(2)
人の波が徐々に帆翔場に吸い込まれ、いよいよ遊一の番が近付いてきた。最近はまだまだ小規模ながらも、近隣島を目的地とした女性専用帆翔場が出来たので人の流れはスムーズだ。
翼を生み出す人の数も増え、それぞれの翼の大きさにより誘導員が人の波をより分けている。ちょうど、スキーやスノボーのリフトに並ぶように、乱雑だった人の波が徐々に整頓されていく中、遊一は軽く首を回した。
「よし、そろそろ準備するか」
首の骨を景気よく鳴らし、遊一が意識を背中に傾ける。遊一の肩甲骨の辺りが大きく盛り上がり、その先端部分が学生服の背中のスリットからひょっこりと顔を出す。
まるで外気に触れることを喜ぶように、遊一の翼は大きくその羽を押し広げた。
翼を広げる。この世界において、日常の一つとなった何気ない光景。
しかし、遊一が翼を広げたその瞬間、その背中に好奇の視線が殺到した。そして、その視線に込められているのは好奇の色だけではなかった。好奇心に混じり、嘲りや同情の視線が遊一の翼に突き刺さる。
その視線に、右腕に掴まっていたバンジーが硬い嘴を攻撃的に開いた。
「おう、なんだなんだ! 見せもんじゃないぞ、こらぁ!」
「黙ってろ、ナゲット。いつものことだろ」
早口で捲し立てるナゲットの頭をムギュッと掴み、遊一が無理矢理その嘴を閉じさせる。ナゲットは視線で遊一に猛抗議したが、遊一は軽く肩を竦めてみせた。その口元には苦笑にも似た微笑。どちらかというと、周囲の視線を楽しんでいる風ですらある。
遊一の背中から生える僅かに灰色がかった黒色の翼は、周囲の翼とは明らかに趣が違っていた。まず、見るからに両翼のサイズが小さすぎる。周囲の翼がだいたい人の腕の二倍から三倍の翼幅を持つのに対し、遊一の翼は遊一の腕と同じほどしかない。その上、翼には羽毛がなく、見るからに硬い。とてもではないが、遊一の翼は風を捉え、空を飛べるような代物ではなかった。
遊一の翼は、ペンギンの翼――生物学ではフリッパーと呼ばれるものだった。
飛べない鳥の飛べない翼。飛翔どころか身体を数センチ浮かすことすら出来ないであろうその翼に、周囲の視線が集中する。
しかし、当の遊一は鼻歌混じりにその視線を受け止めると、怪訝そうにこちらを見守る誘導員の脇をすり抜けて、帆翔場の列に身体を滑り込ませた。
帆翔場、本来鳥が上空へ飛翔するために利用する上昇気流を人工的に生みだした離陸場。円筒状に伸びる塔の足下には何十本という送風機が設置されており、螺旋状に塔を駆け上る強力なジェット気流巻き起こっている。帆翔場の離陸地点に降り立った人々が次々とその翼で風を受け止め、塔の上層へと飛び立っていた。人々が生み出す鳥柱が、優雅に、力強く、高く高く舞い上がっていく。
そして、いよいよ遊一の番が近付いてきた。
遊一がぴょこぴょこと翼を上下させ、今日の調子を確かめる。寝坊するほど無駄に力を入れたトレーニングの影響はなし。今日も今日とて絶好調だ。
「おいおい。まさか、そのままで飛ぶ気じゃないだろうな?」
「バンジーたちのこと、まさか忘れてるわけないよね~」
「いやいや、忘れてねえって。今日も頼むぜ。ナゲット、バンジー!」
信頼を浮かべた笑顔を湛えて、遊一が両腕の相棒たちに声をかける。その声に、ナゲットはどこか偉そうに、バンジーは少し照れくさそうに笑い返すと、それぞれの身体を夜空を思わせる群青色の粒子へと変化させた。人々の驚きの視線を無視し、群青色の粒子が遊一の翼へと移動する。それらは音もなく遊一の翼を包み込み、その形状をさらに変化させた。遊一の硬い翼を外殻とし、航空力学に則った形状に作り替える。粒子は翼の幅をさらに広げる骨子となり、風を受け止める羽根となり、遊一のフリッパーを翼と呼べるものに作り替えた。
神経系と連結した義翼の調子を確かめるように、遊一が黒と灰色の翼を力強く羽ばたかせる。左右に広がった両翼は、飛び立つことが待ちきれないように一陣の旋風を巻き起こした。
口を開いたまま固まっている周囲の人々をそのままに、遊一は一人、離陸スペースへと飛び降りる。ジェット気流が噴き上がる金網のど真ん中に着地した遊一は、晴れ晴れとした表情でグッと顎を持ち上げた。
細く高く長く伸びた塔のてっぺんに見える、小さな小さな蒼い空。
ニヤリと、遊一はその口角を吊り上げる。
「行くぞ。ナゲット、バンジー!」
「応よ! 飛べ、遊一っ!」
「任っせて~」
上昇気流の轟音の中でもしっかりと耳に届く頼もしい返事に、遊一が楽しげに拳を握る。
そして――
遊一は風に掻き乱される髪もそのままに、あらん限りの力でその義翼を羽ばたかせた。
地面を叩き付ける勢いで両翼を真下に振り下ろし、ジェット気流を受け止める。両翼に風圧が加わるタイミングを逃さず金網を蹴りつけ、その身体を一気に跳ね上げる。
頬に心地よい風を感じながら、遊一は塔の中で螺旋を描く鳥柱の一端へと加わった。
耳を擽る風切り音。制服の裾が風に翻弄され、十重二十重の翼の列が遊一の視界を埋め尽くす。鳶に鷹。雀に燕。鶴に啄木鳥、ホトトギス。様々な大きさの翼が、十人十色の羽根が、塔のガラス窓から差し込む朝日に照らされて色鮮やかな一条のベールとなる。
その色彩の一端に加わりながら、遊一は何度も何度もその翼を羽ばたかせた。義翼が一定の幅で設置された送風機の風を受け止め、遊一の身体をさらに上へ上へと押し上げる。
遊一の上昇は留まるところを知らなかった。鳥柱を作っていた人々は、塔の各階層に設けられた高度約60メートルから70メートル。高くても100メートルほどの飛び場から飛び立っていたが、遊一はそれらの飛び場には目もくれず、一人塔の遙か上空へと上昇し続けた。
高度200メートル――300――500――700――1050――
周囲に人影がなくなっても、遊一は一人上昇し続ける。
1200――1470――1800――2340――2760――
「よっと、ようやく着いたな」
軽い調子で着地し、遊一は塔の頂上に到着してようやくその上昇を終えた。
雲を遙か下に置き去りにした標高は実に3000メートル。
そこには遊一が一番好きな景色が広がっていた。
「やっぱりいいよな。ここからの眺めは」
遊一が楽しげに呟く。並ぶ建物のない視界は、360度全てが海と空の蒼色に埋め尽くされていた。気温は低く空気も薄いが、この景色に比べれば些細な問題だ。
しかし、遊一はのんびりとこの景色を観賞している暇はなかった。
遊一の登校の本番は、ここから始まるのだ。
気を引き締めるように、遊一が開いた両手で自分の頬をバチンっと叩く。
「っしゃ! 今日も、飛ぶぞ!」
気合いを入れ、遊一が首からかけていたゴーグルを引き上げる。足下に彫られている記号に目を落とし、飛ぶべき方向を見定める。遊一は飛行中に方向を変えるという器用なことは出来ないので、目的地への方角を念入りに確認する。
何度も何度もの方角を確かめた遊一は、ゴーグルの奥でスッと双眸を細めた。
遙か海の先。目指すべき人工島の影をその眼に捉え、静かに息を整える。
そして――
遊一は義翼を広げて助走路を走り出すと、その身体を一気に空へと投げ出した。
身体を包み込む一瞬の浮遊感。それは瞬く間に落下の勢いへと変換される。重力の腕が遊一に掴みかかり、その身体を地表へと引き寄せる。
空を飛べないペンギンの翼。遊一の行動は、端から見ればただの自殺行為だ。
しかし、遊一の背で大きく広げられた義翼は、ただ落下することを良しとしなかった。左右の翼が風を受け止め、落下時に掛かる風圧もろともに巻き込み、遊一の身体を前へ前へと押し出す推進力へと転換する。減速する落下の速度と反比例するように、遊一の身体が刻一刻と加速する。
頬を着る風がさらにその冷たさを強める中、遊一はその口元をこれでもかと吊り上げた。
「さぁ、まだまだ行くぞ! ナゲット、バンジー!」
零した声は瞬く間に風に浚われ、後方へと流れる。しかし、その声は間違いなく両翼へと姿を変えたペンギンたちに届いた。
「おおよっ!」
「うんっ!」
翼から響く声を受け、遊一が大きくその両翼を羽ばたかせる。ペンギンの翼は他の鳥の翼と異なり、羽ばたくことで揚力を生み出すことはできない。むしろ、羽ばたけば羽ばたくほどに下方向へ自らの身体を押し下げてしまう。ペンギン翼では自ら身体を浮かせる飛翔ができない。それは、ナゲットとバンジーの義翼をもってしても未だ不可能な難題だった。
だから、遊一は翼を広げるだけに留めた。生み出せない揚力は、すでにターミナルの最上階から飛び立つことで稼いである。そして、飛翔は出来なくとも空を滑空することはできる。
身近な鳥類であるカラスやスズメ時速50キロ~60キロで飛行する。速いとされる燕でも時速約70キロ。オオワシなら時速約80キロ。最速と鳥とされるハヤブサで時速約300キロ。
対して、如何に翼を得たといっても鳥類より体重の重い人類は、その飛行速度ははるかに鳥に劣る。一般人が普通に飛翔する際のアベレージは時速約30キロ。最も飛行能力が向上したとされる第五世代で訓練を受けているものでも、最高時速は100キロに届かない。
その理由は単純だ。飛行速度が増せば増すほど空気の圧力で呼吸は困難になり、温度の低い高高度からの飛行となれば体感温度は優に氷点下を下回る。
結局のところ、近場の島に飛ぶならともかく、長距離を飛ぶなら海上ラインを走る自動車や電車に乗った方が圧倒的に効率的なのだ。
だが、天空から遥か彼方の学校へ向けて滑空する遊一の飛行は、そういった一般常識の埒外にいた。
義翼で風を切る遊一の速度が、見る見る間に加速する。
時速30キロ――55キロ――80キロ――
一般人のアベレージを軽く追い越し、自動車の速度をあっという間に上回り、それでも遊一の加速は止まらない。
115キロ――140キロ――180キロ――
200キロを超えた辺りで、遊一は大きく息を吸い込んだ。両方の肺の限界まで空気を吸い込み、そして呼吸を止める。
海を潜るために進化したペンギンの遺伝子が覚醒し、訓練を重ねた遊一の息止め時間の最高記録は18分25秒。学校までは残り10分弱。息継ぎなどしなくても余裕の距離だ。
――215キロ――245キロ――
顔を叩く風が氷点下の冷気を纏い、遊一の身体に霜を下す。
しかし、その極寒の中でも遊一の口元には笑みが張り付いていた。マイナス50度の北極を生き抜くペンギンの遺伝子が覚醒した遊一にとって、氷点下10数度ぐらいの風など全く問題ではなかった。
そしてついに、滑空の加速と空気圧の均衡が訪れる。
その速度、実に時速300キロ!
自力飛翔ではなく、また義翼による滑空のため非公式ではあるが、その速度は人類最速だった。
いま世界で最も速い鳥人。
その背中に広がる翼は、決して空を飛ぶことのできないペンギンの翼だった。




