橘寺
橘寺の様々なお堂を見ていた光は、突然、境内のとある方向に動き出した。
その動きの意図が読めない他の人が、ぞろぞろと全員ついていくと、歌を詠んだ石碑が立っている。
「橘の 寺の長屋に わが率宿し 童女放髪なりは 髪あげつらむか」
その光に、最初に反応したのは由紀だった。
「ねえ、光君、もしかして万葉集?」
「橘寺の長屋で、私が一緒に寝たあのおかっぱ頭の幼女は、もう成人して髪をあげたことだろうか・・・こんな意味?」
光は、うれしそうな顔。
「その通り、さすが由紀さん」
由紀も、そう言われるとうれしい。
「そうだよね、明日香村って、万葉集の地だもの」
光は、うれしそうな顔のまま、石碑を見る。
「小さな頃、父さんと母さんと来たの、ここに」
「だから来たかった」
由香里も石碑をじっと見る。
「その時の幸せな思い出が、ここに光君を呼び寄せたのかな」
「いいなあ、そういうの」
石碑を見ていた光が話題を変えた。
「お菓子の神様という田道間守もここに立ち寄ったらしい」
「垂仁天皇の時代に、勅命を受けた田道間守が十年の長い間苦労して不老長寿の秘薬を探し求めた」
「その田道間守がようやく秘薬を持ち帰ったところ、垂仁天皇はすでにお隠れになっておられた」
「この時に、田道間守が持ち帰った実を、この地にまいたらやがて芽を出したのが橘だった、だからこの地を橘と呼ぶようになったとか」
「また田道間守は黒砂糖も持ち帰って、橘と共に薬として使った」
「その後は、蜜柑、薬、菓子の祖神となった」
珍しく、しっかりとした光の説明が続く。
奈良出身でない人たちは、素直に感心して聞いているけれど、奈良出身者は驚きを隠せない。
春奈
「あかん、そこまで知らん、忘れた」
ソフィー
「女性にはアホだけど、勉強は優秀だ」
ルシェール
「まさか・・・光君が、そんなことを知っているなんて」
華奈
「へー・・・そうだったんだ」
楓は、知らない理由を述べる。
「私は奈良でも都会の奈良町、明日香村は田舎だし」
その楓に、光が声をかけた。
「楓ちゃん、マジに知らないの?」
楓が、「うん」と頷くと、光は首を傾げる。
「特に橘寺で話した内容は、全て圭子叔母さんから、教わったの」
「楓ちゃんにも、教えてあるって言っていたよ」
楓の表情が一変した。
「光君、それ、母さんに言わないで」
「ねえ、お願い」
春奈が、楓の表情の裏を読む。
「つまり、奈良に住んでいながら、何も説明できない、していないって怒られたくない」
「まあ、母親としては仕方がないかなあ」
ただ、その意味においては、春奈も五十歩百歩は自覚している。
そのため、甘樫丘では、自分が説明しようと考えている。




