死刑囚と刑務官
「なぁなぁ」
私は聞こえなかったフリをして通り過ぎようとするが、
「なぁってば、聞いてくれよ」
死刑囚のしつこさに、決して開くことの無い厚い扉の前で、立ち止まる。
むやみやたらに、独房の中にいる連中と会話をしてはならない。
そういう規則だが、聞くだけ問題ないだろう。
こんなやつでも、仕事的に、急に舌でも噛まれて、死なれては困る。
でも、本当は死ねば良いとも思っている。
だって、こいつは、か弱い女性に性的暴行をして、殺害した死刑囚なのだから。
ドアの覗き穴から死刑囚の姿は見えない。
見えない位置から話し掛けてきているのだろう。
独房といっても、昔よりは随分と快適に過ごせている。
どんな犯罪者でも、死刑囚さえも、人権はあるということで、それなりの暮らしを送っている。
最低賃金で働くのが馬鹿らしくなるくらいの生活は送っているのではないだろうか。
「お前に話しておきたいんだよ」
男の声は低音でねちっこく、鼓膜に張り付いてくるようだった。
まるで、多数のミミズが頭の中で這い回るかのように。
不快感しかないが、妙に印象に残る声だった。
「交換してくれよ」
「は?」
何の話なんだ。
思わず、聞き返してしまった。
「おっ! やっと人間らしい反応してくれたな」
顔は見えないが、男がニヤついたのがわかった。
「ありがとうな」
男は大きな声を出さずに、私にだけ聞こえる声で話し続ける。
「俺はな、無実なんだよ」
確かに、こいつは、ずっと無実を主張し続けていた。
ただ、証拠は確実に、彼が犯人であることを
それなのに、絶対やってないと、最後まで主張していた。
DNA鑑定等、物的証拠、状況証拠から何から、アリバイも無かった。
「だから、なんなんだ。それは俺が決めることじゃない」
なるべく少ない言葉数で返す。
こいつはただ、死刑の執行を待つだけでの人生だ。
「俺と交換してくれよ」
「……どういう意味だ? お前は死刑囚なんだから、もうすぐ死ぬんだろ」
思わず、聞き返していた。
「でもよぅ、お前だって、生きててどうするんだ? 知ってるぞ」
「何をだ?」
「お前がどんなやつなのか」
「嘘つけ」
揺さぶりでもかけているつもりなのだろうか。
「お前は家族なんていないよな。別に守るものない。何にも楽しいことも、心揺さぶることもなく、毎日をただなんとなく過ごしている。過ごしていればいいと思っている。そうして年老いて行くだけなんだ」
「………………」
「俺にはまだやりたいことがあるんだ」
「……お前は何をしたいんだ?」
「子供に会いたいんだ」
「お前には、子供がいないだろ」
調書ではそうなっていたはずだ。
「いるんだよ。正式な子じゃないけどな。俺がこのまま死んだら子供が可哀そうだろ。子供のいないお前にはわからないか」
「わかるよ」
「わかったふりをして、平凡で凡人的な反応なんてしなくていいから、俺と交換してくれよ」
「………………」
特に反論すべきことはなかった。
男の事も一理あると思ってしまった。
ただ、死刑囚の口調には、私を、良い年して独身の俺を惨めだと嘲け笑うようなニュアンスが含まれていた。
それだけが気になった。
なんなら、一理だけではない。
男の言うことが事実なら、私の人生なんかより、よっぽど重要な話だ。
一理だけではない。
死刑囚の方が正しいまである。
でも、嘘かもしれない。
そう、コイツが本当のことを言っているとは限りない。
「なぁ、頼むよ」
その場を動けない俺に、男は声を掛け続けてくる。
翌日、死刑囚は独房から消えていた。
代わりに、独房の中には刑務官の男が一人、死んでいた。