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5.

 

 □□□□■□□





「旦那様、旦那様」


 最近、うたた寝することが多くなった夫にローザンヌは優しく声をかける。


「風邪を引いてしまわれますわよ」


 手にしていたクーベルチュールを安楽椅子で眠るバーゼルの肩を覆うように掛け、首元が寒くないように顎まで埋まるように裾を上げ整える。


「……ロザン、か」

「はい。お傍におります」

「我が妻は、今日も美しい」


 薄く目を開いたバーゼルだったが、完全な覚醒には至っていなかったのだろう。微笑みを浮かべるローザンヌを見ると僅かながらに口角を上げ微笑返し、再び目を閉じてしまう。


「愛しているよ」

「わたくしもですわ」


 どうやら夢の国に帰ってしまったらしい夫の形の良い額に口づけを落とすと、ローザンヌはバーゼルの書斎のソファーに腰を下ろし、日課となった亜麻布に絹糸で刺繍を始めた。


 彼女がアヤラの地に移り住んでから、五度目の冬がやって来ようとしている。


 領主の仕事は全て息子であるヒューリーに委任されており、バーゼルがこなすのは政治的外面として貴族のシヨン卿が必要な時に赴くだけとなっていた。

 だがそれも、この一年は体調が優れないということで見送る事が多くなった。


 旅立ちの日が近いとバーゼルも感じているのだろう。


 バーゼルはローザンヌとスローン家に一粒でも多く麦を残そうと帳簿を見、取引相場を眺めては財を追うことに努めた。


 ローザンヌの采配により、彼女と共にバーゼルの手解きを受けたクリストファーは、シヨンの善き後継者となって父を助け領を盛り立てている。


 バーゼルが自分が常世の国へ旅立った後を案じローザンヌにどうするかを問うた時、彼女はバーゼルの考えに穏やかな笑みを浮かべたまま首を横に振り、困った殿方ですこと。と、彼を咎めた。

 以来、バーゼルはローザンヌに再婚の話はしていない。


 ローザンヌは、一針一針、バーゼルを思って針を刺す。


 永遠に完成しなければバーゼルの魂を引き留められるのではないかと、ローザンヌは願をかけるように新しい図案を追加して刺繍を続けている為、花嫁のドレスより豪奢な刺繍が施されてしまっていた。


「旦那様」


 ふと刺繍を刺す手を止めて、ローザンヌは眠るバーゼルを振り返る。


 他人にどう噂されようと、ローザンヌにとってバーゼルは良き夫で、師で、隣人で、友で、息子であった。


 バーゼルは、ローザンヌの才覚を信じ彼女の思うままに商いをさせてくれた唯一の人である。


 その一つが乳香であるが、これが巨万の富へと繋がっていく。


 乳香は、ローザンヌたちが生活する大陸で信仰される神へ祈りを捧げる際必ず焚かれる香だ。

 人と宗教は切っても切れぬ縁で結ばれているのは、どの世界でも一緒という事だろう。

 ゆっくりと財を成していくローザンヌは、その財を惜しげもなくダフニ島への投資に使った。


 元からの目的であるラバンベルト開拓の為である。


 その甲斐もあり、今の所ダフニ島でしか採れない歯磨きガム(マスティック・ガム)モドキは、特に口臭を気にするドゥーノ人には手放せない物となり、黄金の卵を産む鵞鳥となって占有権を持つローザンヌに富を届けた。


 次に目を付けたのは蕎麦だ。


 穀物の精製技術が発達する事により、パンも米もより白く、より柔らかく、口当たりのいいものに変化していった。


 元いた世界で、全粒粉使用と銘打たれていそうなパンが貴族の食卓に並ぶ。これがデフォルトであるなら、平民の暮らしはさぞ歯が丈夫でないと大変だろうとローザンヌになって日が浅い頃には心配したものだが、なんてことはない彼らの主食はポリッジであった。


 なるほど、それは確かにそうだろう。ローザンヌ達の食卓にもポリッジはよく上った。

 パン生地によくバターを練り込むことで柔らかく、焼き上げたあとのパサつきを改善しようとしているのはわかるが、なにせ元となる小麦の質が良くない。


 それに対し、ミルクでよく煮た粥の方が柔らかく口当たりもいい。そちらに傾くのも頷ける。


 そこでふと、ローザンヌはガレットの事を思い出した。


 蕎麦粉のガレット。


 フランスの家庭の味的田舎料理も日本に来ればキラキラ女子御用達のオシャレなカフェランチに変わる。


 あれは蕎麦粉を使っていたけど、この世界で蕎麦はどうなっているのかしら。


 浮かんだ素朴な疑問は、ふとした瞬間に思い出す事はあったがローザンヌに調べる手立てはなくそのままになっていた。


 だが、バーゼルに嫁いだ事で彼女は権力を得た。


 今アヤラの地では、蕎麦畑が広がりつつある。


 蕎麦の原産は中国。それが周辺諸国に伝播した。


 日本では、米が不作だったときの補助として蕎麦が作られていた歴史がある。


 ならば、こちらでも麦が不作だった時の補助として蕎麦を育ててみてはどうだろうか。そうローザンヌは考え、蕎麦の実を探した。


 バーゼルの元に嫁いだ直後から探し始め、三年を費やして大陸の最果て砂漠を越えた先にある海のように広い河の向こうに暮らす遊牧民族から漸く手に入れる事ができた。


 何でも曰くつきの植物らしく定住して育てるには難があると言われたそうだ。


 見つけた蕎麦の実は随分と矮小で粗雑なものに見えたが、生命力はローザンヌの予想の遥かに上回っていた。


 流石、異世界……。


 視察に訪れた畑で、蕎麦栽培一筋三十年。と、言われても信じてしまいそうな見事な穂が揺れているのを目の当たりにし、ローザンヌの中の人は自分が元いた世界の常識は一旦捨てようと決意した。


 あれから二年と少し。繁殖能力の高さと病に負けない強さから蕎麦はアヤラに根付き、蕎麦は麦の補助ではなく同等、畑の広さによっては蕎麦のみを育てる家も出てきた。


 口があるモノは、一生食べさせなければならない。


 ローザンヌの中の人が幼い頃、犬を飼いたいと母親に強請って言われた言葉だ。


 生きている限り、食もセットでついて来る。


 この一帯は麦が自生していた為、麦が主食となった歴史があり、遠い地の果てのような場所まで出向き蕎麦の種を持ち帰るような冒険者は居なかったようだ。


 この時代の納税は、物納が主流である。

 農民たちの税は畑の広さで決められ、定められた重さの麦を納める。


 ローザンヌは、麦の代わりに蕎麦を作ってもらう対価として最初の年は、その乾田分は税を半分にすると約束をした。そこで思ったような結果が得られなければ、次からは止めてもらって構わない。

 しかし、麦と変わらず発育状態がよく品質も安定しているようなら、次の収穫より麦と同等の扱いとする。


 結果、蕎麦の繁殖力が強く通常の麦の収穫量より三倍近い量の収穫があったという事だ。

 蕎麦の実もロシアではグレーチカ(ポリッジ)として消費される。


 麦のカーシャ(ポリッジ)、蕎麦のグレーチカ(ポリッジ)。選択肢が増える食の充実は、世界を彩る。

 ソレは、人々の日々の生活の活力へと繋がるものだ。


 新たな金脈を見つけたローザンヌが、腹黒さが滲む笑みを浮かべたところで誰も責められないだろう。


 ローザンヌはバーゼルの許可を得、先にクリストファーを呼び蕎麦の収穫量と、その有用性を説きアヤラでの試験的導入と免税、減税について話し合った。

 クリストファーはその話を持ち帰り、話を聞いたヒューリーはアヤラの税収が変わらないのならば、好きにして構わないと返事を寄越した。


 これによりローザンヌは蕎麦も麦と同じ重さで税とし、どちらをどれだけ作るかは農民の自由とした。


 蕎麦の実は、同じ畑の大きさでも麦より三倍近く収穫出来る事から税、日々の食、種苗を除いた分が蓄えへと回り、備蓄は飢えへの怯えから人々を少しだけ遠ざけていく。


 蕎麦の実は、やがてシヨン領全体に耕作地域を広げて行くのだが、その繁殖力の強さから管理が容易ではなく。すべての麦畑が蕎麦畑に置き換わることは無かった。


 アヤラの畑は、麦の黄金と蕎麦の白と赤の花が風に揺れる。




 ■■




『旦那様』


 自分をそう呼び、いつもなら麗らかな笑みを浮かべるローザンヌが、瞼を腫らせ目尻を赤く爛れされている。


 そのような顔をするものでは無い。

 君はいつも、とても美しいのだから。


 どうか、笑ってくれないか――――。




「故に、例え収穫量が多くとも単一品種栽培(モノカルチャー)は危険なのです」


 ローザンヌが女性とは思えない程の才覚を現した事に、最初こそ戸惑いを見せたバーゼルであったが彼はすぐに考えを改めた。


 性別は関係ないのかもしれない、と。


 幼き頃より男児と変わらず教育を受けたなら、同じように頭角を現す女性も増えることだろう。


 しかし、まだ女性への教育は主流ではなく女性が公的教場に学びに出てくることは無い。


 否、教場側が男女が高等教育の場に並び立つ事を拒否しているのだ。


 こればかりは根深く、覆すのは難しいと思えた。だからこそ改革の余地があるのでは無いかとローザンヌに水を向ければ、今は時ではないと彼女は言い女性の為の教育施設は先送りしている。

 しかし、彼女の事だ。いつかの日の為に、準備しているに違いない。


 彼女の瞳は、千年先の刻を見ているのだから。


 ローザンヌの予見通り、驚くべき早さで世界は変革を迎えていた。

 農耕器具が発達する事で、とうとう人が余り始めたのだ。


 彼女の助言により新しく構えた工場も、迎え入れた出稼ぎ労働者で常に満数稼働している。


 ローザンヌは、より多くの富をバーゼルの元に運んできてくれる殷富の女神であった。


 最初の妻ヴィーヴルとは、十八年連れ添った。二番目の妻となるローザンヌとは、その半分も過ごせていない。

 それなのに、その短い間に二つの国が王政でなくなってしまった。


 ローザンヌは未来を見通す目でも持っているのではないかと何度か尋ねたことがあるが、その度に彼女は少し驚いたような、秘密が見つかってしまい照れて拗ねるような、そんな幼娘のような表情を垣間見せてから穏やかに微笑むのだ。


『実はそうなのです。内緒ですよ、旦那様』


 君のイタズラは、いつも成功しっぱなしであったよ。

 ローザンヌ。


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