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3.

 

 □□■□□□□





「お祖父様、新しく商船を買われたとはどう言う事ですか!」


 声を荒らげ、室内へ入って来たのはクリストファー・スローン。ヒューリー・スローンの長男である。


「声を荒げる程のことでもあるまい」

「しかし、我がスローン家は既にペレストレーロ商船隊を所有しております」


 ズカズカと歩を進めれば、安楽椅子に身を任せた祖父の傍ら。しどけなく床に座り、肘掛けに乗せた腕に自身の白く細い指を重ね置く女性が目に入った。


 ほんの七ヶ月前、自分より若いこの娘が祖父の後添いとしてこの家に入ってきた。


 ローザンヌ・マカーベオ。


 モルジュ商会と繋がりがある以外は、価値を見いだせない娘。愛人として置くならまだしも、神の御前で誓いを立ててまで迎え入れるなど考えられなかった。


「新しい商船は、ローザンヌの為の商人団だ」

「何ですって?!」

「まぁ、わたくしの願いを叶えてくださいましたの」


 ニコニコと花が綻ぶように笑う。この笑顔が、クリストファーは苦手だった。


「ダフニ島へ向かわせ、乳香の取引をさせるつもりだ」

「ええ、ええ。それが宜しいかと思います」


 声を弾ませ、何度も頷く。

 目を輝かせるローザンヌであったが、その瞳の奥は別の狙いに暗晦とした光を宿していた。


 ローザンヌの狙いは、乳香などではない。


 ローザンヌ達が暮らすファイベルズ大陸の東側の海に浮かぶダフニ島の南部に自生しているラバンの木だ。マスティック・ガムに似た樹脂を出すこの木にローザンヌは目を付けた。


 この世界にオスマン帝国はないが、いつ似たような巨大勢力が生まれるか分からない。

 ならば、見つかる前に、出てくる前に、こちらが囲い込んでしまえばいいとローザンヌは考えた。

 先に一大プランテーションを作り、商いとして取引をする。武力行使による侵略を許さない為、要塞化も忘れてはいけない。すべてオスマンがやった事の踏襲だ。


 そのための足掛かりとして、乳香の取引から始め、あの島に拠点を構えたかった。


 その後、ラバンの木の生育地を中心に要塞化する。ローザンヌの二十年未来構想の一つ、ラバンベルト五カ年計画が、思いの外早くに着手出来そうでバーゼルの物分りの良さと商機を逃さない嗅覚に感服しきりだ。


「し、しかしですね」


 クリストファーは、バーゼルがローザンヌに買い与えたように思っているが、元はローザンヌの支度金として渡した資産から捻出されている。

 ローザンヌは、無駄金を一切使わず、すべてを最低限の予算に切り詰め支度金を持ち帰ってきたのだ。


 それを元手に資産を増やしたいとローザンヌはバーゼルへと願った。


 そのような事を言い出す女性とは今まで出会ったことがなかったバーゼルは刮目した。


 貴婦人たちの噂がすべてデタラメだったわけでは無い。

 バーゼルの元にやって来た経緯は様々であったが、幾人もの女性が結果として彼の寵愛を求めエグレット城にやってきたことは確かだ。


 しかし、若く見目麗しい令嬢を差し向けたところでバーゼルの無関心さは変わらず、礼は尽くすが本人は寄り付きもしない。

 彼は女性と戯れるより、麦の重さを計り、金貨の数を数える方が好きだった。


 お客様であるという事は、自由がないということだ。


 彼の寵愛を勝ち取り、浴びるような贅沢を夢見ていた者たちは、客人として饗しはされても思い描いていた様な贅沢な暮らしとは無縁の清貧たる生活に嫌気が差し、誰も彼も最後には彼の元を去っていった。

 中には、使用人と恋仲になり出ていった者もいる。


 どれもこれも褒められた理由での関係解消ではなかった為、スローン家側ではなく相手側の家が事情を公表せず処理し令嬢たちのその後を有耶無耶にしてしまった。


 金が、地位が、権力があるから群がる。


 バーゼルは自身の価値をよく理解し、そして財はすべて子孫たちに渡す物と決めていた。


 モルジュ商会とは、過去に数件良い取引をさせてもらった相手であり、今後の関係性を思えば無下に断ることも出来ず渋々引き受けたと言っていい話であった。


 いつもの様に適当にあしらっておけば、堪えきれず勝手に出ていくだろうと思ってもいた。


『これは形ばかりの婚姻であり、神の前では誓いを行うつもりはない。好きな時に、好きに出て行くがよい』


 そう、いつものように伝えようと成婚前にローザンヌと会ったバーゼルは、自身の考えを改めた。


 支度金の使い道、更に嫁資として兌換金券まで用意させたという。一七の娘の手腕としては中々のものだと感心した。


 故に、彼女が嫁いできてから半年、ローザンヌの働きぶりを観察した。年齢にそぐわぬほど人の扱いに長け、使用人に対しては些細なことでもよく褒め、会話を持てばよく笑い、当たり前の気遣いに感謝し、叱る時は一瞬で次には持ち越さない。


 聖女信仰を利用し、女主人は使用人達に対し聖女の如く気品と慈愛に満ちた行動をするものなのだが、ローザンヌは気品も慈愛もあるものの、どこか人なのだ。

 そこが愛くるしいと使用人たちは彼女に尽くす。


 それはバーゼルに対しても同じであった。


 恐ろしく頭が切れる発言をしたかと思えば、貴族として常識の範疇であろう事が抜け落ちていたりする。


 本人は、つい忘れてしまうと言っていたが身分に基づいた行動理念が抜け落ちるとはどういうことなのだろうか。それでは平民のようではないか。


 そのチグハグさがやがて愛らしいと感じるようになり、ローザンヌからの猛烈なアプローチに根負けする形で、バーゼルは彼女との愛を神に誓った。


 つい十日程前の話である。


 この婚姻は、スローン家では青天の霹靂となった。


『興味深いご令嬢を預かる事となった。いつもの様に適当にあしらうつもりであったが気が変わった』


 と半年前、祖父から短い手紙が届いた三日後には、クリストファーはシヨンの地を出立し、隣国であるリニックの王都へと急いだ。


 物見遊山で進めば、ひと月以上はかかる距離を二十日とかからず到着したクリストファーは林道山中の峠越を強行突破したと言える。


 慌てふためき祖父の元へ馳せ参じれば、老人の横には既に爽やかな涼感のある花を連想させる女性が侍っていた。


 彼女の立ち姿が優雅で美しいのもクリストファーの気に障った。


 飛び抜けて美しい面差しではない。しかし、所作が、瞳の動かし方が、選ぶ言葉が、どれも年齢にそぐわぬ精錬された美しさを伴っていたのだ。


 これは、いけない。


 そう、クリストファーの本能は警告した。


 この女は、駄目だ。


 この女は、祖父を喰い尽くす。


 なぜだかそう感じて喉が鳴った。


 それからは、クリストファーの孤独な戦いが始まった。

 祖父も考える所があるのか、ローザンヌに好きにさせてはいるがよくよく彼女の素行を観察しているようでもあった。


 何とか女狐の尻尾を掴み、この屋敷から追い出す。

 絶対にシャトー・ド・エグレットには連れ帰らせない。


 そう強く決意したクリストファーは、注意深くまたは執念深くこの半年ローザンヌを監視し続けた。

 にも関わらず、彼女は尻尾を掴ませるどころか如何に自分が祖父を愛しているかをクリストファーに識らしめた。


 それは、クリストファーにとって苦痛の連続であった。


 観劇が難しいとされる劇団の招待券が手に入ったから共に出向かないかとローザンヌがバーゼルを誘う。

 しかし、バーゼルは長く座り続けるのは辛い歳になったと断り、他の者を誘っていけばいいとローザンヌを突き放す。


 するとローザンヌは――――。


「まぁ、でしたらサンテラスでお茶を楽しみましょう。それでしたら風も当たりませんし、ゆっくり出来ますわ」


 そうあっさりと予定を変えてしまったのだ。


「わたくし、バーゼル様のお傍で過ごしたいだけですから劇など見なくても構いませんの。お許し頂けるなら、お仕事をされている傍らで読書や刺繍をして過ごすだけでも構いませんわ」


 そう言って深い皺の刻まれた手を両手で包み込み、熱い視線を祖父に向けて潤んだ瞳で訴えるのだ。


『どうか、わたくしの愛を受け入れてくださいまし』と。


 あの様な熱烈なアプローチを受けて、怯まない男が居ようものか。


 祖父に対し、嫉妬の様な感情が生まれた時、クリストファーは自身に失望した。


 なんと愚かな。


 冷静でいなければならない自分まで、あの毒婦の熱に侵されかけていた。


 しかし、いくらローザンヌを観察しても彼女は、理想的な女主人であった。金をかけるべきところと絞るところを心得ており、財は守るものというバーゼルの考えをよく理解していた。


 日に一度は屋敷の中を巡り、仕事を熟す使用人たちに声を掛けて回る。

 今までのご令嬢達とは違う行いに、最初は戸惑っていた使用人達もいつの間にか彼女の味方になっていた。


 時間が空けばバーゼルが見知った世界を自分も知りたいと本を読み、貴人としての嗜みを忘れてはいけないと刺繍を刺し、庭師の手入れを褒めるために散歩を、時に庭やテラスでお茶を飲む。


 彼女は、完璧であった。


 帳簿は子供の頃からつけているのだと、執事に教えを請いに出向き。バーゼルに、商材の見極め方を問うて覚える。


 父であるヒューリーからクリストファーが受けた手解きより、より濃密で濃厚な学びをローザンヌはバーゼルから施されていた。

 まるで新しい当主を育てる様な真似をする祖父に危機感を覚えたが、ローザンヌはクリストファーにも時間の共有を望み、バーゼルから手解きを受ける機会を設けた。


 ローザンヌは毒婦である。

 その考えに違いはない。しかし、彼女の持つ様々な側面を知ってしまうと果たしてこの考えは正解なのだろうかと不安に揺れ始める。


 そんなある日、バーゼルがローザンヌとの愛を神に誓約してしまったのだ。


 婚姻誓約書に書かれた夫から妻に贈られる贈与財産の記述も波紋を呼んだ。


 この婚姻日より数え、バーゼル・グリス・スローンが稼ぎ出した利益は、麦一粒たりと残さず愛する妻ローザンヌのものとする。


 個人資産の話だ。


 バーゼルは一族へと繋ぐ利益を最優先として考えてきた。故に、この決断に至った。

 スローン家が所有する財産とバーゼルの個人名義の資産を分け、更に婚姻日を起点としその後に繋げるとしたのだ。


 一見、バーゼルが死の門を潜ったあと、ローザンヌがスローン家の資産を食い物にしないためのように思えるが、逆である。

 ローザンヌ名義の資産に、スローン家は手を出すことが出来無い。それがバーゼルの采配で行われたものだとしても、彼女の名義であれば当たり前に彼女の物なのだ。

 そして、バーゼルが個人で稼ぎ出した利益もまた彼女のものとなる。


 シヨン領は豊かだ。バーゼルが尽力した事もあり、安定した発展を遂げている。これからも富みていくだろう。

 ただそのバーゼルの恩恵が、少しだけ早くシヨンの地から離れるだけの話だ。


 元からその時が来たらクリストファーの父であるヒューリーが継ぎ、時が過ぎればクリストファーが受け継ぐ。当たり前の流れ、それが少しばかり早くなっただけ。


 その失くした時間の分の利益が、ローザンヌのものとなるだけ。


 それだけの話である。


 二人が正式な夫婦となってひと月後、バーゼルはローザンヌを連れてエグレット城へと戻った。


 エグレットで過ごしたのは三ヶ月ばかりで、前哨地として拓かれ、荘園としていたアヤラの地の離宮が整え終わるとあっさりとそちらに居を移してしまった。


 エグレットに居て雑事が増える事をバーゼルが厭うた事と、アヤラの方がエグレットがあるギョーヴより雪が降らないと知ったローザンヌがバーゼルの身体を案じて願ったのだ。


 気がつけば、ローザンヌがバーゼルの元へやって来てから一年が過ぎようとしていた。


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