2.
□■□□□□□
少し、時間は巻き戻り――――。
突然の結婚話から八日が過ぎようとしていた。
あれから二度ほど、ローザンヌはシヨン卿と会する機会に恵まれた。
年齢のせいか、彼女の記憶の中の姿より幾分細身となっていたシヨン卿だったが、厳しい面差しは更に鋭さを増し、神経質そうにつり上がった眉毛と薄い唇が相俟って気難しさが前面に押し出された風貌となってはいた。
しかし、そのどれもがローザンヌには好ましいものと映った。
サラが何かとローザンヌを憐れむ言葉を掛けてくるが、彼女にとってはサラの視点こそが的外れで、何をそれほどに嘆くのかと聞き返したくなる内容ばかりだ。
白髪と銀灰色が交じり合った艶髪は、上品で重ねてきた年齢分の魅力が宿っているようにローザンヌの目には映ったし。少し嗄れた深く響く声は、長く第一線で勤め上げた証明のように思えた。
眉間に刻まれ消えなくなった皺も、多くを悩み、考え抜いた時間を表すものだと捉えれば、治世者としての勲章の様なものであり恐れる必要の無いものである。
『孫より若い哀れなローザンヌ』
何かにつけ、そう念を押すように繰り返すサラだがローザンヌにとっては、わざわざ若くて財産も築けていない、親が築いた財はこれから先目減りすることが分かっている者の所に嫁ぐより、頑強な地盤を築き、不況に揺らがず、彗眼を持って民を生かす老年の元へ身を寄せる方が価値がある。
「年相応と、言うことですわね」
サラを思ってホロリとこぼれ落ちた言葉は、誰の耳にも拾われることは無かった。
この部屋にいるのはローザンヌ一人であり、彼女は一人自室でお茶の時間を楽しんでいる。
急な輿入れ話であったが、王都で冬を越したあとはシヨン領へと居を移す。先が分かっているのに、大荷物を持ち込む愚か者はいないだろう。
嫁資として、ローザンヌはタルシス卿から兌換金券を譲り受けた。思っていた形と違ったが、マカーベオ家の資産を少しでも取り崩すことができたのは僥倖だとしておきたい。
粛々と部屋の片付けは進み、処分する物、新しく買い揃える物と仕分けしてしまえば、ゆっくりお茶を楽しむ時間も持てた。
薔薇とワイルドベリーのお茶は、ローザンヌのお気に入りである。瑞々しい香りに包まれながらローザンヌは、自分がローザンヌとなってからの五年間を思い浮かべた。
ローザンヌ・マカーベオとして目覚めたその日は、死人の記憶は知る事ができないと知った日でもある。
自分が暮らしていた国とは全く違う言語なのに、身体が、脳が、覚えているらしく正しく理解出来、紡ぐ事も可能で言葉に不自由しなくて済んだ。
所作やマナーも同様に、勝手に体が動いてくれて事なきを得たのも生前のローザンヌの努力が今のローザンヌの助けとなった。
対峙する相手の名前が分からず、困ることはあったがローザンヌの行動範囲は貴族の子女としては標準的で、暮らす屋敷から出ることはなかった。
この世界、この時代では、閉ざされた対人関係というのは当たり前の事のようだ。
十五歳で成人となって初めて化粧し、宝石を身に着け、十五歳の祝儀で家族から贈られた靴を履いて社交界へと足を踏み入れる。
それまでは、暮らす屋敷から外の世界に出ることが無いのが貴族の女性であった。
家庭教師は家へ招かれるし、屋敷の中に聖堂を設けるのは当たり前なので祈る為にどこかに出掛けることもない。聖職者に部屋を与えている貴族もいれば、必要な時に招喚して儀式を済ます貴族もいる。
共に屋敷に暮らす以上、その時名前を知らなくとも日々の生活で覚えていけば何とかなってしまった。
五年――――。
ローザンヌが遺した日記を繰り返し、繰り返し、読み返し、読み解いた。
彼女の寂しさ。無念さ。妬みを抱けば、神の御許へいけないと自分を律しようとした高潔さ。
十二歳の子供が胸のうちに秘めるには、余りにもすぎた感情だった。
本を読むのが好きだったローザンヌ。
雨音に耳を澄ますのが好きだったローザンヌ。
アコニツム・ブルパリアの花を食し、自らの生に終止符を打ったローザンヌ。
継母となったシャイリー・モルジュは、商人の出という事を感じさせないおっとりとした女性だった。どこかフワフワとしていて、それでもモルジュの血は引いているので苛烈な一面も垣間見える不思議な魅力のある人だった。
彼女は、女主人としてよく務めていたが、ローザンヌの事は娘としてではなくタルシス伯の娘として扱った。敬う事はあれど下にはしない。
あくまで他人の娘だった。
彼女の事を母と慕いたかったローザンヌには、その心の距離が完全なる拒絶として映ったのだろう。
そして何より、サラの存在がローザンヌを追い詰めた。
「早すぎる死でしたわ」
タラレバを語ってもきりがない。
ローザンヌは、一度瞼を伏せ気持ちを切り替える為に最近参加した午餐会での貴婦人達の会話を記憶の中から引っ張り出す。
かしましいさえずりの中で、シヨン卿に対する話題も出ていた。
最初の連れ合いを亡くされてから三十有余年。その間に娶った後添いは七人。すべてうら若き乙女であったと伝え聞く。それだけなら、若い娘が好きな随分と好色な男だと噂が立って終いだが、全員がいつの間にか姿を消したとなれば話が別である。
『シヨン卿の居所は、頑強なる要塞城でございましょう?』
『なんと野蛮な』
『シャトー・ド・エグレットには、何者も立ち入りを禁じられた塔があるとか』
『怖ろしい話ですわ』
『スローン家の者はみな、目が大きく頬がコケて、まるで骸骨のような風貌ですのよ』
『新しい花嫁となられる方は、どのような罪の贖いで嫁がされるのかしら』
『まぁ、そのような言われ方はお可哀想ですわ』
『本当に、お可哀想』
『お可哀想』
『お可哀想』
憐れみを口にしながら目は笑っている醜悪さは、サラ以上だとご婦人方の会話に耳を傾けながら思った。
随分と好色な男だと貶され、花嫁を蝋人形にでもしていそうな言われようだったが、ローザンヌが夜会に参加しダンスの合間に耳にしたシヨン卿評とは随分と異なる。
ひたすら領地を豊かにと尽力し続けた男というのが、男性たちから見たバーゼル・グリス・スローン・ドゥ・シヨンだ。
随分と評価が割れるのも、仕事が出来る人間は性格破綻者という私が以前生きていた世界と似ているのかしらね。
聞き役に徹していたローザンヌは、微笑みを浮かべ貴婦人達の囀りに頷きながらそう思ったことを記憶している。
当時はこの縁談を聞かされる前で、その噂話の相手が自分であるとは思わなかった。
なぜシヨン卿が、わたくしを望まれたのか。
高慢で傲慢な姉の影に隠れて生きてきたわたくしを望むという事は、嫋やかで物静かな女性がお好みという事かしら。
いいえ、違うわね。
『精々、この家の役に立ってご覧なさい』
二度目の逢瀬の後、シヨン卿を見送りに出たローザンヌがエントランスホールに戻った際、待ち構えていたサラに言われた言葉だ。
一つの区切りが付き、少しばかり清々しい気持ちになっていた所を無粋な一言で台無しにされ、ローザンヌは侮蔑の色を滲ませた瞳でサラを流し見た。
睫毛が落とす影の向こうに何かを感じたらしいサラは、怒りの表情を隠そうともせずローザンヌに背を向け去っていった。
サラは、何に焦っているのか。
考えられる事は、やはり自身の婚姻だろう。
ローザンヌが結婚しない限り、自分たちの婚姻はない。
『新しい花嫁となられる方は、どのような罪の贖いで嫁がされるのかしら』
贖うなら、サラがわたくしにでしょう?
フワリと静かに怒りが湧き出す。
「モルジュ家の縁で、婚姻をねじ込んだという所かしら」
カップを皿に戻す時、普段のローザンヌでは有り得ない茶器がぶつかる音が響いた。
「そう、面白そうね」
十二の娘の体に、三十半ばのワーカホリックの魂が押し込まれた。
この段階で、ローザンヌの中の人にとっては苦痛であり、悲劇でしかない。
ままならない自由。
ままならない学習。
何かをしていないと気が狂うとまで思った彼女は、とにかく生き抜くための武装として学びを第一と基づけた。
どうせ人生のやり直しをさせられるなら、目指せ不労所得である。
前回の人生で、失敗した。やっておけば良かったと後悔したアレコレをこの人生で回収する。
そう決めたローザンヌは、人が変わったように……いや、実際中の人は変わっているのだが。
シャイリー・モルジュが手配してくれたあらゆる習い事に取り組んだ。
周辺国の言葉は、日常会話なら問題なく話せるようになり、上流貴族としての教養にも磨きをかけ、庭に散策に出るとして馬を駆り、自分に与えられた金子での買い物は計画的にと内密に帳簿を付けた。
元の年齢が年齢なのだ。
管理職として、五年、三年、一年、半期、四半期、月次とご利用は計画的にを叩き込まれている。
それが、いけなかった。
出る杭は打たれる。
タルシス卿の意識がサラよりローザンヌに向き、彼女より先に婚約者を誂えた事でサラの中でローザンヌは、取るに足らない存在から完膚なきまでに叩き潰す敵となった。
それが婚約者掠奪に繫がるのだが、その行為はサラ自身の首も締めてしまった。
「そうそう。年寄りとの結婚は絶望なんて何方がお決めになられたの?」
誰もいない部屋だからこそ一人、芝居地味た台詞を吐き、唇に指を当てた気怠げな仕草で頬杖をつく。
「わたくし、枯れ専ですのよ」
フフ。
仄暗い笑みを浮かべたローザンヌは、サラが結んでくれた良縁に感謝したのである。