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6.

 

 □□□□□■□




 バーゼル・グリス・スローン・ドゥ・シヨンの亡骸は、最後の妻ローザンヌ・アヤラが用意した亜麻布(シュラウド)に包まれシャトー・ド・エグレットの墓地へと埋葬された。


 布全体にシヨンの四季の花とその地に生きる動物たちの姿の刺繍が施され、四方は繊細なレース刺繍に彩られたシュラウドは、丁寧な手仕事であると共に如何にローザンヌがバーゼルを愛していたのかを訴えていた。


 埋葬地に晩年を過ごしたアヤラのシャトー・ド・ヴァンベールではなくエグレットを選んだのは、ローザンヌが旦那様をヴィーヴル様にお返しすると進言したからだ。


 ローザンヌは、バーゼルの妻であった。


 だが、ローザンヌにとっては最初の妻であるヴィーヴルこそがバーゼルが愛した唯一無二の存在なのだと認識していた。


 ヴィーヴルの隣で、ローザンヌの愛に包まれながらバーゼルは眠っている。


「本当にこれで良かったのか、マダム」


 アヤラの屋敷から遠いエグレットの地に想いを馳せるように空を眺めるローザンヌにクリストファーは声を掛けた。


「なんのことでしょう」


 振り返った彼女は、常と変わらず静かな笑みを浮かべ優美で軽やかな動きで窓辺から離れ書斎机へと足を向けた。


 机の上に置かれた書類には、既にサインをし終わっている。それを手に取ると封筒に収め、封蝋で封印する事で信書としクリストファーへと差し出した。


「旦那様はわたくしに、このアヤラの地といくつかの事業を遺して下さいました。このような幸福に恵まれ、更に何を求めよと申されるのです」

「それは……」

「民衆の歌に、どうか耳をお傾け下さい。彼等はいつまでも隷属者ではありません」


『良いか、クリス。ロザンの眼は千年先を見ている。彼女がもし、お前が不快に感じる言葉を発したならば、それは近い将来必ず来る現実と捉えよ』


 天寿を全うしたと思われる祖父が、床に伏せるようになる前から幾度となく聞かされた言葉が脳内に蘇る。


我が国(シヨン)も、リニックの様に斃れると言うのか」

「いいえ。旦那様の愛した土地に、戦火などあげさせるものですか」


 昏い瞳にヒュッっと小さくクリストファーの喉が鳴った。


「新しく羅紗の工場を設えようと思っています。働く場所と労働に見合った対価。これを与える事で延命させますわ」


 フランスの失敗を見て、イギリスは爵位を金で売り払い中間(・・)を量産する事で延命に成功した。


 だが、今生きるこの世界では勝手がいくつか違う。そのまま流用出来る部分は遠慮なく使わせて貰うが、そうでない部分はあくまで参考程度にしか通用しない。


 それにシヨンを独立領とするならば、何よりも財源確保に動かなければならない。


 切り売りできる爵位を与えてやれない代わりに、正当な対価を支払う事で満足度の向上を図るのだ。


 年に二度やってくる目標管理シートと人事考課表に苦しめられた過去はもう遠い。まさかの中間管理職スキルが異世界でたいそう役に立つとは誰が思おうか。


 ローザンヌは、皮肉に口元を歪める。


信託(ユース)の受益金について、こちらからも教会へ寄附致します」


 スローン家にとって、痛恨の一撃となったのはバーゼルが生前信託としてアヤラの土地をローザンヌに与えてしまった事だ。

 経済として安定し、上り調子であるアヤラがバーゼルの死によってローザンヌの個人資産となってしまった。


「本当に、これで良かったのか」


 再び繰り返す。


 この地は、貴女と祖父の想い出の場所では無いのか。


 叫び出したい衝動を奥歯を噛み締めることで留める。


 そんなクリストファーの胸の内を知ってか知らずか、ローザンヌは優美に微笑む。


「この屋敷を残して頂ければ、土地の所有者が誰であろうと構いませんわ」

「マダム」

「それに、グルナッシュは旦那様と唯一バカンスに訪れる事ができた土地ですの」


 ディノ皇国の中心都市グルナッシュは南側が海岸線に面し、東側はシヨンとの国境、北西を山脈に囲まれた観光都市である。海岸側は乾燥した気候だがシヨンに近いほど湿度が高く、北に行くほど過ごしにくくなる。また山間部から続く広い河川の影響で、突風が河川を伝い山から吹き下ろすのも特徴だ。


 潮風の影響で家が傷みやすい事に目を瞑れば、海岸側は人気の別荘地であり居を構えたがる王侯貴族や富豪も多い。ローザンヌはグルナッシュに移り住むと伝えてきた。


「お茶の一つでもお誘いしたいところですが、シヨン卿は首を長くしてお待ちでしょう。一時でも早くお戻りになられる事をお勧め致しますわ」


 ローザンヌがクリストファーに差し出した封書の中身は、アヤラをスローン家へ有償で譲渡するという契約書である。ローザンヌはアヤラを六十万ポンドールで売り渡した。


 スローン家はその条件を呑むしかなく。しかし、アヤラの価値からすればクリストファーが代替わりする頃には取り返せるだろうとヒューリーは判断したし、何より、ローザンヌが手掛けた事業はローザンヌのものとしてそのまま残る。彼女が稼げは稼ぐほど、税収となって領地は潤い続けるのだ。


 彼女はアヤラの名主(みょうしゅ)ではなくなったが、代わりに女性実業家としてアヤラを中心にシヨンのみならず、ファイベルズ大陸に君臨し続けるだろう。それだけの富を彼女はバーゼルと婚姻していた八年の間に稼ぎ出し積み上げたのである。


「道中、お気を付けて」

「すまない。失礼する」


 受け取った封書を上着の内ポケットに仕舞うと顔色を悪くしたままクリストファーはローザンヌの書斎を後にした。


 本能でローザンヌを畏れたクリストファーは、父であるヒューリーより強くバーゼルの彗眼を容姿共々受け継いでいたのだろう。

 しかし、彼はローザンヌを征するまでの気骨は持ち合わせていなかった。


 否、ローザンヌの瞳の奥に揺らめく仄暗い焔に気付いたが故に、彼女の歩みの邪魔にならないよう道を譲ったとも言えよう。


 クリストファーが早馬を飛ばしエグレット城に戻ってから程なくし、ローザンヌはグルナッシュへと移り住んだ。


 海岸線にほど近い街であるミュルーズに居を構え、暫しのあいだ悠々自適な生活を楽しんでいたローザンヌであったが、その日々は暇潰しとは縁遠い毎日であった。


 何処からともなく嗅ぎつけた有象無象の人々が、彼女の財を目当てに訪ねて来たからだ。而してローザンヌは、それらの人々を跳ね除けることはしなかった。


 ローザンヌの中の人の元から持つポテンシャルに加えバーゼル直伝の『人を見る眼』スキルを与えられた彼女の眼力を前に、勝手に討ち死にして屍は積み上がっていく。

 そんな愚か者たちの狂騒などローザンヌにとっては瑣末事ですら無かった。


 そんな中、思わぬ出逢いをする。


 ローザンヌに融資を求める人間の中に、ファーレチカ王国の陸軍士官であり教育学者のヴァン・ラングドックがいたのだ。


 ローザンヌはラングドックの教育論に深く共感し、バーゼルから受け継いだ莫大な遺産を女子教育や婦人事業援助に費やすこととした。

 そして金銭の寄付のみならず、政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、彼の強力な援助者となる。


 生前のバーゼルの問い掛けに『今は時ではない』と答えた彼女の『時』が『今』、巡ってきたのだろう。


 後に三十六才という年齢差を物ともせず、ローザンヌとラングドックは恋人関係に発展するのだが、ローザンヌが再婚することは無かった。


 彼女は誰かの貞淑な妻に収まるよりも、彼女が手にした天秤で麦の重さを計り、金貨の数を数える事が何よりも好きな人種だったからである。




 ■□




 二階のバルコニーに立ったローザンヌは、山肌が切り拓かれ、新しく増やされた棚田を見て目を細めた。


 アヤラが順調に発展している証拠だろう。ローザンヌの中の人の狙いは、オランダのようなスマート農業であり、アグリビジネスの基盤を整え、しかし農業に傾きすぎた貧困国にならないよう工業との相互発展である。


 一朝一夕に出来る話ではない。


 ゆっくりと確実にアヤラを。延いてはシヨン全体を豊かにしローザンヌが快適な老後を暮らせる終の住処に育てなければならない。


「マダーム、マダム!」


 バルコニーから室内に戻り、窓を締めた所で聞こえてきた自分を呼ぶ声にローザンヌは小さく笑みを零す。


 ローザンヌがグルナッシュに移り住んでから新しい館に雇い入れたハウスキーパーであるアペラ=シオンは、郎らかな性格そのままに声も大きかった。


「聞こえているわ、アペラ。わたくしはここよ」


 屋敷の部屋の扉は、常に開け放った状態で置かれている。少し声を張れば、廊下にいる彼女へ声が届くだろう。


 暫くして、やや慌ただしい足音と共にアペラがローザンヌの書斎へと現れた。


「もうマダム、勝手に歩き回られては困ります」

「あら、いやだ。五年ぶりの帰宅とはいえ、ここはわたくしの家よ」

「で。ございますが、こちらにも準備というものがございます」


 シャトー・ド・ヴァンベールはスローン家が管理してくれていたのだが、クリストファーに代替わりするという事で五年ぶりにローザンヌはアヤラに戻ってきたのである。


 以前やってきた時は、ラングドックと一緒であった。


 ラングドックと恋仲となったことでローザンヌはグルナッシュのミュルーズからファーレチカのラシュールへと居を移す事にした。その時、バーゼルと共に育てたアヤラの地を見せたいと立ち寄ったのだ。


 二人の関係は良好でその後三年ほどは仲睦まじく生活していたのだがラングドックが心臓の病に倒れ、急死してしまったことで独り身に戻ったローザンヌは再びミュルーズへと戻った。


 やがて心の平穏を取り戻したのか、ローザンヌは女子教育についての活動を再開する。リニックのボキューズで女子教育の是非を問う会議が開かれると聞きつけローザンヌも参加する事にした。


 しかし、そこで思わぬ厄災に巻き込まれる。

 ローザンヌの異母姉サラである。


 既にリニック王国は解体され、共和国となっていた。


 ローザンヌの父であったタルシス伯が亡くなったのは、王政が倒れる半年程前で議会で活発化する市民の抗議運動に対しての審議中に突然倒れ、そのまま帰らぬ人となったという話だ。


 タルシス伯は、三代前の直系男子の血族であり家令(セネシャル)としてマカーベオ家に仕えてきたアルザス・マカーベオが継いだ。


 未亡人となったシャイリーは、一旦はモルジュ家に戻ったようだが時節を読み、早々にジンク帝国の商人と再婚をする。国外に逃れ、リニックを吹き荒れた市民革命からも遠ざかった。


 市民革命により、リニックの貴族達は身分を失くし、それまでの財産管理をしっかりと行っていれば少しばかり裕福な上流階級に収まれている。だが、それはごく一部に限られていた。


 私財を切り売りし、何とか体面を保っていたベルモン家は寧ろ没落した方が生活は楽になっていたし、そのような貴族が殆どであった。


 しかし、サラにとっては許されない事態となっていた。


 十五年ぶりにリニックの土を踏んだローザンヌの元に現れたサラは、ローザンヌの知る彼女とはまるで別人となっていた。記憶の中の彼女は、ひと目で高価とわかるドレスに身を包み、上品な輝きで光を乱反射する装飾品に彩られ、美貌に裏付けられた自信に溢れるこの世の春を謳歌しているような女性であった。


 それがどうしたことか。髪からは艶が失われ、肌は乾き額と口元に小さなシワが目立つようになっていた。上流階級の女性らしい肉質感がまるでなくなった痩せた体が余計に皮膚を弛ませ細かなシワを作っているのかもしれない。


「ローザンヌ、どうしてマカーベオを捨てたの!」


 人種が変わっても、人は恨みつらみがつもると般若の様な顔になるのね。などと、今にも自分に掴みかかりそうな勢いのサラを見て思う。


「どちらかといえば、わたくしが捨てられた気がしますが」

「なんですって」

「嫁資として用立てて頂いた兌換金券は、ベルモン夫人のご婚約が整った段階でタルシス卿に復帰するよう手配しました」


 性格に難があったとしても、一代で財を築いた豪傑と言われた祖を持つモルジュの血と知略に長けると戦で名を馳せたマカーベオの血を引いた娘である。

『タルシス卿に復帰させた』の言葉で察したのだろう。サラの落ち窪んだ瞳が大きく開かれる。


「婚姻前の財産は個別資産となります。名義は決して書き換えてはいけないと十五歳の祝儀でいただく筈だった靴を後日シャイリー様から贈られる際、わたくしはそう言付かりましたわ」


 何の名義かはすぐに分かった。ローザンヌからサラに贈られた祝い金だ。五〇〇枚のポンドール金貨を少ないとサラは詰ったが、シャイリーの見立て通り一時期スー硬貨とのレートは四倍以上になった。

 多少の上下はあるものの今は二倍程度を横ばいに安定している。


 母であるシャイリーの言いつけを守りウシーに渡さなければ、一生を食う金額にはならなかったとしても身分制度が廃されたリニックで生活を建て直す基盤を作る間は楽に暮らせた金額になっただろうし、今もしなくていい苦労をすることは無かっただろう。


 全てはタラレバの話である。しかし、今の生活に疲れたサラの心を刺すには十分な話であった。


 生活に窮しているわけではない。昔ほど贅沢は出来ないが、それなりの中流階級の生活は出来ている。


 それでも中流なのだ。


 貴族という身分に浮かされた身としては満足出来ず、異母妹は夫の遺産を受け取り悠々自適な生活を送っているとなれば頼りたくなる。

 しかし、それを目の前の彼女は許してはくれなかった。


 サラの目の前に座るローザンヌが身に纏うのは、ひと目で未亡人とわかる黒のドレスだ。

 一見、飾り気のないドレスに見えるが首を覆うように襟が立ったスタンドカラーは、七分丈のベルスリーブと合せ上半身がすべて、透け感のある素材にエアリー刺繍が施されている高級品である。

 白色のアクセサリーが、ささやかに耳と指を飾っているがどれもきっと真珠であろう。

 髪には、同じく白色のリボンが髪を巻き込むように結ばれ低い位置でサイドアップに纏められている。


 サラの知る十七歳までのローザンヌは、質素倹約を絵に書いたような娘だった。贅沢をせず、清貧に努め、貴族の娘の手慰みだとほつれたドレスは刺繍で補いリボン刺繍で新たな飾りを作り出すような城で雇う仕立て屋の真似事をする娘だった。


 全部、母に贅沢を強請れない異母妹の意趣返しだと思っていた。


 マカーベオではなく、モルジュの財で着飾る自分たち母娘に対する当てつけだと。


 けれど、違ったのだと今、目の前に座る淑女を見て悟る。彼女は、贅を好まないだけで絢は好きなのだ。

 水辺で凛と花咲く水仙のように、彼女は常に真っ直ぐに美しく立っていた。


「わ、……わたくしが悪いというの?」

「シャイリー様は、望めばどのような家庭教師も付けてくださいましたわ」


 そのおかげで、今のローザンヌがあるようなものだ。


「貴女……」


『気の所為ですわ、お姉様。あまりの良縁に驚いてしまいましたの』


 十七歳のローザンヌが笑う。


「わたくし、ボキューズに女子学校を設立しようと思っていますの」

「女子学校」

「ええ。男子の高等教育は商工会(ギルド)が学校を作りましたでしょ? でも、そこに女子は入れない」


 ローザンヌは、すっかり冷めてしまった香茶を一口含み唇を濡らす。


「だから、わたくしが作りますの。優れた能力を持って生まれた人間に、性差など関係なく機会を与える為に」


 高潔さは、時に傲慢に映る時がある。そこに優美な微笑みを添えて、千年の時を繰る女主人がサラの前に静かに座していた。




 ローザンヌがアヤラにつけた値段は六十万ポンドール。


 約1440億円で売り払いました。


 1ポンドール=2万4千円くらい


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