祖父の妖精
机の上に鳥籠が一つある。
随分と古いもので、鉛製、大きさは小柄な鸚鵡が一羽入るくらい、格子の外側に草花を模した飾りがついている。見かけは繊細であるが、鉛でできているだけあって、持ち上げればかなり重い。
祖父は昔、この鳥籠の中で、小柄な妖精を一匹飼っていたそうだ。
誰もいない部屋で一人、今はもう何もいない空っぽの鳥籠を眺めて、祖父の昔語りを思い起こす夕べ、僕はそっと想像してみる。仄暗い部屋の中、鈍色の格子の向こう側で月のように淡く光る、小さな妖精の透き通る羽を。
すると、本当にそれがそこにいるような気がしてくる。これが肝心だ。
祖父の妖精は、旅好きな研究者であった祖父の父——つまり僕の曽祖父にあたる——が、祖父への土産物にと、旅先から持ち帰ったものだった。遠い異国で見知らぬ男に誑かされ、文字通りの鉛の牢獄に閉じ込められて拐かされた彼女のことを思うと、それなりに気の毒だと思わないでもないが、妖精というものは生来絶望することがないらしい。祖父のところに連れてこられた妖精も、祖父との会話や檻の中の生活をそれなりに楽しんでいる様子だったというから、たいしたものである。
この家に生まれた者は、この屋敷のある地区の奇妙な法則のおかげで、十五の誕生日を迎えるまでは決して屋敷の外に出ることができない。詳しい理由はうんざりするような話なので割愛するが、妖精を手に入れた当時十三だった祖父も例外ではなかった。今の僕と同じように、一日中屋敷に閉じ込められて過ごし、学校にも通っていなかったそうだ。勉強は、毎週どこからともなくやってくる家庭教師から、不思議な数学や物理、遠い響きのする異国の言葉など、許可された科目のみを学ぶ。その他の時間は、読書をしたり、音楽を聴いたり、屋敷の中でできる色々なことをして、一人静かに過ごすのだ。
当時の祖父は孤独で、退屈していた。そんな時に渡された妖精入りの鳥籠は、さぞかし魅力的な贈り物だったことだろう。
祖父と同じくらい孤独で、退屈している僕は、もっとずっと小さな子供の頃から、祖父の話を聞くたびに、それが欲しくて仕方がなかった。しかし、彼女はもう消えてしまったのだ。大人になって、「外」の世界、屋敷の外だけではなく、地区の「外」をも知ってしまった祖父が、彼女の存在にほんの少しの疑念を抱いた時、それは徐々に質量を失い、光の粒子になって、完全に消え失せてしまったという。それ以来この鳥籠は、空のままになっていた。
ひょっとすると、彼女はまだそこにいるのかもしれないね、僕の目には見えないだけで、と言って、祖父は寂しげに微笑った。僕にこの鳥籠を譲り渡した時のことだ。祖父はもう、妖精の存在を信じられない。少しでも疑いを挟んでしまっては、もう駄目なのだろう。
「思念の力は偉大である」
それは、かつて曽祖父の口癖であり、今では祖父に受け継がれている。父は、これを受け継がなかった。父は何も継いでいない。父は、僕をここに残したまま、「外」の世界に取り込まれてしまった。僕は母の顔を知らない。僕は、曽祖父の血を濃く受け継いでいるそうだ。父よりも、祖父よりも。だからきっと、僕もこの口癖を受け継ぐことになるのだろう。曽祖父は、この一風変わった地区への道を開き、朽ちかけていたこの屋敷を一族の住まいに定めた偉大な人物である。彼は思念の力の偉大さを知っていた。彼ほどそれに通じていた人物はないかもしれない。そして強く願うことによって、ついにこの地区に辿り着いたのである。
「思念の力は偉大である。
それをもってすれば、何事も不可能であるということはない。
神は何を思ってか、世界をそのように創造された。
神が与え給うた思念の力に不可能はない」
僕は、身内の言葉と聖書の言葉は基本的に信じることにしている。
「人は一つの世界にしか生きられない。
ないものは作り出せない。
しかしそれは、一つの強烈な思い込みに過ぎないのである。皆が強烈に信じ込むために、それは一つの現実となってしまった。それだけのことに過ぎない」
宇宙は有限であるという。既に決められている部分と、まだ決められていない部分。世界には、どちらの方が多く存在するのであろうか。その日に読んだ本の影響で、ままならない世界というものに思いをめぐらせていた晩、僕は不意に気が付いた。僕が曽祖父の血を最も強く受け継いでいるのならば、僕にだって彼と同じように、今ある現実を歪ませて、新たな現実を開くことができるのかもしれないではないか。さらに言えば、祖父がこの鳥籠を僕に託したのは、僕に彼女を蘇らせて欲しかったからかもしれない。不幸にして幸いにも、僕はまだ「外」の世界を直接には知らないのであるから。
僕は祖父が貰ったという妖精を蘇らせようと決心した。それと同時に、僕にならそれができるだろうという確信も生まれた。そうして、そうしようと決めた日から毎晩、僕はこの鳥籠を眺めて、そこに妖精の姿を思い描き、実体化させようと躍起になっているわけである。
祖父の妖精の姿形の詳細は、物置に仕舞い込まれていた何十枚ものスケッチから窺い知ることができた。そこに描かれた妖精は、多く見積もっても十代の前半くらいに見える細身の少女で、いかにも異国の生まれらしく目鼻立ちがはっきりしていて、好奇心と退屈と邪悪と無邪気とを複雑に織り合わせたような、不思議な表情をしていることが多い。背中から生えている羽は、その形からすると揚羽蝶のものに似ているようだ。(それでも蝶とは全く別の進化を辿った生き物だという。僕にはそれが不思議でならない。)絹とも溶けた硝子ともつかぬ何か薄い生地でできた衣装の質感や、細い柔らかい巻き毛の一本一本まで懇切丁寧に描きこまれた見事な絵だが、どれも白黒の素描なので、色味を知ることができないのが残念だった。なぜ色の付いた絵を描かなかったのかと尋ねたところ、羽は薄い桃色の諧調、髪は眩い純銀で、瞳は煙るグレイだったそうだが、全体に光を帯びたそれらの色調があまりに素晴らしく、それ自体真実味を欠くほどであったために、紙上に再現するのをやむなく断念したということだった。しかし僕はそれを、なるたけ完璧に想像してのけねばならない。正確にその通りでなくとも構わないが、僕は「創造」にかけては初心者であるから、それがそこにいると完璧に信じ込むためには、対象のイメージにある程度の具体性を持たせる必要があるだろう。
毎晩、陽が落ちてから夜が更けるまでの長い時間の殆どを、僕は鳥籠のそばで過ごした。窓に西日が射さなくなってからも、灯す明かりは最小限に絞る。明るい月夜なら、窓から射し込む月明かりだけが頼りだ。そうした方が、物事は上手く運びそうな気がした。今夜も満月で、窓の外は清に明るい。洋燈に火を灯すのは止すことにする。根拠などいっそなくとも構わず、むしろない方がよいくらいであるが、今日の僕には自信があった。試みが成功するものなら、それは今夜に違いないという確信である。最高の好条件だった。
いつものように、僕はぼんやりと鳥籠を眺める。この中には妖精がいる。祖父が言っていた通り、彼女は今もここにいるのだ。今は知覚されない存在になってしまったが、僕が信じさえすれば、また見えるようになるはずだ。彼女を見ることができるようになったら、その声を聞くことができるようになったら。どんな話をしようか。彼女はどんな話をしてくれるだろうか。ずっと存在しないことにされていた時間は、寂しかっただろうか、それとも、つかの間の自由だっただろうか。籠の中の彼女なら、自由について、不条理について、きっと興味深い意見を持っているに違いない。それをぜひとも聞いてみたい。彼女は歌が上手かったそうだが、僕にもその異国の歌を聴かせてくれるだろうか。
そんなことをつらつらと考え続けているうちに、僕はついに、鳥籠の中に光の粒子を見た。
小さな淡い光の粒が、きらきらと明滅しながら、籠の中に漂っている。初めは二、三粒だったそれは、徐々に数が増えるに従い、散らばっていた粒が、鳥籠の中央のあたりに集まり、靄のように煙るようになった。
僕はそれを固唾をのんで見守る。月が隠れ、窓からの明かりはなくなり、それでも、粒子は消えない。靄は濃くなり、形に変わる。輪郭が生まれる。線がある、そしてそこにものがある。見続けるうちに、もはやそれは光の粒子などではない。
僕は妖精を見た。
彼女の方もこちらを見ている。彼女はやはりここにいたのだ。僕は祖父が色の付いた絵を描かなかった理由を理解した。素描にさえ描けなくて当然だと思う。僕にはできない。できそうにない。僕は祖父の画才をも理解した。彼女は美しい。なんて美しいのだろう。僕の想像よりもずっと美しかった。僕は本当の意味で新しいものを創造したのだった。今、それができることを僕は実証した。だが次の瞬間、僕は痛恨の過ちを犯した。
瞬きをしてしまったのだ。
それは字義通りに一瞬のことだった。自分が本当に目を閉じたのかどうかさえ、分からないくらいだった。しかし、彼女は既にそこにいなかった。その時初めて、僕は自分が目を閉じてしまったことを悟ったのだった。彼女はもうそこにいなかった。僕は自分の知らないものを創造したが、それを留めておく術を知らなかった。今あったものが、もうそこにないという暴力。暴力はいつも迂闊である。僕はそれを取り逃がしてしまった。まだこの世界にしっかり定着していなかったのだろうか。目を閉じたことに気付かなかったように、自分でも分からないくらい微細な疑いを挟んでしまったのだろうか。どういう訳かは分からないが、彼女はまた消えてしまったのだ。
一瞬とは言え僕は確かに、思念の力によって、妖精を見ることに成功した。しかし、今回の失敗を前進と見なしうるためには、いささかの時間が必要だった。妖精を完全に蘇らせるためには、あとどのくらいの時間が必要だろうか。
道程は長い。瞬き一つで消えてしまった儚い幻を思い、僕は深い溜息をついた。