18話 菓子とプロポーズ
「わ、……ひ、緋金さんこれは……!」
わ、わ、わ……! と、水地さんは驚いた顔でテーブルに並んだ品々を眺める。
海と夏祭りを満喫した日からまたいくらか経って、俺は定休日に水地さんを自分の店へ招待していた。
時刻は午後三時、菓子のための時間だ。
「ティラミス、アマレッティ、カンノーロ、バーチ・ディ・ダーマ、パネットーネまで! 他にもたくさん……!」
「イタリアのお菓子シリーズです、お口に合えばいいのですが」
重ね重ねになるが、水地さんが俺と何度も出かけたりしているのは、さまざまな刺激を得てどうにか昔のことを——シスターになりたいと願った理由を思い出すためだ。
そこで、俺も学がないながら自分なりに『なにかを思い出す方法』について調べてみたところ……
「味覚や嗅覚は記憶との結びつきが強いらしい、と知りまして」
「それで、わたしの母国のお菓子を……」
「菓子づくりの人間なので、そこで力になるのがまずは筋だろうと」
口にした懐かしい味やふと鼻に届いた季節の香りが、不意に昔の思い出を一緒に引き連れてくる——なんてのはあるあるだ。俺にも覚えがある。
水地さんがイタリアにいたのは小学校に上がる前まで。シスターになろうと決意したのは中学に上がるころだというから、イタリアでの思い出が直接的に関係あるわけではないだろう。
だが、ものは試しだ。やれることをやるだけやろう。
「実は、ずっと練習してはいたんですが……」
「そ、そうだったんですか……!?」
「はい。お出しできる程度のものを作れるようになるまで、ずいぶん時間がかかってしまいました。それに、本場の味になっているかどうかもアレなんですが」
「そんな! すごく、すごく、……すごくうれしいですっ! ……あの、さっそくいただいてもっ?」
「もちろん、どうぞどうぞ。コーヒーもお淹れします」
紅茶よりもコーヒー派、というのは俺も水地さんも同じだ。ふたりの分を淹れ、テーブルに並べる。コーヒーの香りがテーブルを包むように広がるこの瞬間が、俺はなんとなく好きだった。
食前の祈りを終えた水地さんが、「いちばんのおすすめはなんですかっ?」と聞いてくる。
「そうですね、ティラミスでしょうか。ケーキの一種ということで、これだけは前から作れたものなので」
店には出していないが、練習や研究で作ったことが何度かあるのだ。なのでその分、他より仕上がった出来栄えだと思う。
「ではそれから………………っ! ……こ、れは……」
ティラミスをひと掬い口へ運んだ水地さんは、その大きな目をさらに開いた。
「……これぞ……っこれぞティラミスというべき味です! す、すごい……!」
「大袈裟ですよ。でも、喜んでもらえてうれしいです」
「大袈裟じゃないですよっ、……ティラミス、そうこれこれ……! ううぅ、っ幸せ……!」
ほおをほころばせながら、一口一口噛み締めるように食べ進める水地さん。神聖ささえ滲ませる精緻な美しさとは裏腹の、その表情の豊かさは彼女の大きな魅力だ。
「ティラミスは……幸せの味です……! うう〜、おいしい……!」
……月並みなことを言うようではあるが——こういう瞬間のためなのだと思う。
一般的に、この業界に入った理由の第一位は「食べてくれた人の笑顔が見たいから」だろう。下卑た言い方をすれば、耳触りが良いから建前として好まれているという現実はある。
だけど実際、ほんとうにやりがいを感じるものなのだ。
「マスカルポーネチーズって、どうしてこんなにココアパウダーと合うんでしょうね……すばらしい……おいしすぎます……」
笑うための食べものだぜ——なんて、師匠はよくよく言っていた。
メインの食事とは違い、栄養補給のためとか体を作るためとかそういうのではなく、とにかく「おいしい、大好き、幸せ」だって笑うために菓子はあるのだと。
そんな時間を作る仕事がゴキゲンじゃないわけねえだろ、なんて師匠らしい切符の良い物言いに、完全に同意だ。
一品を作り出すまでの甘くない現実が、全部「まあいいか」になってしまうくらいには、甘い時間だろう。
「…………あ、……あのぉ、……緋金さんも……」
「水地さんの様子を見ているだけで、お腹いっぱいになってきてしまったかもしれません」
「も、もう!」
「はは、いや、失礼」
ついつい見ていてしまったが、それは食べにくいだろう。邪魔をしないよう、俺も自分のために用意した分に手をつけ始める。
……うん、いかにも俺が作ったという感じの、ざっくりはっきりした味だ。良くも悪くも、それが俺の菓子づくりの特徴である。
とりあえず、わかりやすく故郷の味を懐かしむには向いているかもしれない。
「どうですか、記憶を突っつけています?」
「まさに、あっちにいたころよく食べに行ったお店を思い出してます」
「それはよかった、なにか役に立てばいいのですが。……俺もありがたかったです、作っている中でいろいろ勉強になりました」
「ほんとうですか! よかった」
新作づくりはさまざまなことを試している。まだこれというものは出来ていないが、経験は無駄にならないだろう。
「ところで、いちばんお好きなのはどれですか?」
「う、む、難しい質問ですね……う〜ん……! ティラミスは最大候補ですが……カンネーロも大好き……」
ムムム、と考え込む水地さん。
「素朴なパネットーネもいい……う〜〜ん……」
「ちなみに冷蔵庫にはフルーツのジェラートもあります」
「わ……! 夏といったらジェラートです! う〜〜〜ん!! ……ちなみに緋金さんは?」
「俺は、日本でも話題になったこいつですね、マリトッツォ」
「あ〜! いい!」
甘い菓子パンの生地へ豪快に生クリームを挟み込んだ、力技感が気持ちいい菓子だ。パックマンがクリームを頬張れるだけ頬張ったような、特徴的なビジュアルがSNSでウケたらしく、日本でも一気に市民権を得た。
「うまいものでうまいものを挟んだらうまいだろうという、シンプルな方程式が好みです。ケーキではないですが、店に並べたいくらいですね」
「ぜひぜひ! おいしいですよね〜」
そこで水地さんは一呼吸置いてから、一転して静かに凪いだ口調で教えてくれる。
「……ちなみに」
「はい」
「マリトッツォという名前は、夫を意味するマリートから来ています。マリトッツォは、かつてローマで男性が想い人へプロポーズする際に贈っていたお菓子なんです。マリトッツォの中に、指輪を隠して渡したんだそうです」
「へえ、そうなんですね。……このクリームの中にでしょうか。なるほど、たしかに隠しやすそうだ」
そう言われると、マリトッツォの見た目もまるで、指輪のケースのように見えなくもない。
……プロポーズ、か。
「…………」
なんとなく、ジッとその菓子を眺める。
……店はありがたいことに順調だ。歳だって、真面目にそれを考えてもいいくらい。
付き合いは4年。……頃合いと言えば、頃合いかも知れなくて——
「環は」
浮かべていた相手の名を、目の前の座る女性が口にした。
「……そういうプロポーズ、好きかどうかわからないですが」
「はは、ですね。『菓子で梱包することになんの意味が? 耐衝撃の観点からは優位性が見出せない』とか言いそうです」
「ふふ。でも案外喜ぶかも」
「うーん。……なんにせよ、気の早い話です」
……俺の側には、その気持ちはある。だが環の側はわからない。
だって、それこそあいつは。
あいつは——
「……コーヒー、おかわりいかがですか?」
俺はそう言って腰を上げる。変なもの思いに沈まないように。
「ありがとうございます。緋金さんはコーヒーを淹れるのもお上手ですよね」
「師匠に絞られまして。いい苦味があるからいい甘味がある、なんて信念らしく、ケーキづくりと同じくらい熱心に教えてもらいました」
そんな話をしつつ、席を離れようとしたときだった。
コンコンコン! とドアを叩く音。
「……お客さんでしょうか?」
「定休日の看板は立ててあるんですが…………ああ、いや」
聞き覚えのあるドアの叩き方から予想は着いていたが、やはりだ。ドアのガラス窓から向こうに見える人物は、客ではない。
歩き寄り、ドアを開いて俺は言う。
「悪いが定休日でな、また後日来てくれ」
そこに立っていた男は陽気な笑顔を浮かべた。
「なんだよ、ちょっとは特別扱いしてくれよなあ」
「わかった、特別料金を乗せてやろう」
「最悪の店だ、ひゃっひゃっひゃ!」
「で、なんの用だ公太。来てくれるのはいいが、忙しいはずだろう大会前で」
こいつ、内海公太は俺の昔からの友人で空手仲間。途中離脱した俺と違って、いまでも現役だ。
「ああ、まさにそれ関連でさ……あん?」
公太は、そこで店の中にいる水地さんに気づいたようだった。
「……っ悪い! あれ、俺これなんか邪魔した!? マジでごめん柊一!」
「別になにも邪魔じゃない、気にするな」
「そ、そう? いやだってお前あんな美人とふたりきりで」
「環の友人だ。環がドイツに行ってるのは言ったろ? あいつの代わりに新作メニュー作りに協力してくださっているんだ」
「……あ〜、なるほど。…………なんだ、俺はてっきりやっと……」
公太の最後のつぶやきが残念そうだったのには、気づかないフリをする。そこにどういう意味が篭っているか、よくわかっているからだ。
「はじめまして、水地アリアと申します。緋金さんにはとてもお世話になっております」
「ごめんなさい突然邪魔しちゃって! すぐ帰るんで! あ、内海公太です! こいつの昔馴染み! 空手仲間!」
ていねいに立ち上がって頭を下げた水地さんへ、公太は陽気に手を振った。
「公太、ちょうどいろいろ作ってあるところだ、よければお前も食べていかないか?」
「お〜、くっそ美味そうでやんの! ……そうしてえけど、いやいや、お前が言った通りだよ。大会前の追い込み期間だからな、やめとくわ」
「そうか……」
「で、本題なんだけどさ、柊一お前、俺たちが昔に吾道さんとこへ出稽古行ったときの動画データって持ってない? 参考に見ときたくて。俺もディスクに焼いて持ってたんだけど、去年の引っ越しのゴタゴタでどっか消えたっぽくてさあ」
「あー、あると思うが……あれを参考に? 本気で言ってるのか?」
俺の言葉に公太は苦笑した。
「言い方間違えた、参考にはなんねえ。違うんだよ柊一、ほら、……大会でどんなやつが出てきたって吾道さんほどじゃないじゃん。あんなガチの鬼は出てこないじゃん……」
「……たしかに、出てきてたまるか人里にって感じだ」
「そう考えたら緊張もしなくなるからさ」
「納得した、部屋にあるからコピーしていけ。…………水地さん、すみません」
俺は店の中の水地さんへ声をかける。
「こいつに渡すものがあるので、すこし外してもいいでしょうか? 食べて待っていてくださると」
「もちろんです、ごゆっくり」
俺の部屋は店のすぐ裏のアパートだ。そう時間はかからない。
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