19話 裏切りと反対
「優勝はできそうか?」
「誰だと思ってんの俺をよ〜柊一クーン」
「試合前は緊張で帯が結べない男」
「やめろバカ何年前の話だよおい」
賑々しく会話を交わしながら緋金さんたちは出ていった。
……いいなあ。
ああいう気安い雰囲気の緋金さんも、やっぱり魅力的だ。わたしにももっと……なんて、馬鹿な考えを頭を振って払う。
「……はあ、……美味しい」
モグリとひと口、故郷のお菓子を食べる。彼のお店の品らしいはっきりした味。「そうそう、まさにこれ!」と思わせてくれる。
つくづくよくわかる、彼のお店が人気な理由が。
繊細さや複雑さもすばらしいものだと思うが、それに気づけるのはプロや一部の美食家だけだ。結局、わたしのような一般のお客が好むのはわかりやすさだろう。
その観点から言えば、ここの味は満点だと思う。人がぼんやりと浮かべる「今日はケーキでも食べたいな」の欲求に、100%応える味だ。
「うーん……」
そう考えると、立地も見事。ここは繁華街よりも住宅街にほど近い。いわゆる『映え』を意識したインパクト重視のお土産ではなく、自分の家庭用のものとして求められるだろうこの店のケーキを売るには、よく合っている場所に思える。
……なんて、素人のくせをしてついついそんなことを考える。
昔からの癖だ。誰がどんなものをどんな流れで欲しがるだろうかとか、そういうことへなぜか思考が流れるのは。……なんでなんだっけ? いや、よく思い出せない。
「……美味しい」
またひと口。『欲しい』の気持ちへそのままピッタリ応える、緋金さんのケーキの味。
決して裏切らない実直さは、作り手の性格のとおりで。
「…………」
裏切らない、か。
彼は環を裏切らない。わたしだって、もちろん友も教えも裏切るつもりはない。絶対に裏切りたくない。
彼の声に言葉に、表情に仕草に甘さを感じて貪りたくなるこの愚かさは、身のうちで腐ればいい。それでいいのだ。
気持ちを紛らわすように、お菓子を食べ進める。
イタリアにいたのは6歳くらいまで。あまり覚えていないつもりだったが、こうして味や香りを刺激してもらうと、不思議と向こうで過ごした記憶が浮かんでくる。
その中になにかヒントがあれば。
そうすれば……この関係は、終わりに近づく。
「…………」
望ましいことだ。きっと、あらゆる意味で。
……コーヒーを口にする。黒くて、それは苦い。
「はあ……あら?」
ため息を吐いてうつむきがちになり、気づいた。
テーブルの上、無骨なデザインのキーケースがある。緋金さんのものだ。
「お部屋の鍵も……付いているんじゃないかしら」
忘れていってしまったのだろうか。
届けよう。
思ってキーケースを手に持つ前に……すこし、ためらう。彼が持ち歩いているものだと考えると、触れるのに妙にドキドキする。いやいや、やましいことを思い浮かべるな。
よし、とそれを握り、わたしは店を出る(一応、キーケースについている鍵でお店の扉も施錠しておく)。
緋金さんのアパートはこの近くだ。前に「あそこに住んでいます」となにかの拍子に教えてもらったことがある。
小走りにそこへ向かえば、ちょうど一階の部屋の前に着いた様子のふたりの姿。
「緋金さ——」
声をかけようとして、
「そういやあ、すげえ美人だったなあ、さっきの人。アリアさん? だっけ?」
「ああ、非現実的だよな」
バッと、アパート前の塀の陰に隠れる。……わたしの話をしているようで、思わず。
思わず、というか。
「だが、親しみやすい人だよ。優しくて、気遣いで、とにかく善い人で」
「へ〜、シスターさんって感じだ。でも親しみやすいってマジ? パッと見、さすがに近寄りがたいけども。美人すぎて」
緋金さんがわたしのいない場で、わたしのことをどう話すのかが聞きたくて。
「意外に表情豊かなんだ」
「ふうん、気ぃ許されてんじゃね」
「そりゃ、俺は親友の恋人だからな。警戒ラインは下がるだろ」
親しみやすい、優しい、気遣い、善い人、表情豊か……言ってもらえた言葉が頭の中で浮かれたように踊る。
「……というか、しまった、鍵を店に忘れたかもしれん」
「あ〜ん? 油断してんねえ」
「悪い悪い、取ってくる」
あ、このタイミングで出なければ。そう思っていたけれど、緋金さんのご友人——内海さんが流れを変えた。
「いや、ちょい待ち。……ちょうどいい、その前に話がある」
「話?」
「さすがにお友達のいるところで言うのは憚られるからな」
続いた言葉は、少々不穏な前置きのとおり、はっきりと棘を纏っていた。
「柊一、お前、いつまであんな女と付き合ってるつもりだよ」
「…………」
……あんな女、って。
わたしはギョッとして固まる。
「……公太、これで俺は環が好きで4年も付き合ってるんだ。そういう言い方は」
「お前との付き合いの長さでいうなら、俺はその4倍以上だ。……特別扱いとまでは言わなくても、ちょっとくらい話聞けよ」
「……お前がなにを気にしてるのかはわかってるつもりだよ」
「わかってるならもうやめろ。お前にはもっと違う相手が似合う。これからも振り回されるぞ、ああいう手合いには。……お前みたいな人が善いやつは、割りばかり食わされるんだ」
……なんの話、なんだろう。
塀越しに漏れ聞こえてくる会話だけでも、内海さんが怒っているのはよくわかった。
その怒りが、緋金さんのためのものであることも——環に向かってのものであることも。
……たしかに、環はちょっと独特な子だ。人を振り回すことも、ままあるだろう。
だけど、あんなに言われることはないはず。つくづく未熟で恥ずかしいが、大事な友だちを悪く言われて、正直ムッとしてしまう。
それに彼女は心から緋金さんが好きで、お互いを大切に思っている。……横恋慕のわたしが言うことではないかもしれないが、ふたりの間へ横槍を入れる理由がどこに。
「あの女、いま海外行ってるんだろ。どう思ってんだよ、正直なところ」
「……俺は環を信じてる。もうしないと約束も」
「そんな約束なんの意味があんだよ、一度裏切ったやつは何度だってやるぞ。俺には、あの女にまともな倫理観があるとは思えねえ」
……一度裏切った? 倫理観?
待った、待って。……どういう。
「自分がやったことがどれだけ柊一を傷ついたかもわかってねえよ。……じゃなきゃ、わざわざあんな」
「……環は、多少考え方が独特だから。あれはあいつなりの誠意だったのかも」
「だとしたらよっぽど俺は反対だ! イカれてやがる……。……なあ柊一、マジで考え直せよ! お前にはもっと違うタイプが合うって! すくなくとも……」
そして内海さんは、決定的な一言を口にした。
「——あんな浮気女じゃなくたって、いいだろ!」
論理的には、話の流れからも予想はできた。
だけど、とてもじゃないけど納得できない。
……浮気? 環が? あの環が?
「…………だが、俺は環が」
「目ぇ覚ませって! あいつは裏切ったんだっつの! 誤解の余地なく!」
ありえ、ない。
……ありえない! いろいろな意味で、そんなの……!
だって、環だ! あの環だ……! そんな話、絶対になにかがおかしい!
「…………」
「柊一、俺はずっと言い続けるからな!」
だけど緋金さんは、……いつまで経っても言わなかった。環を庇いながら、でも、決してその言葉を口にしない。
環は浮気なんてしていない、とは決して。
楽しんでいただけましたら、ページ下部のブックマークやポイント評価で応援いただけるとたいへんうれしいです。




