16話 夏祭りと罪悪感
「わ〜、夏って感じですね!」
思わずわたしは歓声を上げた。夕暮れどきの赤い空の下には、賑やかなざわめきと並ぶ屋台の姿、美味しそうな匂い。
行き交う人々はチラリチラリと空を見上げて、口々に「そろそろかな」とこぼしていく。
「帰るついでに寄れるところでやっているなんてラッキーですね」
「でも緋金さん、お疲れではないですか? ビーチバレーであんなに動いて……」
「あれくらいはなんとも」
海からの帰り、緋金さんとやって来たのは花火大会。ビーチバレーを一緒にした大学生たちがオススメしてくれたのだ。
わたしからは相当動いているように見えたし、相手の大学生たちは最後にはヘロヘロだったが、しかし緋金さんはさすが、疲れた様子がまったくない。
「夏らしいことをするのなら、花火も外せませんよね。……ああ、いや、でも花火大会は普通に行っていますか? だったら目新しさがないからあまり意味が……」
「たびたび姉妹や施設の子どもたちと行ったりもしますが、この場所は初めて来ましたので!」
それに……男性とふたりで来るのは初めてなので——なんて言葉は寸前で飲み込んだ。今のわたしでは、そこにやましい気持ちが乗ってしまうから。
「緋金さんは、花火大会はよく行かれるんですか?」
「そうですね、毎年どこかには必ず。花火自体も好きなんですが、花火大会の雰囲気が好きで」
「あ、わかりますっ。独特の空気がありますよね」
緋金さんの言葉にうなずいてそう答えながら、隣の歩く彼の顔をチラリと覗き見る。
……〜〜っ、ダメだ! やっぱり胸が鳴る。血がかあ〜と熱くなって、指先が落ち着きをなくす。
会話だけならなんとか普通にできるようになったけれど、顔はまだ、うまく見られない……。
……救えないのは、それを残念だと悔しがる気持ちがあることだろう。隣にいるのに、こんなに近いのに、穴が開くくらい見つめたいのにそれができないなんて……そう思ってしまう罪深さ。
ごまかすように、わたしは早口で話す。
「は、花火大会というだけで不思議なくらい雰囲気が違いますよね、それこそ以前にご一緒した出店の食べ歩きのときと比べても! 昼間か夕方かとか、そういうのだけじゃなくて。出店が並んでいることだけ見たらいっしょなのに」
口にしてしまってから気づく。……それって、単にわたし側の問題? あのときとは彼に抱く感情が変わったから?
い、いや、そうじゃない……それだけじゃないと思う、けど、……どうなのかしら。
変なことを言ってしまったかな。もしかして、なんて思われていないかな。
「不思議なものですが、たしかにそうですね」
焦って汗をかいてきたこちらだったが、緋金さんはうなずいてくれている。……変に思われてはいない、みたい、かな……?
「ほんとうに、自分はこの雰囲気が妙に好きなんです。みんながみんなソワソワしていて……」
人並みの中、緋金さんはどこか遠い目で周囲を見て、
「落ち着かないのは俺だけじゃないんだ、みたいな」
小さく小さく、そうつぶやいた。それは本来、わたしに聞かせるつもりはなかっただろう声量だったけれど、愚かな熱を持つこの耳ははっきりと拾ってしまう。
傲慢だろうか。
彼がこぼした言葉の、その裏にあるものがわかるような気がするなんて。
緋金さんはきっと、どこかでずっと……落ち着ける場所を探しているんじゃないだろうか。彼にとって、育った家はそういう場所じゃなかったのかもしれなくて、だから。
迷子みたいだ、そう思う。
頼りになる年上の男性。だけどどこか、この人は迷子みたいな顔をしている。
「……緋金さん、せっかくだし、屋台でなにか買ってみませんか? いい香りもしていますし!」
「そうですね、そうしましょう」
この人がもしほんとうに子どもだったら、手を取ることができた。だいじょうぶだよって、そばにいるよって、手の温もりで伝えることができた。
だけど、この人は大人の男性で。彼へ温もり以外の違う熱を伝えてしまうこの手では、それはできない。
「俺もそうですが、水地さんもあまり、人混みを苦にされないのですね」
人で混み入る流れに乗って、ふたりで屋台の前を巡り始めると、緋金さんが言う。
「そうですね、賑やかでいいな〜と思います」
「しかし人に見られるのが嫌いだと聞くのですが、妖精は」
「も、もう!」
「はは、いや、失礼」
もう! もう! ……もう! その悪戯な声も笑顔も、ほんとうに凶器なのに! なんて言えないけど……!
「ご存知でしょうが、環は苦手なんですよね、人混み。露骨に嫌な顔をして。だから花火大会へ行くのにも、いつも誘わないのですが」
「……そうですね、はい、環はそうです。人混みが嫌いで……」
「そもそも人嫌いな性質ですもんね、あいつは」
緋金さんの言う通りで、だからほんとうに驚いたのだ、恋人が出来たのだと聞かされたときは。環は典型的な象牙の塔の住民、色恋なんてまるで興味がなかったのに。
「……緋金さんと出会ったのも、人混み嫌いがあったから、ですよね?」
「ええ。師匠の店で働いたころ、近くでそれこそ今日みたいなお祭りがあって、……いやあ、はは」
懐かしそうに、緋金さんは笑う。恋人のことを思い出して、愛おしそうに笑う。
「しかめっ面と辞書で引いたら出てきそうな、ものの見事に仕上がった顔をして店に入ってきたんです。後から言うには『緊急避難』だと。知らなかったそうです、大学からの帰り道で祭りがやっているなんて」
「環が大学入りたての頃、ですよね」
「ええ、だからもう三年くらい前ですか」
せっかくだからと注文したケーキの味を気に入って、すっかりその店の常連になったのだと、甘党な環本人から聞いた。
それから、ケーキの味よりもっと甘くて好きになってしまったものがある、とも。
「……環の方から、話しかけてくるようになったと聞いています」
「本人曰く、甘いものと対極にいるような雰囲気の男がいるから気になった、と」
「そ、そんなことないのに!」
「はは、真っ当な意見ですよ。……あいつらしいことですよね、変なものを見たらどうしても気になって調べたがるのって。口癖じゃないですか、ほら」
「ああ、ふふ、『データが取りたかった』ですか?」
「そう、それです」
たしかにそれは、環の口癖だ。
「あいつ、昔からそうだったんですか?」
「いまともう全然変わらないですよ。……学校で突飛なことをしては怒られて、どうしてこんなことしたんだって問い詰められて、あっけらかんと『データが取りたかったんだ』って返してはまた怒られるのが、環のお決まりだったんです」
「……想像できますね」
苦笑する緋金さん。
「水地さんと環が通っていた学校は、……お嬢様学校、なんて言い方は失礼かもですが、かなりの名門校ですよね? 中高一貫で、俺でも聞いたことあるくらい由緒正しい」
「名門校というと面映いですが、作法と規則はかなりあるところでしたね」
「……よく通い切れたなと思います、方法には効率を、目的には好奇心を最優先するあいつのような人間が」
「ふふ、騒ぎは確かに度々起こしていましたね。でも、かっこよかったですよ、自分のやりたいことにまっすぐで」
……わたしたちの間でいちばん盛り上がるのは、環の話で。
「ああ、……たしかに、あれで妙なカリスマはあるかもしれません」
この人がいちばん素敵な表情を見せるのも、やっぱり環の話だった。
「言葉に力があるというか、迷いがなくて強く言い切るというか……」
「交際を申し込んできたときも、そんな感じだったのですか?」
そんな問いが飛んだのは、わたしの口からだった……なんて表現をしたくなるくらいに、思わず問うてしまった。
慌てて、言い訳のように言葉を足す。
「え、ええと、交際を申し込んだのが環の方からであることを、本人から聞いていまして」
「ああ、そうですね。……たしかに、はっきり伝えてきました。堂々としていましたよ」
「……環らしいですね。…………恋人を作ったことそのものには、驚きましたけど」
「俺も正直、環が恋愛に興味があるタイプとは思ってなかったので、ずいぶん驚きはしました。ただ、驚いたというならそれより……」
ごく自然な口調で緋金さんは続けた。
「なんでわざわざ俺なんかを見初めたんだろうって驚きの方が強かったですが。恋愛をしてみたいだけだったら、他にも相手はいろいろ選べるでしょう。理工系の大学なら男も多いだろうし、そうでなくてもあのルックスなら引く手数多だ」
「緋金さんが素敵な人だからですよ」
環の気持ち、わかります——なんて言葉が出ないよう、わたしは唇を縫い付けた。
対し、緋金さんは苦笑する。
「はは、いや、言わせたみたいですね。でも、ありがとうございます」
こちらの言葉はまったく本気にしていないようだ。……自罰性の高さが、自己評価の低さに繋がっているのだろう。
「……どんな理由にせよ、環が緋金さんのことを好きなのはまったく疑いようがないですもんね。あんなに幸せそうで」
環の、緋金さんのことを話す声音や緋金さんの隣にいるときの表情は、彼女が他では浮かべたことのない色をしている。
今ならわたしにも、それがはっきり色濃い恋情なのだとよくわかる。緋金さんが環に対して持っているのと同じもの。
「……しかし、……環は——」
「緋金さん?」
「……いえ、なんでもないです。それより、せっかくですからなにか食べませんか?」
なにを言いかけたのだろうと思いはしたけれど、聞き返すのも不自然だ。
お誘いに頷いて、彼と一緒にいろいろと屋台を巡っての買い歩きを始める。
……ところで自分は昔から女性にしてはお腹に入る量が多いタイプだけど、……呆れられてないかな……。そんなことが前よりずっと気になってしまう。
「……ひ、緋金さんって、見た目はすごくシュッとされているのに、たくさんお食べになりますよね」
頭がちょっと混乱し、自分のことを棚に上げるような発言が出てきた。そして「シュッとしている」という言葉から緋金さんの体を思い出してしまって、体温が上がる。
ピタゴラスイッチみたいなオウンゴール。なにしてるんだ、わたしは。
「肉やら粉物やらはドカドカ入りますね。空手をやっていた頃よりは、これでずいぶん胃が小さくなったんですけど」
「昔はもっと?」
「ええ。唐揚げなんて無限に飲み込めると思っていました。鶏肉は筋肉をつけるのにいいので、よく食べていたのですが」
言いながら、ちょうど買っていたのは唐揚げだ。出店の店主からパックを受け取る緋金さん。
「おお、美味そうだ。……今でも体力づくりのトレーニングは続けていますが、太ってしまったら考えないといけませんね。うーん」
「その心配はないと思いますが……。前に環から、緋金さんが普段しているトレーニングの話を聞いたことがありますが……」
現役アスリートもかくやみたいなメニューだった気がする。「サボるということを知らないんだ、あの修行僧は」とは環の言だ。
だから今も体があんな感じに引き締まって、なんて考えてまた顔が熱くなる。オウンゴール二点目……。
……いや、ほんとにあの体はすごくて……いやいや、わたしは断じて体目当てだとかそういうことではない! ただ、好きになってしまった人の体ってあんなに素敵に見えるのだと知らなくて!
……どっちにしても赦されるものではないけれど。
「環には、太ったらそれはそれで面白いかもしれんな、なんて言われていますが。はは、そう言われてはなんとしても太るわけにはいかないかな」
恋人のことを語る顔。それを見てわたしはお腹の奥がグッと重くなり、体全体がチリチリと熱くなる。横恋慕の罪悪感と恥。
そんな話をしながら、わたしたちは出店の並ぶ場所からすこし離れ、手頃なベンチに腰掛けた。買い込んだ食べ物を膝の上に広げる。
「ちょっと行儀が悪いですが、祭りの作法ということでひとつ」
「そんな。ふふ、素敵ですね、こういうの」
祈りを捧げてからあれこれを食べてみる。お祭りで食べるご飯は良い意味で独特だなと思う。味付けとは別のところで、ここでしか味わえない美味しさがある。
「浴衣を着ている人たちも多いですね」
緋金さんが周りを見ながらそう言った。たしかに、日本の夏らしい衣装に身を包んだ人たちも珍しくない。これもまた花火大会ならではだ。
「水地さんは、着たことは?」
「父が日本のお着物が好きで、小さなころはたびたび。シスターになってからはなかなか機会がありませんが。……緋金さんはなんだかすごく似合いそうですね」
「そうですか?」
絶対に似合う、もうそういう雰囲気をしているもの。
行き交う浴衣や甚平を着込んだ男性たちの姿を見ながら、あれが緋金さんだったらと思い浮かべそうになって、慌ててやめる。オウンゴール三点目は阻止。
「俺は何度か、それこそ環と一度だけ花火大会へ行ったときにも着ました。……環は『はっはっは! ……こんなマックス人混みストレスフルイベント、やはりわたしの人生には必要ないとわかった! 確認完了さあ帰ろう!』なんて速攻で言ってきて、浴衣のことなんて完全スルーでしたが」
「た、環らしい……。でも、誘ってきたのは環とか?」
「おっしゃる通りで。それも含めてあいつらしい話です。たぶん、恋人と行ったとしても花火大会は不快なのかどうか、についてのデータが取りたかっただけなんでしょう」
緋金さんの口調には、暗い愚痴の空気なんかわずかもない。
「『トラディショナルスタイルで行くぞ! わたしも着るから柊一も浴衣で来い!』なんて、行く前は張り切っていたんですが」
「環も似合いそうですよね、浴衣」
「……あー……まあ、…………ほんとうに速攻で帰ることにはなりましたが」
損はしなかったかもしれません。なんて言葉を、小さな声でそっけなく緋金さんは落とした。
自分で聞いておいて——もっと小さな声だったら今のを聞かずにすんだのかな、なんて思って。
「…………は、花火!」
わたしの口から出たのは、そんな不恰好で不自然な方向転換の合図。
「そろそろでしょうか!」
「ああ、そうですね。そんな時間ですね、もう」
チラリと緋金さんは腕時計を見る。スッキリとしたデザインで彼によく似合うそれは、環が選んだのだと以前に聞いた覚えがある。
ああ。
環。
環、環、環、……環。
結局、どの方向に話が進んでもその名前が出てくる。当たり前だ、彼はその人の恋人なのだから。
「……」
「……水地さん?」
「あ、い、いえ、その、楽しみだなと!」
お腹の中がグッと重い。指先から体がチリチリとする。
変な顔していないだろうか。……早く花火が始まってほしい、彼の視線を奪ってほしい。
そう思ったタイミングで、夜空から空気をビリビリ震わせる音が鳴った。それより一瞬早く、鮮やかな光もまたたく。
「タイミングぴったりですよ水地さん、始まりましたね」
緋金さんは空を見上げ、その切長の瞳の中に焔の花弁を映し込んだ。
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