プロローグ
北緯34度41分7秒。東経140度37分40秒。
東京から約150キロ。千葉県の房総半島から約70キロほど離れた太平洋の海上に人工島、第38コロニー《四季風》は浮かんでいた。住居地建設を目的に作られため背の高いビル群は存在せず、東京都の足立区ほどの面積を誇る島内は小さな丘や公園など景観に富み、その上商業施設などの充実から入島の希望は他のコロニーの中でもトップクラス。近接コロニーへの便も充実していて、沿岸から伸びる13本もの海上ラインには今日も会社や学校へ向かう人々を乗せた車や電車が次々と島の外へと走り去っていく。
そんな忙しい朝の通学時間。
第38コロニー《四季風》からさらに南に約100キロ先に浮かぶ人工島、第27コロニー《学峰》の専門高等学校に籍を置く樫木遊一は、全力で第三ターミナルへ続く真っ直ぐな道を走り抜けていた。
「やっべぇー! 寝過ごしたーっ!」
春の柔らかな空気を頬で切りながら、足早に進む人々の背中を次々に追い抜く。ちらりと腕時計に視線を落とせば、秒針が律儀に一秒一秒正確な時を刻んでいた。刻々と迫る遅刻へのタイムリミットに、遊一の顔が青ざめる。
一方あきらめの悪い遊一の周りでは、遊一と同じ制服を着た生徒数名ががっくりと肩を落としながら歩いていた。
彼らの顔を流し見ながら、遊一は呆れたように呟く。
「たく、最後まで諦めるなよ。立派な翼を持ってんだからよ」
「おいおい、遊一。他人に構ってる暇なんてないぞ」
遊一の呟きに、右手から挑発的な色を滲ませた少年の声が返ってくる。しかし、不思議なことに全力で走る遊一の隣には声をかける人影はなかった。
「だから、トレーニングはほどほどにしようって言ったのにね~」
続いて左手から声が響く。先の生意気な声色とは対照的に、こちらは明るく朗らかな少女の声だった。
ただ、やはりこちらも同じく併走する者はいない。
しかし、姿なき声の主たちはそのまま楽しそうに会話を継続し始めた。
「遊一は本当に子供だよね~」
「最後は動き疲れて寝るなんて、まるで保育園児だな」
「幼稚園児は可哀相だよ~。幼稚園児の方がもっと行儀良いもん」
「どっちにしろ、ガキはガキだろ」
「うん。それは同意」
「ああもう、うっせぇっ! 黙ってろっ、お前ら!」
突然怒鳴り声を上げた遊一に、周囲の学生や会社員がギョッとする。しかし、彼らは次の瞬間、揃って不思議そうに小首を傾げた。
遊一が怒鳴りつけているのは、自分自身の両腕だった。
いや、正確には両腕でなく、その両腕にしがみつく小さなペンギンのぬいぐるみに怒鳴りつけていた。遊一の腕にしがみつく二匹のペンギン。パッと見た目は愛くるしいぬいぐるみにしか見えないペンギンたちへ向けて本気で話しかけている遊一に、人々の視線が可哀そうな者を見るようにやさしくなる。
そんな周囲の視線にげんなりしながらも、遊一は口から零れる言葉を止めることが出来なかった。
「だいたい、お前達も夜更かししてただろ! バンジーはネットショッピング、ナゲットは深夜アニメを見てただろ! 知ってんだぞ!」
「深夜ネットショッピングはレディーの嗜みだからセーフ!」
「深夜アニメのリアタイ視聴は全男子の義務だ!」
「「これだから人間てやつはぁ~」」
「黙れAIペンギン! てか、いい加減その格好ヤメろ! 走りにくいし恥ずかしい!」
ため息を漏らしながらそろって首を振る二匹のペンギンたちに、遊一は泣き出しそうな声を張り上げる。友人が作ったオーバーテクノロジー満載のAIペンギンたちは、今日も変わらず遊一の心を削り取っていた。顔を赤らめながら腕のペンギンを怒鳴りつつひた走る遊一に、周囲の視線がさらに生暖かくなる。
自分に向けられた視線を振りほどくように、遊一が更に強くアスファルトを蹴りつけること数分。AIペンギンたちの妨害にもめげずに走り続けた遊一は、なんとか寝坊の遅れを取り戻し、巨大な塔の前にたどり着いた。第38コロニーの三か所から天に伸びる塔の中では一際巨大な棟の側面にはでかでかと第三ターミナルと書かれ、その先端は見上げても確認できないほど高い。
その超高層建築の入り口には、様々な注意書きや標語を描いたポスターが所狭しと貼られていた。
《今日も笑顔で安全飛行》
《巨翼型の皆さんは一組2列で並びましょう》
《帆翔中の盗撮、ダメ、絶対!》
見慣れたポスターや各所に置かれた落下防止紐やスカート止めを横目に眺めつつ、ターミナルの奥へと続く列に並ぶ。ズラリと並んだ人の列に辟易としながら、雄一は壁に等間隔に設置されたモニターへと目を向けた。今日の天気に風向きや風力など、必要な情報を頭の中に叩き込む。
「遊一見てみろよ。もうすぐ噴火する海底火山があるらしいぞ。お前なら近くで見れるだろ。行こうぜ行こうぜ!」
「シッ。黙ってろ、ナゲット。唐揚げにするぞ」
眼をキラキラさせながらモニターを指差す、黄色い飾り羽を持つ岩跳びペンギン風の右手のAIペンギン、個体名のナゲットに遊一が小声で釘を刺す。一方、胸に二本の黒いライン状の模様を持つ左手のAIペンギン、個体名《棒々鶏》のバンジーは二人を他所に別のモニターで流れていた最近のコスメのCMに夢中になっていた。
相も変わらず朝から疲れさせてくる二匹の相棒に、遊一がモニターから視線を切りながら疲れたため息を零す。
そんな遊一の周囲では、端から見れば不思議な独り言を零している遊一――ではなく、早々とその背中に翼を開く学生やサラリーマンに、周りの人々が迷惑そうな表情を浮かべていた。左前の男子学生は羽尻が白いこげ茶色の鳶の翼。右奥の女子高生は柔らかそうで小ぶりの雀の翼。遊一の少し後ろの方では、頭のツルっと禿げ上がった中年のサラリーマンが、少しくたびれて灰色が混じり始めたタンチョウヅルの翼を開いている。ちゃんと折り畳んでいるがそれでも幅を取る翼に、時折口論となる声が響き、抜け落ちる羽のおかげでそこかしこからくしゃみが漏れた。
あ~あ、と呆れつつ、遊一は視線を再びスクリーンへと流す。画面には塔の上層へ向けて人々が舞い上がっていく帆翔場の光景が映し出されていた。多種多様な翼を背中に生やした人々が、帆翔場の足元や壁から吹き上がる上昇気流を翼に受け止め、綺麗な隊列を作り舞い上がっていく。
彼らも遊一と同じく、これから自分の学校や会社に向けて、移動飛距離に必要な高度の出口から飛び去って行くのだろう。
かつて、人類は自由に空を飛ぶことを夢見ていた。
そして、今から約100年前に人類は遂に夢を実現した。
人々はその背中に翼を手に入れた。
きっかけは、一人の科学者が発見したある遺伝子だった。人体の設計図DNAに眠る、休眠遺伝子。その中に、鳥類の翼の形成や飛び方を司る遺伝子が発見された。また、その遺伝子は一度発見されるや否や、瞬く間に全人類の間で覚醒し始めた。
まるで渡り鳥のように海を渡り広がるその遺伝子覚醒を、後にこの学者はジーン・バード・パンデミックと名付けた。覚醒した理由や流行の理由は未だ遺伝子学界におけるブラックボックスと化しており、その全容はほとんど解明されていない。
分かっていることは、遺伝子の中で鳥類の翼を司る遺伝子が覚醒したことにより、人々が翼を手にしたという事実だけだ。その覚醒率は実に99.97%。何故か遺伝子が覚醒しない人々も一人握りほど存在したが、一万人のうち9997人もの人が翼を手にしたとあれば、社会は変容せざるを得なかった。
初めのうちはもちろん社会も混乱した。そして、突然生えてきた翼に人々も戸惑った。腕ではなく背中に生える翼は偉大であったが、全人類で翼の使い方、空の羽ばたき方、離着陸の方法を知るものは皆無だった。
しかし、それももはや昔の話。
人は新たな環境に慣れ、試し、学び、そして最後は克服する生物だった。
人類の背に翼が生えて約100年。人々は、その翼を生活の中で不自由なく、むしろ有意義に使える様に進化した。
そして――
人類が翼を手にして生まれた子供の第5世代。
遊一が生まれた時代は、人々が自由に空を、大地を、海を飛び交う時代となっていた。




