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4.

 

 □□□■□□□




 バーゼル・グリス・スローンとの正式な婚姻が結ばれたという報が父の元へ届いたのであろう。


 ローザンヌの元に、それまで手紙一つ寄越さなかったタルシス卿から姉サラの婚約式の招待状が送られてきた。


 是非、シヨン卿とともに出席されたしと添文があり、スローン家との繋がりを望んでいる節が見て取れる。


 バーゼルをハブとして、彼の人脈を写し取りたいのだろう。


「困った方ですわね」


 フフ。と笑うとローザンヌは手紙を暖炉へと投げ入れた。厳しい冬を越え、陽射しは暖かくなりつつあるがまだまだ朝夕の冷え込みは厳しく火を入れて暖を取る日常である。


「よいのか、ロザン」

「ええ、勿論」


 この部屋はローザンヌの為に誂えられた書斎だった。

 バーゼルの書斎と扉で繋がっており、自由に行き来が出来るようになっている。


 書物が壁に詰まり、鎧や絵画といった美術品が飾られた重厚で厳格な印象を受けるバーゼルの書斎と違い、ローザンヌの書斎は書物は少なく美術品の代わりに暑さや寒さに弱い植物が飾られていた。


 白い水牛の革で張られたカウチで寛いでいたバーゼルが、灰となってしまった手紙の残骸を眺めながら若い妻に問いかける。


 書類仕事に疲れた時に軽く横になれたり、刺繍をゆったりとした姿勢で刺せる様にと用意したカウチは、夜のひと時、バーゼルが妻との時間を過ごす為の定位置となりつつあった。


「あと三年もすれば、タルシス領でも農夫たちが余り始めますわ」


 道具の進化が働き手の居場所を奪う。


「余った人手は、職を求めて街へと移動し始めます」

「我が妻が見通しとして語って聞かせてくれた農業革命か」


 バーゼルとローザンヌは寝室を共にしているが、男女の関係にはいたっていない。

 どちらかが寝息を立てるまで、経済や所領の発展について語り合う色気とは程遠い夫婦であった。


「ええ。そして工場で働く人が増えることで産業革命が起こります。それはまだ先のことでしょう」

「俄には信じ難いが、その気配は既に感じている」


 ローザンヌが語り怖れる展望を無視することが出来ず、バーゼルは山間部からほど近い港町に一つ、側に運河がはしる荘園を経済基盤とした商業都市に二つ、毛織物の工場を建設することにした。

 このアヤラにもローザンヌ名義で綿花の加工工場を予定している。


「はい。人々が自由になる金子を持ち、生活が豊かになっていく事で最後に求めるのは」

「自由」


 バーゼルは、手にしていたグラスの残り少ない酒精を一気に煽った。


「市民革命は、貴族を飲み込むことでしょう。そうならない様に抑えつけるなどと考えてはいけません。総ては神の采配、わたくしたちは如何に財を守り、民草と共存共栄を果たすかに知恵を絞るべきなのです」

「ふむ」


 空になったグラスをローテーブルに置き、傍らにやってきて腰を下ろしたローザンヌの肩を抱くと髪に優しく口付ける。

 それだけでローザンヌは首まで赤く染め、真面目な話をしているときはやめてくださいまし。と小さく抗議の声を上げるのだ。


「して、タルシス卿の狙いはなんだと思う?」

「第一は、旦那様の人脈でしょう」

「第二は?」

「わたくしに持たせた兌換金券の一部を返却、もしくはスローン家からの融資かと」

「それ程までに傾いていると?」


 時局を見極めるような瞳であるのに、バーゼルの深い青色の瞳に見詰められるとローザンヌの息は僅かながらも上がってしまう。

 常にこの瞬間でさえ、ローザンヌはバーゼルに恋をし続けていた。

 好みの容姿と知性と財力を持ち合わせた男に出会ったのだから当然の結果である。


 美人は三日で飽きると言うが、美醜以前に本当に好みの顔であった場合、顔を見ただけで全てが許せてしまうのだから飽きなど永遠に来ないとローザンヌの中の人は知った。


「モルジュは商売の手を広げすぎました」

「銀行か」

「はい」


 モルジュ商会は薬事業で蓄えた資金を元に銀行業に手を出した。順調に支店を広げたまでは良かったが、平貴族であった事が禍し政敵に敗れたことで今では破綻寸前となっている。

 それまでモルジュからマカーベオに向けて流れていた金の流れが逆転する時が来たのだろう。


「支援を?」

「いいえ。捨て置いてくださいまし」


 言うと、ローザンヌはバーゼルの腕を撫でそのまま指先を手の甲へと滑らせる。

 ローザンヌの意図に気付いたバーゼルは、戯れるようにローザンヌの指に自分の指を絡めた。


「わたくしを育てた費用は、ペレストレーロ商船団と旦那様が下さった我がグリゼルダ商船団との取引で得た益で十分に満たされた筈ですわ。それ以上をお望みのようなので、嫁資として持たされた兌換金券を父に復帰させます」


 何事もないようにローザンヌは言うが、嫁資がそのまま設定人の元に戻るのは持参した本人が死亡したときのみである。

 彼女は暗にマカーベオ家と縁を切るとバーゼルに伝えたのだ。


「そうか」

「はい」


 バーゼルは、ゆっくりと瞬きすることでそれを是とした。


 グラスに新たな酒精が注がれ、バーゼルはその芳潤な香りを楽しんでから軽く唇を濡らす。


 長き時を生きた男が夜の帳が下りたあとの僅かな時間。重く冷たい鎧を脱ぎ捨て、一時の魂の解放に目を細める。

 そんなひと時がローザンヌは堪らなく愛おしく、一日でも長く夫の姿を眺めていたいと願うのであった。




 □□




「ロザンからの祝い金がポンドール金貨五〇〇枚だなんて、馬鹿にしているの?!」


 母の居室に呼ばれ、ローザンヌからの手紙を渡されたサラは異母妹の慇懃無礼ともとれる内容に激怒し便箋を引き裂いた。


「サラ、少し落ち着きなさい」

「お母様!」


 ゆったりとソファーに腰を下ろし、娘が激高するさまを眺め見ていたシャイリーは、いつもと変わらず少し気怠げな口調でサラの行いを咎めた。


 彼女のとろりとした話し方に誤魔化されてしまうが、その声をよく聞くと温度の無い至極冷静なものであるときが多い。


 いつもと変わらぬ笑みを浮かべていても、何がどう違うのか分からなくてもサラは本能で母親を恐れており、敏感にその変化を感じ取った。


「スー硬貨は、これから先ますます不安定になっていくわ」


 シャイリーは、ローテーブルに置いていた為替手形を手に取って眺める。ローザンヌが手紙に同封してきたものだ。


「そんな事」

「いいえ、そうなるのよ」

「うっ」


 ハッキリと言い切られてしまうとサラは言葉に詰まった。


「土壌は整いつつあったの。分かっていたのに、モルジュ家に頼りすぎて後手に回ってしまったマカーベオ家の失策ね」

「お母様?」


 手形をテーブルに戻し、シャイリーは肘置きにしなだれ掛かる。これから先を見通せば、夫であるレザンも同じように頭を悩ませている事だろう。


「この先も緩やかに物価は上昇し続けるでしょう。そして、ある日突然下落する」


 それはあくまで見通しに過ぎない。

 しかし、幼い頃からあらゆる物が行き交う商いを目にしてきたシャイリーは確信していた。


「その時、リニックのスー硬貨ではなく隣国マルタンのポンドール金貨であった方が絶対に揺るがない価値あるものとなるわ」

「そんな事、……信じられないわ」

「フフ」


 半信半疑どころか、全く信じていないといった顔を向ける娘にシャイリーからは苦い笑みが溢れる。


 時局を見るのは、ローザンヌの方が長けていたということか。


 虚しさと同時に嫉妬に似た感情が湧く。


 ローザンヌが十二の時、間違ってイエローウルフズベインを部屋に持ち込んでしまった。見た目は可愛らしい花だが、花にも茎にも根にも、存在自体が毒となる植物だ。貴族の館の庭は広く、狩りを行う森を有するのは当たり前である。森を散歩していた時に見つけ、持ち帰ってしまったのだろう。

 花に触れたことで体調不良を起こし、暫く寝込んだ後の彼女は別人となっていた。


 それまで、なんとか自分に気に入られようと愛を乞うていたローザンヌは、ピタリと媚びるのを辞め適度な距離感を保つようになった。


 余りに上手く隠しているものだから気付くのが遅れたが、晩餐時などの家族の会話で彼女の中で何かしら引っ掛かりを覚えた時など、こちらを値踏みする様な視線を向けてくる時もあった。


 とはいえ、何かしらの行動に出るわけでもなく。希望するのは貴族の子女なら当たり前の教育ばかり。その成績が良かったからとサラのように褒美を要求するわけでもなく、淡々と暮らしていた彼女にすっかり騙されてしまったということだ。


「サラ。この金貨五〇〇枚は、来たるべき時に必ず貴女の助けになる筈です。それまでこの手形は、換金せず大切に持っておきなさい」


 シャイリーの忠告は守られることは無かった。


 サラという少女は、十五歳の祝儀より以前から宝石を身に着け、豪奢なドレスに飾り立てられていた娘である。欲しい物は全て与えられ、我慢を知らず、年齢ばかり大人になった娘であった。

 悪意のない透明な害意を包容した彼女は、時に高慢で傲慢。両親に似て頭の回転が速かったのも災いした。


 思い込みと決めつけ。


 サラにとってローザンヌは、可哀想な妹でなければならず、間違っても自分より幸せであってはならなかった。


 ローザンヌが餞として用意したポンドール金貨は、復帰させた兌換金券とともにサラのゲラーテとされた。

 ローザンヌが兌換金券を戻した意味をマカーベオ夫妻は正しく理解し、理解したからこそサラには兌換金券の出処がどこかは教えず持たせたのだ。


 しかし、サラはこの二つをやすやすと換金し、夫となったウシー・ベルモンに請われるまま渡してしまった。


 望むものが当たり前に手に入る世界で生きてきた彼女にとって、請われたものを与えない選択肢は無く。

 また貸し与えたものが返ってこない世界があるとも知らなかったのである。


 1ポンドール=2万4千円くらい

 労働階級のひと月の給与4〜8ポンドール

 500ポンドール=1200万ほど


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