7.
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「マダム」
バルコニーに歩み出て、そこから望む緑豊かな景色を眺めていたローザンヌは、自分を呼ぶ懐かしい声に振り返る。
マルタン王国は瓦解し、元から形ばかりの共同政治であったシヨン領はマルタンから完全に独立してシヨン公国となった。
今はスローン家が元首として座してはいるが、上院と下院による二院制を採用し、『君臨すれども統治せず』の立憲君主制を布いてスローン家が政府に直接的に関与することは少ない。
一番偉い人は、象徴、儀礼的存在である。と言うやつだ。
全てローザンヌの入れ知恵である。
「お久しゅうございます。シヨン公」
控えめにスカートを広げ、淑女の挨拶を見せるローザンヌにクリストファーは眉を下げ困ったような笑みを浮かべた。
「今度こそ、アヤラに帰ってきてくれたのかな」
クリストファーと顔を合わせたのは三年前が最後だ。
「さぁ。どうでございましょう」
七年前、クリストファーがシヨン領を引き継いで間もなくマルタンも民主化の波に飲まれた。
幸いシヨンは、ローザンヌの導きがあり経済は安定し、ヒューリーやクリストファーがよく治めていた事もあってマルタンを切り離す形で独立に成功した。
あの頃は互いに忙しくローザンヌがエグレット城に眠るバーゼルに会いに来た際も、挨拶を交わしただけですれ違うに留まり、クリストファーが望むローザンヌを再びアヤラに呼び戻したいという願望を直接彼女に伝える間はなかった。
その後、彼女の知恵を借りたいと請うても、ローザンヌは手紙のやり取りで十分で御座いましょうと取り合ってはくれず、ランドックの次に恋人となったランドックの盟友であり主治医でもあったナント博士とファーレチカで穏やかに暮らすことを選んだ。
そのナント博士も一年程前に天の宮城へと旅立っている。ランドックより高齢であったジルベール・ナントは天寿を全うし、最期は若い恋人に看取られ幸せだったとクリストファーは噂に伝え聞いた。
ナント博士がローザンヌに遺した信託財産について、ローザンヌにナント博士の親族が訴え出て、その処理が完了するまでに半年ほど時間を取られたそうだが、円満に解決したらしい。
「マダム。次の遊戯盤に置く駒は、公国にしないか?」
さわ、と穏やかな風が吹く。
「祖父の若い頃の肖像画を見ても、随分と似てきたと思うのだがどうだろう」
「お戯れを」
片膝を付き、恭しくローザンヌの手を取ったクリストファーにローザンヌは優美な微笑みを返す。
クリストファーの言うとおり、今の彼は随分とバーゼルに似てきた。つまりそれは、ローザンヌ好みの顔になってきたという事だ。
「私は祖父に似て、どうにも理想が高過ぎるようでね。二十三の時に出会ってしまった女性に恋をして以来、婚姻相手は彼女以外考えられなくなってしまった」
「それはまた……。随分と気の長い」
互いに歳をとった。
出会ってから二十年以上の年月が流れている。
「そうでもないさ。スローン家の男達は、麦の重さを計り、金貨の数を数える事が何より好きなんだ。そうしている間は、不思議と彼女の事は忘れられた」
帳簿に踊る数字を見ていれば、時が経つのを忘れていられた。
ローザンヌの崩れを知らぬ笑みを見上げながら、クリストファーは指先へと唇を落とす。
「祖父は、貴女は千年先の世界を見ていると言っていた」
祖父から始まり、ローザンヌは一生を遊び尽くしても使い切れない程の財と人脈を手に入れ微睡んでいる。
「だから、どうだろう。最後の遊戯場として、この国を貴女に相応しいものにしてみせる」
コクリと首を傾けるローザンヌは、あどけない乙女のようでクリストファーは目を細めた。
「目指せ、不労所得」
ローザンヌの目が僅かに見開かれる。
「十七歳だった貴女が、こぼした独り言だ」
いつ、どこでとローザンヌは考えを巡らせるが誰かに聞かれた覚えはない。いや、一人になった時に思わず口を滑らせてしまった事はあったかもしれない。
バーゼルに商船を与えられた時に、書斎で海図を見ながら喜びで口が軽くなったかもしれないし。紡績工場を新しく設えるとバーゼルが決めた時も、工場模型を眺めながら呟いたかもしれない。
迂闊だった十七の自分を叱責したい気持ちになりながら、その言葉を聞くことになったクリストファーがバーゼルに上申しなかった事を不思議に思う。
「マダム。この国は貴女の助言により戦火に巻き込まれる事なく穏やかに発展していっている。それが、祖父が望んだ未来だ」
遠くで雲雀が鳴いていた。
立ち上がったクリストファーは、離さなかったローザンヌの手を引き寄せ、再び指先に口付ける。
「祖父は貴女の慧眼を女神として愛したが、私は俗物なので女性として愛したい」
そして指先に唇を寄せたまま上目遣いに眉を上げ、ローザンヌを伺う。
「結婚してくれないか?」
「なぜ疑問形なのです」
「女性を口説いた事など一度として無くてな。こればかりは、どうにも難しい」
「まぁ」
とうとう破顔したローザンヌにつられ、クリストファーも笑みを零す。
「美人は三日で飽きると言いますけれど、やはり好みの顔は一生飽きずに見ていられますわね」
「マダム?」
しみじみとクリストファーの顔を観察したローザンヌから心の声が漏れたが、そこは優美な微笑みで上書きし無かったことにする。
「ええ、喜んで」
クリストファーに握られた手をスルリと引き抜くと彼から一歩距離を取り、ローザンヌは手を軽く胸に当て了解の意を示す。
「幾久しくお受けいたしますわ」
クリストファー・スローンとローザンヌ・アヤラの結婚式は、シャトー・ド・エグレットで行われた。
クリストファーは初婚であり、ローザンヌは再婚であった事から彼女の最初の夫について覚えている者たちの一部が口さがない噂を流したりもしたが、『殷富の女神』とも『財貨の女主人』とも言われる彼女がシヨンに戻る事の方が重要視された。
それから後、約半世紀に渡ったクリストファーの統治時代が最も裕福な時代であったと考えられている。
ローザンヌは、それまでの人生で得た財と人脈を惜しみなく使い芸術文化の保護育成に努め。教育の重要性、平等性を説き、それらを共通の認識まで浸透させようと尽力した。
また時節を読んではクリストファーに助言を行い、時に自身の資産を崩してでも公国に『戦わずして勝つ』姿勢を貫かせる。
目減りする財産などまた稼げばいい。
それはバーゼルの口癖であり、ローザンヌも何かの決断のあとには呟いていたという。
見えぬところで国同士の浅ましい争いがどれ程繰り広げられていたとしても、その国に生きて生活する民から見たシヨン公国は穏やかで住みやすい国であったし、大きな瞳とコケた頬が特徴的なクリストファーは加齢と共に人相の悪さに拍車が掛かっていくものの驚いた時の顔や笑った時の愛らしさはその比にならず、国民に愛される良き統治者となった。
そして、公の場に姿を現す彼の傍らに常に仲睦まじく寄り添い熱い眼差しでもってクリストファーを見つめるローザンヌは、彼女の知性と品格、清楚な佇まいからは想像もつかない苛烈な経営者としての一面がまるで焼き付けることで極上の色彩と輝きを放つエマイユのようだと囁かれ、いつしか彼女は大公閣下の腕に咲くエマイユの花と呼ばれるようになった。
千年の時を歴ても色褪せぬようにとエマイユ絵画で描かれた二人の肖像画は、三百年程度では色褪せることはなく。今もローザンヌが愛したアヤラの地、シャトー・ド・ヴァンベールに飾られている。
お付き合い頂き有難う御座いました。
またいつかお会いできたら幸いです。