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11話 謙遜と焦燥

「わたし、きょう観たものをきっと一生忘れないと思います」

「……すごかった、ですね」

「はい。すごかったです……」


 レストランの窓際の席。水地さんの声は、いつもよりどこかふわふわとしている。

 外は雨降り。美術館へ入る前まで持ち堪えていた天気は、ちょうど俺たちが出るタイミングを待ち構えていたようにして決壊したのだ。近くにレストランがあってよかった。


「…………」

「…………」


 なんとなくの無言が出来上がる。雨音が、隙間を埋めるように鳴っている。

 俺は、気になっていたことを聞いてみることにした。


「……水地さんは、あの絵をどう思いましたか?」

「……そう、ですね。ううーん」

「俺は正直、……お恥ずかしいですが怖かったです」


 今脳裏に思い返してみても、鳥肌が立つほど恐ろしい。


「……人間のおぞましさと恐ろしさが、おぞましく恐ろしいまま描いてあったなら、きっと恐怖は感じなかったと思います。でも、……でもあの絵はあんなに美しかったんです。尊いようにすら見えた。それが、俺は怖かった」

「…………わたしは」


 水地さんは、その桜色の唇を開いて答える。


「わたしには、あの絵は、……すごく心地の良いものに感じられました」


 ああ、やっぱり。

 そうだ、水地さんはあの絵を観ていたとき、そんな顔をしていたのだ。


「あの絵は…………うまく言えないんですが、あの絵を観て、なんというか……」


 言葉にまとめるのに苦心した様子の水地さんは、一生懸命に考えてくれた後、やがて答えた。


「ほっとしたというか…………ううん、ごめんなさい、自分でも何を言ってるのかよくわからないんですが」

「いえ、そんな。……面白いですね、同じものを観ても、こんなに感想が違うなんて」

「ですね、ふふ」

「しかし、考えると納得かもしれません。あの絵は、俺のような臆病な人間には恐ろしく感じて、水地さんのような優しい人には暖かく感じるのでしょうか。観る人間の性質が跳ね返ってくる、みたいな」


 自分で言っていて、かなり得心がいく。


「そんな! わたしなんてそんな立派な人間でもないですし、緋金さんだって優しい方です」

「いえ、そんなものですよ」

「……ずっと、思っていたのですが」


 そこで、すこし言いにくそうにためらってから、水地さんは俺に問うてきた。


「どうして、緋金さんはご自身をそんなに低く評価されるのですか?」

「え、いえ、事実なので……」

「わたしも早くから日本で育ちましたから、謙遜がこの国の文化だというのはわかっているつもりです。でも、緋金さんはもっとご自身を誇りに思うべきです」

「そ、そうでしょうか」

「そうです」


 うなずく彼女の目は俺に向かって光を放つ。直進こそが光の旨だと言わんばかりに真っ直ぐな、その輝きはひどく見事で。

 こんな眩しさを受け止められうるものなんて、俺は、自分の中にひとつだって見つけられやしない。


「……俺は」


 ずっと、……ずっとそうなのだ。

 俺の人生は、ずっとこうなのだ。輝く誰かの前に出て、「俺にもあるぞ」と誇れるものを、結局ひとつも掴めない。唯一それになりえたものも、左目の視力とともにこぼれていった。俺の手は、空のままだ。


「……俺は、ただ」


 続けてなにを言うつもりなのか、自分でもわからないまま口を開いて——ヴヴヴヴヴと振動音が鳴ったのは、そんなときだった。

 テーブルの上で俺のスマホが震えている。着信だ。


「環でしょうか? どうぞどうぞ」

「すみません」


 うながしてくれた彼女の前、スマホを手に取って。


「……っ」


 いったん席を立とうと腰を浮かした中途半端な姿勢のまま、俺は固まった。画面に表示された名前が、そうさせた。


「……緋金さん?」

「……出なくても、いい電話です。環でもありませんでした」


 取らないまま切って、スマホをポケットにねじ込んだ。


「あ、間違え電話とか」

「そんなものです」

 間違え、というのは言い得て妙だ。たしかに間違えている。俺に電話をかけてくる、そのことそのものが。



「お待たせいたしました、お料理をお持ちしました」



 俺が再度椅子に座り直したタイミング、頼んでいた料理がきた。

 いつもは夕食前に解散しているが、さすがにレストランに駆け込んでおいて何も食べないわけにはいかない。今日は、ここでご一緒することにしたのだ。


「いただきましょうか」

「はい」


 俺の言葉に、うなずく水地さん。電話と料理が立て続けに来て、先ほどの話はなんとなくうやむやだ。わざわざ改めて蒸し返すことでもない。


 しかし、……あの着信のせいで変に口が乾いたな。

 思って俺は、出された飲み物に口をつける。料理とセットのノンアルコールドリンクだ。ぐいっと呷って——


「……ん?」

「緋金さん?」


 飲み込んでしまってから、確信を得る。


「これ、ノンアルコールではないような……」

「まあ! て、店員さんが間違えてしまったのでしょうか?」

「のようですね」


 どうやら水地さんのものはノンアルコールのようで、俺の方だけらしい。近くにいたウェイターに声をかけて説明すると、ものすごくていねいに詫びられて交換の品が届いた。


 だが、ともあれ飲んでしまったのだ。アルコールを。

 ……いや、だいじょうぶだろう。あんなひと口くらい、だいじょうぶなはずだ。

 昔、ひどい目に逢ったときはもっとたくさん飲んでしまっていたはず。だいじょうぶ、だいじょうぶ。











「だいじょうぶ、です……」

「い、一旦お休みしましょう! ほら、あそこに公園があります! ね!」

「……すみません、……ほんとうに、もうしわけない」

「そんな、緋金さんのせいではないですから」


 ふらふらと揺れる彼の体を支えながら、わたしは公園のベンチにたどり着いた。辺りはすっかり夜の帳が降りて、三日月よりもなお欠けた月と近くの古びた街頭だけが、唯一の灯りだ。

 アルコールにすこぶる弱い、とは緋金さん本人の談。食事をしている最中はまだ平気だったらしいのだが、店を出て歩いたことで一気に回ってしまったらしい。


「…………」

「ゆっくり帰りましょう、遅い時間でもありませんから」

「すみま、せん……」


 顔を片手で覆ったまま、ベンチの上、緋金さんは背中を丸めてグデっとしている。いつも姿勢の良い彼のそんな姿、わたしはもちろん初めて見た。

 この国の夏の夜は、空気に重たい熱をはらませている。お酒も回って暑いだろうか。……そうだ、お水!


「緋金さん、わたし、お飲み物を買ってきます!」

「いえ、だいじょう……うぅ……」

「すこしお待ちくださいね!」


 たしか、ここに来る途中に自動販売機があったはず。わたしは一旦ベンチから離れて、来た道を戻る。

 タタタッと小走り。やがて、すこし薄暗い道の先、目当てのものを見つける。

 あったあった、ええと。


「お水お水……」


 お金を入れてボタンを押し、ガタンと音を立てて出てきたミネラルウォーターを取り出したときだった。


「お姉さん、ちょっといいですか?」

「はい?」


 くるりと振り返ると、そこには男性ふたり組。そういえば、自販機の近くにいらっしゃった気がする。

 なんて今更思うのは……無用心、だったろうか。いやいや、そんな警戒は失礼? ……でも、……でも。


 昔から妙に人の欲望に敏い気がする自分の感覚が、嫌なアラートを上げている。


「俺たちちょっと道に迷ってて、案内とかお願いできません?」

「いやーほんと困ってまして! ね!」

「まあ、それはたいへんっ。でも、どうしましょう、わたしもこの辺りには明るくなくて……」


 調べるためのスマホも持っていない。力にはなれないだろう。

 ごめんなさいと頭を下げようとした瞬間だ、わたしの手を、男性ふたりのうちの、茶髪のひとりがガシリと掴んだのは。


「っ! あの……困ります」

「いっしょに地図見てくれません? 俺たち地図見るの苦手で」

「あそこに車ありますから! ね!」


 掴む手の強さに誘う先の露骨さ、こちらを射抜く視線の荒さ、そして熱の入った口調。もはや意図は明白だ。


「ごめんなさい、困ります」

「まあまあお姉さん」

「ね! 助けると思って!」


 どうしよう、どうしよう。大声を出そうかしら。それで誰か来てくれる? 周りに人影はない。人通りも乏しい。

 来てくれる人……頭に浮かぶその人は、だけど今は——



「……用があるなら、俺が聞きます」



 まさにその彼の声がしたのは、焦りで背中が焼けそうになる、そんな時だった。

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