付けては剥がし、猫毛を掃除してくれる。
とにかくアホみたいに世話焼きなんだ——なんて、環から話を聞いていた通りの人のようだ。だが、さすがにそんなことまでさせるのは申し訳ない。
「ありがとうございます、ですが、自分で……」
「え、…………あ。っそ、そうですよね! いえ、あの、あ、あ、さ、さっきからこちらこそごめんなさい! つい……子どもたちにしている調子で……!」
「いえいえ、ありがたい限りです」
言いながらも彼女からテープを受け取って、自分でぺたぺたとする。
ちらりと見ると、水地さんの白い頬にひと刷毛、朱色が差していた。
「だ、男性に、き、気安く触ってしまうのは、はしたなかったですね……あ! 環に謝らなくては……! 友人の恋人にこんな……」
そう言って、今度は顔を青くする。
……神秘的な雰囲気に反して、というべきだろうか。
水地さんは、コロコロと表情の変わる人だ。それは、じいっと間抜けな顔で眺めてしまうくらいには、ひどく魅力的に映る。もちろん、変な気は起こさないが。
「だいじょうぶですよ、環は気にしないでしょう。ありがとうございました」
最後にもう一度、シャツに毛が残っていないか確認してから、近くにちょうどあったゴミ箱にテープを捨てる。
「すみません、ありがとうございました。なにからなにまで」
「そんな、…………あの、遅れた理由って、やっぱり猫ちゃんのことですよね? おうちで飼われていらっしゃるんですか?」
「いえ、あー、……そういうわけではなくて」
変な嘘を吐いても仕方ない。結局、俺は正直に言うことにした。
「……まあその、大したことではないのですが……ここに来る途中、木の上で降りられなくなっていた子を見つけてしまいまして」
「まあっ」
「なんとか無事に助けられました」
「……緋金さんは、やっぱり環に聞いていた通りの方ですね」
水地さんは、ニコニコと笑って、俺の恋人からの評を告げる。
「誰かが困っていたら、放っておけない人だと」
「物騒な顔つきの癖をして、と続きませんでしたか?」
「そ、そんなことは……」
水地さんについて、またひとつわかった。どうやら、隠し事には向かなそうである。
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