1話 親友の恋人と恋人の親友
シスターさんが恋をしてしまうところまで、一日で一気に更新していきます
「き、……来ませんね」
苦笑を浮かべながらそう言ったのは、テーブルを挟んだ向こうに座る、金髪の美女。
「ですね……。……あの、本当にすみません」
俺——緋金柊一は彼女に頭を下げる。俺と彼女は今日が初対面だが、なんだか初手から申し訳ない。
「こんな堂々と遅刻だなんてあのアホがご迷惑をお掛けして……。あいつも悪気があるわけではないんですが」
「いえいえそんなっ、……というか、……ちょっと新鮮です」
「新鮮?」
「はい。だってあの子が何かをしちゃったとき、わたしはいつも、いまの緋金さんみたいに謝る側ですから」
金髪の美女——水地アリアさんは、そう言って微笑んだ。清らかで包容力溢れたそれは、まるで天使のような表情で。
しかし、彼女が天使でないことはその服装で明らかだ。
黒を基調とした、淑やかな修道衣。水地さんは、シスターなのだ。
「ああ、そうですよね。……いや、それこそ付き合いで言うと、水地さんの方が俺なんかよりずっと長いですもんね」
「長さではそうですが、緋金さんの方がずっと深い関係ですよ。なんたって、おふたりは恋人同士ですから」
いま俺たちが誰の話をしているかというと、それは今日の会合の主催者である、俺の恋人についてだ。そしてあいつは、水地さんの親友でもある。
つまり俺と水地さんはお互いに、『親友の恋人』と『恋人の親友』だ。
「……こう言ってはなんですが、あの子が恋人を作っただなんて、未だに驚きが」
「お気持ちはよく。ただ、俺としてもあいつに付き合いの長い親友がいることも驚きで」
それもこんな、見るからにまともなというか、人格者というか。……いや、そういう方だからあいつと仲良くしてくれているのだろうか。
「……しかし、ほんとうに来ませんね」
言いながら、俺は壁掛けの時計を見る。俺の恋人は、俺たちをこうして呼び出しておいて本人が堂々と遅刻しているのだ。
自由奔放、独立独歩。そういう女である。
今は午後三時半。約束した時間から、もう三十分が経っていた。
あいつとの付き合いの中では、こんなことはよくあるのだが——心配だ、なんてそれでも未だに思ってしまうのは、惚れた弱みと言うべきだろうか。
「「事故とかでなければ良いのですが」」
気持ちを口にすると同時、同じ言葉が自分の声とは別の音色で耳に届いた。それに驚いて目を丸くしていることまで、俺と水地さんはお揃いだった。
「……緋金さんは、あの子から聞いてた通りの方ですね。『まるで親みたいにあれこれ心配してくるんだ』って、よく言っています」
「俺の方こそ、『アリアは面倒見の塊みたいなヤツでなあ』なんて、何度も聞いていますよ」
苦笑しながら、俺たちはそんなことを教え合った。
「……変なことを言うようですが、水地さんとは、初めてお会いした気がしませんね」
俺とあいつは、付き合い始めてもう四年が経つ。
その間俺は、水地さんについて何度も聞かせてもらっていた。あいつにとって中学時代からの親友なのだという、イタリア生まれの日本育ちな、穏やかで優しいその人の話を。
だからむしろ、本人に会う機会が今日この時まで一度もなかったことが、不思議なくらいである。
「あ、わたしもです。ずっと前から何度もお話をお聞きしてましたから、ふふ」
そこかしこに夏の気配がにじみ出てきた六月末の空気の中で、水地さんは柔らかに微笑を浮かべる。
……今日会って最初から思っていたことだが、改めてその姿に、俺は思わず感心してしまう。
水地さんは、微笑み方も相槌を打つ声も、口元へ手を当てるその仕草も、すべてがひどく淑やかなのだ。
穏やかに、ていねいに、誠実に……きっと、常々そんなことを心がけて生きてきたのだろうことが、一発でわかる美しい所作。
シスターの皆さんは、みんなそうなのだろうか。
「…………」
「…………」
なんとなくの沈黙が降りる。しかしそれは、不快さや居心地の悪さを感じさせない。目の前の彼女から漂う、独特のほっとする空気がきっとそうさせてくれているのだろう。
……ただ、向こうはどうだろうか。変に緊張なんてさせてしまっていなければいいのだが。
こういうとき、目つきも悪ければ表情筋も硬い自分の顔面が恨めしい。
そうだ、やはり勝手に和んで満足していないで、何か会話でもてなすべきだろう。話題話題……。
なんて頭を働かせた、そんなタイミングだった。
「お〜! そろってるな〜! はっはっはっはっはっ!」
ドアベルを鳴らし、お待ちかねの人物がようやく現れた。
「いやあ待たせた待たせた! ん〜〜、すまん!!」
「遅れるのはいいが、連絡くらいまともに返せ」
「連絡? ……おお〜」
俺の言葉に、濡れたように艶やかな黒髪のポニーテールをゆらゆらさせながら、そいつ——樹木環は、自分のスマホを取り出してまた笑った。
「はっはっは! メッセージがこんなに! 柊一もアリアも相変わらず心配性だ!」
「何もなかったならいいんだけど」
苦笑しながら水地さんが言った。その慣れたような表情から、彼女にとってもこれはよくあることなのだろうとわかる。
「何もなかったなんてことはないぞアリア。蝶がいたんだ」
「蝶? ああ、この季節は多いわよね」
「そうなのか? ふうん、まあ生物としてのどうだこうだは全然興味ないんだ。それよりあいつら、変な飛び方するなと思って。フラフラと不安定というか。鳥とも蜂とも飛行機とも違う、見れば見るほど不思議だ」
ずらずらずらっと、相手の反応なんてお構いなしに語る環。
なるほど、こいつが約束の時間に遅れたのは、蝶を追いかけるのに夢中になってということか……。
俺の三つ下である環は、二十二歳である。理工系の有名大学に通う四年生。……人との約束を忘れて虫を追いかけるにしては薹が立っている年齢だろうが、ともかくこれが俺の恋人なのだ。
好奇心最優先、なんて言い方がいちばん穏当か。
「蝶が飛ぶのをフラフラとだなんて、不思議な言い方するわね。ふつう、ヒラヒラとって言わない?」
「そうか? フラフラだろう、あの不安定さは。しれっと飛んでるみたいに見えて、いつ壊れてもおかしくなさそうで。いいよな、不安定なものというのはやはり。目で追ってしまう」
「そんなものかしら」
「そうさ。……飛行システムが気になるな。まず翅周りの空気の流速と圧力がどうなってるかだよな。データがなくては話にならん。データが欲しいデータが。うーん……」
それからもぶつぶつと、三次元解析がなんとか数理モデルがどうとか呟く環。"データが欲しい"は、こいつの口癖だ。
そんな恋人に、俺は声をかける。
「考え込むのもいいが環、とりあえず、いつまでも突っ立ってないでこっちに来て座ったらどうだ?」
「ん、ああ」
環は素直に従って、俺の隣の席についた。そして……
「おい、環?」
自然な仕草で、その細くて白い指を俺の手にするりと絡ませる。
「恋人の隣に座るのだから、ついでに接触もしておいて、より幸福度を高めた方が合理的だろ?」
「……好きにしろ」
待ち合わせに平気で遅れてきたかと思えば、友人の前でもお構いなしにうれしそうな顔で甘えてくる。ふわりと、こちらの鼻先に親しみ深い環の香りが届いた。
俺はずっと、こいつのこの緩急にやられっぱなしだ。
「で、アリア、これがわたしの恋人、緋金柊一だ。柊一、これがわたしの親友、水地アリアだ——なんてのはいいか、自己紹介だのはどうせもう済んでるだろう。で、本題なんだが、今日はアリアと柊一にちょっと提案がある」
改めて、環がそんなことを言った。
今日これからなんの話をされるのか、俺は聞いていない。テーブルの向こう、水地さんも、どうやらわかっていなさそうな気配だった。
「アリア、柊一はこんな見た目をしているが、前から話してきたとおり、実はケーキ屋の店主だ。なあ柊一」
「……あのな、実はもなにも、いま居るここは俺の店だ」
そう、いま三人で集まっているこの場所は、俺が開いているパティスリーだ。イートインスペースのテーブルに、みんなで座っている。
なお、水曜の今日は定休日である。
「加えて"こんな見た目"とは、自分の恋人をつかまえて失礼な……いや、別に否定はしないが」
「そ、そんなことは! とても精悍でいらっしゃいます!」
水地さんの言葉はありがたいが、それは彼女の優しさからくるフォローだろう。
正直俺も、鏡を見るたび向こうに映る目つきの悪い男について、ケーキを作るナリではないなと思っている。
「だってなあアリア、実際、ケーキ作りを始める前の柊一は、人にうまく危害を加えるための練習ばかりしていたんだぞ」
「武道をやっていたと言え、武道を」
「人間殴る蹴る選手権大会に出ては誉めそやされていたんだ」
「空手の大会に出ていたと言え、空手の大会に」
なんて歪んだ表現をする女だ。
「ほら見ろ柊一、アリアも笑っている! 嘲笑っているんだ、はっはっは!」
「え、ち、ちがっ、もう、環! 違います! そうじゃなくて! その……おふたりは本当に仲がいいんだなあって」
水地さんは、まるで春のひだまりのように微笑む。
「幸せそうで、勝手にわたしもうれしくなっちゃいまして」
「環、お前はこんな人格者と長年いっしょにいながら、どうして何も学んでこなかった?」
「えー! なんだよそれー!」
不満顔を浮かべた環だが、「で、話を戻すが」とすぐに話題を切り替えた。大して堪えていない、こいつはそんなタイプの人間だ。
「柊一、新作づくりのためのケーキ食べ歩き、アリアに協力してもらうのはどうだ?」
「……なるほど、そういう話か」
「そうだ、名案だろう」
俺としては、助かる話ではあった。
水地さんが首を小さく傾げて問う。
「食べ歩き、ですか?」
「そう。柊一は店で出す新メニューを考えるとき、市場調査でほかのケーキ屋を巡りまくって食べ歩くんだ。いつもはわたしがそれに付き合うんだが、ほら、わたしは来週からしばらく海外に行くと言ったろう? お前の母国ではないが」
「残念、イタリアもいいところなのに。……それで、ドイツだったわよね。二ヶ月くらい帰って来られないとか」
水地さんの確認に、環はうなずく。
「そう、向こうの大学の研究室と合同研究があってな。だから付き合えなくて。……しかしここで問題がある。実は——柊一は、誰かの付き添いなしじゃケーキ屋のイートインでものを食えないんだ。ひとりで食べに行けないんだよ」
「……お恥ずかしい限りなんですが、昔、いろいろありまして」
そう言うほかない。……トラウマなんて言い方をしたら大袈裟だが、そのようなものだ。
自分の店だけはもちろん例外だが、それ以外のところでは、少々厳しい。すくなくとも、ゆっくり味の分析なんかは絶対にできない。
イートインで食べていけないのなら持ち帰りするほかないが、折り悪く、いよいよ本格的な夏が始まる時期だ。ケーキが痛むことを考えると、持ち帰りでは一度にいろいろな店を回るのは難しいだろう。
「まあそもそも! 柊一のようないかにも甘味とは無縁そうな男がひとりで来て難しい顔でケーキを食っていたら、店の方にも迷惑だろう! はっはっは!」
「もう、環! 失礼よ! ……でも、なるほど、お話はわかりました。環の代わりにわたしがご一緒すれば、それでだいじょうぶなのですね?」
「いえ、しかし水地さんにご迷惑でしょう。シスターとしてのお仕事もいろいろおありでしょうし」
シスターという人たちが具体的にどんな仕事をしているのかは、不勉強で詳しく知らないが、もちろん暇にしているというイメージはない。
そう思って遠慮しようとしたのだが、水地さんは複雑な表情で首を横に振った。
「えと、……実は、このお話はきっと、わたしにとってもありがたいものなんです」
「そうなんだよ柊一、得があるのはお前だけじゃない。これはアリアのことも考えての話なんだよ」
クルクルと指先で自身の黒髪を弄びながら、環は続ける。
「アリアはな、ちょうどいま、シスターとして大きな区切りを迎える直前なんだ。誓願期がどうのこうの……まあ、細かいことはいい。重要なのは、アリアがそれについてちょっと悩みを抱えていることだ。だよな?」
「ええ……」
環の言葉に、水地さんは頷く。
悩み、か。
彼女の暗い表情を見ると、その内容を聞くのは躊躇われた。
「環の言う通りでして……。そしてそんな折、修道院の院長からお導きをいただいたんです。『悩んでいるのなら、これを機に、もっと外の世界のことを知ってきなさい。遊んでくるくらいでちょうどいい。そこから得られるものがきっとあるから』と」
「なるほど、それはいいことですね」
「は、はい……で、ですが、その…………わ、わたし……」
肩を縮こまらせ、水地さんは恥ずかしそうな様子で、やがて困り果てたような声をこぼした。
「——あ、遊ぶというのが……どうすればいいのか、ま、まったくわからなくて……!」
……なるほど。想像以上に真面目な方らしい。
「ど〜だ柊一、このクソ真面目は! 悩んでるところに遊んでこいって言われて、今度は遊ぶってどうすればなんてまた悩んでるんだ! あっはっはっはっは! もはや芸術的!」
笑い飛ばす環。「失礼だぞ」と睨んでみるも、まったく効かない。
遊ぶとはどうすればと戸惑っている水地さんが、興味本位でしか動かないようなこいつと親友なのだから、世界は多様だ。
「で、だったらちょうどいいと思ってな! 柊一は食べ歩きの相方ができるし、アリアはそれについていけば『遊び』の経験ができるだろ。どうだ効率的!」
「ああ、なるほど。……たしかに」
誰も損をしない話だな……と、続けて言いたいところだが。
ツッコミを入れたのは、俺ではなく水地さんだった。
「……でも環、あなたはそれでいいの? だって……」
「柊一が、つまり恋人が、他の女とふたりきりで遊びに行ってもいいのかって?」
うなずいた水地さんに、環は笑顔で答える。
「構わん構わん! だってアリアだろう? クソ真面目なわたしの親友で、そして貞潔の誓いを立てているシスター! かったいロックが二重に掛かってるんだ、心配してどうする? それともお前、柊一に手を出すのか?」
「もちろん、そんなことはないけれど……」
「柊一、お前に魅力がないってさ」
「ち、ちが、だから、もう環! わたしが言いたいのはそうじゃなくて!」
「あっはっはっは! ほら、こんなクソ真面目にそんな心配したって無駄だろう」
高らかに笑い飛ばす環。
……俺の方から言いたいことが、ないわけじゃない。だが——
「ま、信頼しているアリアじゃなきゃこんな提案しないさ。……これでわたしは、柊一を愛してるんだ。他の誰でも替えの効かない、特別な相手なんだ、わたしにとって柊一は」
我ながら、自分は愚かだと思う。
言ってやろうと思ういろんな言葉が、こんなことをポンとつぶやかれてしまうだけで、結局どこかへ行ってしまう。
これこそが、惚れた弱みというものなんだろう。
四年付き合ってきてそれでもまだ、環に会うたび飽きもせず俺は、この人が好きだなと思うのだ。
「まあ、ふふ、ごちそうさまね。……では改めてというか、緋金さんさえよろしければ、ご一緒させていただけませんか?」
「こちらとしてはもちろん、たいへん助かります。ぜひお願いできれば」
そんな風に話はまとまり、さっそく俺は水地さんと具体的な日時や集合場所まで決めてしまった。
……実際、ありがたい限りだ。俺は恋人に礼を言う。
「ありがとうな環、助かるよ。正直、どうしようかと思っていたんだ」
「なに、これでわたしは尽くす女だよ。しかし、なんだか甘いものが食べたくなったなあ〜!」
「角砂糖何個がいい?」
「もっと気の利いた加工品が出てくる店だろここは!」
「冗談だ。……今日の午前中に作っていた試作品でよければいくつかあるが」
「だと思ったんだ!」
環はニッコリと笑う。切れ長の目の美しい、大人っぽい顔つきの彼女だが、こうした表情はどこかあどけない。
「……なんだか、ほんとうに感慨深いわ。ずっと話には聞いていたけれど、あの環が恋人を作ってそんな風に支え合っているなんて光景、この目で見ると……」
「わたしも愛を知ったのさ」
「素晴らしいわ。うん、ほんとうに」
水地さんは、やわらかい声でそう言って、ふわりと笑顔を浮かべる。
なんだか、平和だ。平和で、ありふれた幸福に満ちた、あたたかな昼下がりで。
俺はもちろん、知らなかった。
——これが、最後だったなんてことを。
今日このときが、この三人が同じテーブルを囲み、笑って穏やかに過ごした、最初で最後の時間だったなんてことを。
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