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12話 不出来と稲妻

「緋金さん……!」

「あ? なんだよツレいんのかよ……」

「でもなんかフラフラじゃね? おに〜さんダイジョブ?」


 おね〜さんの面倒は俺たちが見とくよ〜! と、ふたり組は大きな声で笑う。しかしそんな彼らの様子を意に介さず、緋金さんはズンズンこちらへ近づいてきてくれて。


「用が、あるのなら」


 わたしの腕を掴む茶髪の男性の手を、彼はスッと握り、


「俺が聞きます」


 先ほどと同じ言葉を言いながら、そのまま力を籠めた。


「ッ痛ァ!!」


 茶髪の男性は苦悶の声を上げて、たまらずわたしの腕から手を離した。


「……ってめえ、なにすんだボケェ! っおい!!」

「っあ、ひ、緋金さん!」


 茶髪の男性は激昂した勢いそのままに、なんと緋金さんのお腹のあたりを思い切り殴りつけた。思わずわたしは悲鳴を上げてしまう——が。


「……ぃいった!? は、ちょ、は? え、か、硬……」


 痛みに震えたのは、殴りつけた茶髪の男性の方だった。

 殴られても微動だにしなかった緋金さんは、やがて茶髪の男性の腕をまたしても取った。


「申し訳ない。俺は、今、本調子ではないので。だから」


 手加減できない。

 その言葉と同時、緋金さんの手に力が籠められたのがわかった。ギチギチギチギチッと、そんな音すら聞こえた気がする。


「〜〜ッイダダダダダダダ!! ちょっとマジやばマジなんだよこいつマジふざけッ、イダダダダダ!! ……いやほんとすんませんした!」

「な、なにガチ謝りしてんだよこんなやつお前…………あ、いや、その」


 手を掴まれている茶髪の男性は涙目で、片割れのもうひとりも、緋金さんの顔を見てビクリと固まり視線を逸らす。


「彼女に、まだ用がありますか?」


 緋金さんが手を離してそう問うと、ふたりはブンブンと首を横に振って、それから「やばいやばいあいつマジやばい!」とこぼしながら、自分たちの車の方へと走り去っていった。


 一瞬の静寂の後、緋金さんはこちらに顔を向けた。そんな彼に、わたしは慌てて頭を下げる。


「ご、ごめんなさい、とんだご迷惑を! あの、ありがとうございました!」

「いえ、こちらこそ、申し訳ありません。こんな時間に、こんな暗い道を歩かせてしまって。思い至るのが遅くて、あわてて追いかけて来たのですが……」

「い、いえ、そんな! わたしが呑気だったから」

「そんな、元はと言えば俺が……ぅ」


 口元を押さえる緋金さん。見れば、顔色が悪い。……原因なんてわかりきっている、わたしを追いかけさせてしまって、その上あんな騒動に巻き込んだからだ。

 今までより、さらに酔いが回ってしまったはず。


「ご、ごめんなさい! ベンチに戻りましょう!」

「すみません……」


 なんだかふたりで、ごめんなさいの言い合いになってしまう。申し訳ない、ほんとうに。


 緋金さんを支えて、元いたベンチへ戻る。彼の隣に座って、先ほど買ったミネラルウォーターを差し出すと、「ありがとうございます……」とすこし嗄れた声が返ってきた。

 受け取った彼が一口二口飲むのを見守る。……二人組を圧したさっきの気迫が嘘のように、その仕草はどこかあどけなく感じられた。


「冷たい……気持ちいいですね……」

「よかった。……あの、ほんとうに先ほどはありがとうございました。……お、お腹は平気ですか?」

「お腹……?」


 緋金さんは僅かに首を傾げる。……どうやら、本気でなにを心配されているのかわかっていないようだった。


「パンチを……」

「……ああ、いえ、空手をやっていた人間の腹に、あの程度は意味がないので」


 意味がない、とはすごい表現だ。


「……しかし比べて、鍛えてもどうにもなりませんね、アルコールは……」


 酔いの回りの深くなった緋金さんはどこか、口調がフワフワしていた。それから、体はダルそうだが、むしろ普段よりよく喋りそうな雰囲気。

 わたしはお酒を飲まないので体験としては知らないのだが、アルコールが人のタガを緩ませるというのは、事実なのかもしれない。


「……あら? 緋金さん、スマホが」


 ヴヴヴヴと震える音が聞こえる。緋金さんのポケットのあたりだ。


「え? ……あぁ」


 緩慢な動きでスマホを取り出した緋金さんは、画面を見て——唇を噛んだ、ように見えた。そのまま彼は、出ずに着信を切る。

 食事をしているときにも、まったく同じことがあった。あのときと違うのは、画面に出ていた相手の名が、わたしの目に映ってしまったこと。


 それは男性の名前だった、苗字は緋金。


「……ご家族、ですか?」

「…………兄です。……はは、柊一なんて名前ですが、俺は次男でして」


 グダリとうつむくように座ったまま、やはりどこか緩んだ口調で緋金さんは「うちは父に倣って、兄も姉も俺も、名前に一が付くんです」と言う。

 それから、なんでもないように続けた。


「一番になるように、って、そういう名前です……。そういう、家なんです」


 ああ、これもやっぱりお酒が回っているからだ。普段の彼だったらきっと、こういうことは話さなかった気がする。この人はあまり、自分について話す人じゃないから。


「えと、わたしのことならお気になさらず、かけ直していただいて……ああ、でも今は無理なさらない方がいいですよね……」

「いえ、いいんです、そもそもかけ直さなくて……。もうずいぶん、話してませんから。……話すことも、ないですし」

「そ、うなんです、ね」


 たぶん、踏み込んではいけない話だろう。それははっきりとわかった。

 よくしてもらっているとはいえ、恋人の友人なだけの自分が、家族関係のあれこれについて立ち入ったことを聞くべきではない。


 するりと流して、違う話に。

 そう思うわたしの視界の端、それが見えた。

 ぎゅっ、と。自分のスマホを握りしめる緋金さんの手。先の二人組を追い払ったときの力強い握り方とは、不思議なほどに違って映る。


 勝手な、すごく勝手で気のせいな錯覚だろう。

 でも、わたしの目には。

 それがまるで、小さな子どもが拳を握り締める様子と重なって見えた。不安な気持ち、言えない想いを抱えたまま、涙を滲ませうつむいて話す子どもの姿と。


「……喧嘩でも、してしまったんですか?」


 まろびでるようにわたしの口からそんな、子どもにするような口調での問いが飛んでしまった。年上の男性を相手に何をと思うも、今更言葉をしまい直すことなんてできない。


「いえ、喧嘩なんて、……俺なんかと喧嘩することありませんよ、兄には。……兄は、兄さんは、優秀な人なんです、とても。父さんと、おんなじで」

「…………」

「姉さんも、いるんですが、兄さんに負けず劣らず優秀で。……俺だけ、なんです」

「緋金さんだけ、って……」



「俺だけ、いらなかった子どものままなんです、ずっと」



 彼がなんて言ったのか、一瞬わからなかった。

 自然につぶやかれた声音に反して、だってそんなのあまりにも。


 やっぱり、踏み込んでいい話じゃない。緋金さんにしても本意じゃないはずだ。素面だったら、わたしにこんなことを話すつもりなんてないだろう。

 ヴヴヴヴヴッと、また緋金さんのスマホが震え始めた。彼はゆっくり顔を上げ、画面を色のない瞳で見る。


「兄も姉も、昔から勉強も運動もよくできて……いろんなもので一番を取って、今じゃ海外を飛び回っています……父とまったく同じように」


 彼の話を止められないのは、うまいタイミングがないからか、それとも。……それとも、なに?


「それで、時折こうして電話をかけてくるんです、そっちはどうだ、って……。どうだもなにも、……言えることなんて、なにもない」

「ひ、緋金さんだって、とても人気のお店を経営されています。みんな、緋金さんのケーキが大好きですよっ」

「……それは、すごくうれしいです。……でも、考えてしまうんです。もし兄や姉が同じ道に進んでいたら、今頃きっと十個は店を出してるだろうな、とか。すごいんです、ほんとに、ふたりとも」


 とても一目では何色と言い切ることのできない、複雑な感情の乗った声。


「空手で、強くなれたとき。うれしかった。一番になれるかもって。俺もようやく緋金の家の人間になれるんだ、って……。でも、……結局、だめになった」


 彼の隣、わたしの頭の中には、大音声の警告音が鳴っている。なにかわからないけれど、自分自身に対する「ここで止まれ」という音が。


「……どうしてなんだろうとは、自分だって思うんです。なんで、俺は……」


 それにやっぱり、素面じゃない彼にこんな話を続けさせてしまうべきじゃない。

 強引にだっていい、とにかくもう話を終わらせ——


「っ?」


 そう思ったときになぜか突然走ったズキリとした頭痛で、わたしの口は強張って止まる。

 だから、彼を止められず。

 そして。



「不出来なままでなんなんだろうって……。母を殺して、生まれておきながら」



 ぽつりとつぶやかれたその言葉は、暑く湿った夏の夜の中、自身を蔑む空寒い冷たさと、そのままにしていたら崩れていきそうな危うい乾きでだけ、出来上がっていた。


「……言われ、たんですか……。誰かに、そう……」

「……父も、やるせなかったんだと思います。……許せなかったんだとも、思いますが」


 自分の不出来です——そんな彼の口癖。不自然にも思えるくらい自分を律する姿勢の、その裏にあったものが、ようやくわかった。


 ——ああ。


 そうだ、わかってしまった。

 しっかりとした大人で、いざというときにも頼りになる男性。だけどこの人を『強い人』だと思ったとき、どうしてかよぎった違和感。


 その正体は、いま目の前にある。


「俺は……。…………俺は」


 丸めた背中、強張った指先、かすれた声。

 強くなんか、ないのだ。強くあろうとしているだけだ。その覚悟の内側には、こんなにも脆い本質があって。


「…………ぁ、あ」


 小さく、わたしの口から吐息が漏れる。だって、体が火照る。心臓が記憶にないくらい強く脈打って、流れる血潮がなんのために赤く熱いかをわたしに教えようとしてくる。


「空手の、全国大会の前……ひさしぶりに父と話して、お前もようやくだなって、そう言われたんです。今年結果が出れば、そうすればお前もって、父はうれしそうで」

「っ緋金さんは、立派なことをされました! ……それは、大会には、出られなくなったかもしれませんけど……」

「……あのことに、後悔はしてませんが、もっとうまくやれたはずなんです。……それこそ、兄さんや姉さんだったら……ふたりは、ほんとうにすごいから」


 事故の詳細をわたしには話していないはずということも、いまの緋金さんは気づかない。どこか呂律の怪しい口調で、胸の裡をこぼしていく。


「ああ、なれたら」

「緋金、さん……」

「ああなれたら、……——よかったなぁ」


 そう、したら、きっと。


 そんな言葉を最後に、緋金さんは黙り込んだ。いや、眠り込んでしまったようだった。耳をすますと細い寝息が聞こえる。


「……あ、あ、……ああぁ」


 心臓が痛い、肌が汗ばむ、喉がいやに乾く。

 チカチカするんだ、目の前が。


「わ、……た、し」


 最初に会ったとき、誠実そうな人だと思った。

 次に会ったとき、優しい人だとわかった。

 その次に会ったとき、頼れる人だと感じた。


 折に触れ、彼のすごさを知っていった。それこそついさっき、自分自身が助けられる形で目の当たりにもした。

 彼の強さを、たくさん見てきた。それを素晴らしいとは思ったし、素敵な人だと実感はしていた。


 だけど、胸が高鳴ることはなかった。


 そもそも、わたしは貞潔の誓いを立てたシスターで、彼はわたしの親友の恋人。

 どんなに素敵な人でも、そんな気持ちになることはありえない。

 あってはならない。


 ——なのに。


「う、……あ」


 なのに、今。

 その男性に向かって、右手が伸びた。


「っ!」


 わたしは慌てて、反対の手で自分の右手をひっ捕まえる。なにしてるんだ、なにを。


「……はっ、……はっ、……はっ」


 自分の右手を胸に抱え込みながら、荒い息を漏らし、わたしは彼の横顔を見る。

 細い月明かりと頼りない街頭の灯りに照らされたそれは、背後の闇に浸るようにしながら、肌にぼうっと陰を浮かばせている。

 危うくて、儚くて、脆い——



 弱い、人。



「〜〜〜〜ッ」


 思った途端にゾクゾクとこの背筋に走った苛烈な電撃は、はっきり姿がイメージできた。

 暗い夜空から落ちてきた、真っ黒な稲妻。


「…………————」


 いよいよ、わたしの呼吸は止まる。

 全身がもどかしさで落ち着かない。だって、たまらなくて。


 包んであげたかった。寄り添って、護ってあげたい。


 これは博愛?

 それとも友愛?

 親愛だって、言い訳はできる?


「あ、あ、あ……」


 答えなんて、残酷なくらい一撃で出ていた。

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