満月なら仕方ない
永遠亭に戻った私を最初に出迎えてくれたのは、以外にもてゐでした。
玄関前で壁に背中を預けながら退屈そうに竹の葉が揺れるのを眺めてましたが、私の姿を見つけるやいなやお決まりの小悪魔な笑顔で私の方に近づいていきます。
あの顔をしてる時は大体ろくな事を考えてないんですよね、さて何を言われるのやら。
「鈴仙、おかえりっ」
「ただいま、もしかして私を待ってたの?」
「うんうん、そろそろ帰ってくると思ってたからね。
で、最後のボスはどんな感じだった? やっぱり殺されかけた?」
「楽しそうに物騒なこと言うんじゃないの」
怒りながら握りこぶしを突き出すと、なぜかてゐは楽しそうにはにかみました。
全然反省してないな、こいつめ。
てゐの言う最後のボスってのはつまり、妹紅さんのことでしょう。
姫様と恋人になるにあたって、話をしておくべき相手と言うのはそう多くはありません。
てゐなら私が行商のフリをしていたことは見抜いているはずですし、姫様と恋人になった私がどこへ向かったかの予想も容易だったのでしょう。
「まあ、はっきり言えば拍子抜けだったわ、大したことなかった」
「鈴仙も強くなったもんだねえ」
「と言うより、あちらが勝手に弱ってったのよ」
「もしかしてあの人里の先生絡み?」
「何だ、ほとんど把握してるんじゃない」
「あの二人の仲が良いのは有名な話だしね、そこに姫様が絡むとなれば想像するのは簡単だよ。
でも……そっか、その路線で責めたんだ、鈴仙にしてはえげつないやり方だね」
「姫様と引き離すには別の方に目を向けさせるのが得策だと思ったからよ。
結果的には妹紅さんのためにもなったんだし、そう悪いことをしたとは思ってないわ」
「悪いことをしたと思ってないあたりが悪いんだってば」
そう言いながらも、てゐはやけに上機嫌でした。
まるで私が悪事に手を染めた事を祝福しているかのように。
伏魔殿って言われてたけど、それじゃまるっきり悪魔そのものじゃない。
「あ、そうだ。
姫様のことなんだけど、鈴仙が出てってから部屋に閉じこもって出てこないんだよね、早く行ってあげた方がいいんじゃない?」
閉じこもると言っても、私がでかけていたのはせいぜい二時間程度のことですから、そう不自然なことではありません。
しかし状況が状況なだけに長時間離れるのは不安ですし、なにより私自身が早く姫様の顔を見たいのです。
てゐと別れ、玄関の入口あたりに荷物を置いた私は、真っ直ぐに姫様の部屋へと向かいました。
行儀が悪いとはわかりながらも、思わず駆け足になってしまいます。
師匠に見られたら咎められるのは間違いないのですが、今だけは勘弁して下さい、姫様に会いたい気持ちの表れなんですから。
部屋の前までたどり着いた私は、間髪入れずにふすまを勢い良く開きました。
「ただいま戻りました!」
部屋の中で座りながら書物を読んでいた姫様は、私の声に反応してびくんと体を震わせます。
しまった、部屋の前で声かけとけばよかった。
親しき仲にも礼儀ありといいますし、いくら恋人になったとは言え今のは不躾でしたね。反省反省。
「れ、鈴仙?」
「あ、あはは……ごめんなさい、姫様に早く会いたくてつい力んじゃいました」
「もう、そういう言い方されたら怒れないじゃない!
本当にびっくりしたのよ、今度からは気をつけなさい」
「はい、反省しています」
「ならいいでしょう。
というわけで……おかえりなさい、私も鈴仙が帰ってくるのをずっと待ってたわ」
「姫様……!」
いやあ、相思相愛って良い物ですね。
私はその言葉にデレデレになりながら、両手を広げて私を待ち受ける姫様の方へと近づいていきます。
とりあえず傍に座ろうと思ってたのにいきなりハグですか、姫様ったら飛ばしてますね。
私は求められた通りに姫様の胸に飛び込みます。
姫様の腕が私の体をぎゅっと抱き寄せ、私も姫様の方に体重をかけながら背中に腕を回します。
「鈴仙の体、柔らかくて暖かくて心地よくて、ずっとこのまま抱きしめていたいぐらいよ」
「姫様の体だって抱き心地がよくって……今日はもう離れたくありません」
「だったらそうしましょう」
姫様は私の背中に腕を回したまま、背中から畳の上に体を倒しました。
つまり姫様が下で、私が上で、まるで押し倒したような形になってしまったのです。
「ふふふ、鈴仙ったら大胆ね」
「姫様には敵いませんよ」
ほんと、私を惑わすのが上手な人です。
「今日はずっとこのままでいい?」
「抱き合うだけじゃ足りないと思います」
「それより少しだけ先なら、許してあげる」
少しだけで済むのならいいんですけど。
私はもちろん、姫様だって息が荒くなってるじゃないですか。
それっぽっちじゃ我慢出来ないのは姫様の方だったりして。
ですが、盛り上げるより前に言っておくべきことが有ります。
姫様は私の頬に手を当て、のぼせたようにぼんやりとした瞳で私を見つめています。
キスぐらいなら何回だって許してくれそうな雰囲気です。
今すぐいちゃつきたいのはやまやまなんですが、全て終わらせるまでは、心の片隅にある靄は晴れないままなのです。
後回しにすべき話ではないでしょう。
「姫様」
「なあに?」
「私、妹紅さんの家に行って来たんです」
「……え?」
私の言葉によって突如現実に引き戻された姫様は、目を見開いて私の方を見ました。
その頬からは赤みが消え、徐々に青ざめていきます。
姫様には敵いませんが、この罪悪感もなかなかのものです。
「昨日のこと、これからのこと、全部ケリをつけてきました」
「待って! 昨日のことって、まさか――」
「ええ、姫様がすぐに戻ってきてくれたことも教えてもらいました」
寝てる場合じゃないと思ったのか姫様は慌てて私を押し戻し起き上がろうとしたのですが、そうはいきません。
姫様の手首に手をかけ、今度こそ本当の意味で私の方から押し倒します。
「やっ、離しなさいっ!」
「今日はずっとこのままでいるんですよね?」
「今はそんな場合じゃないの!」
「そんな場合ですよ、大した話じゃありませんから」
「大した話じゃないって……私、鈴仙のこと裏切ったのよ!?」
やっぱり、そう思ってたんですね。
「姫様が夜中に抜け出すだろうってことぐらい最初から知ってましたよ、ひょっとしたら私の方を選んでくれるかもしれないって期待してただけです」
嘘です、本当は私を選んでくれるって確信してました。
だからあれだけショックを受けたわけですし。
でも、私が傷ついたって知ったら姫様もっと泣きそうな顔になってしまいそうですから、この痛みは胸の奥にそっと閉まっておくことにします。
「やっぱり期待してたんじゃない、がっかりさせたのは紛れも無い事実よ」
「勝手にがっかりしただけですから」
「それでもっ!
……ああ、もうっ、こんな時ぐらいは怒ってよ、そんなに優しい顔されたら余計に辛いわ」
姫様は私から目を背けてしまいました。
少しでも姫様が楽になってくれればと思ったのですが、逆効果だったようです。
それでも、私が姫様を怒るなんてことありえないんですが。
「むしろ悪いのは私の方です、実際は殺し合いなんてせずにすぐに帰ってきてくれたのに、それに気づかなかったんですから」
「こそこそと抜けだした時点で裏切った事実は変わらないわ」
「だったら、私が姫様を許してる事実も変わりません。
悪いと思うのは勝手ですが、私を選んでくれた事を他でもない私自身が喜んでいるのに、姫様がそんな風じゃ心から笑えませんよ」
「あなたがどう言おうと、私が私を許せないのよ。
謝った所で私の間違いが消えるわけではないけれど……一度はきちんと言わせてもらうわ、ごめんなさ……っ!?」
謝罪の言葉なんて聞く気はありません。
姫様が言い終えるよりも前に、私は強引に唇を塞ぎました。
急ぎすぎて少し歯があたってしまいましたが、まだ慣れてないってことで大目に見てくださいな。
「っはぁ……はぁ……きゅ、急に何てことするのよおっ!」
「姫様が謝ることなんて何もありませんから、前もって阻止したまでです」
「だからって、いきなり……っ」
「これで、昨日のことはお互い様ってことにしましょう、それなら姫様だって不満は無いでしょう?」
「無いわけ無いじゃない!」
私にはてんで理解できませんが、まだ不満があるようで。
「……でも、どうせこれ以上言ったって無駄なんでしょう?
逆らっても口を塞がれて、無かったことにされてしまうんですもの。
だったら、鈴仙に従うわ」
姫様は諦めたように、それ以上は謝罪したり、自分を責めたりはしませんでした。
未だ心の中では納得できずに自省を続けているようですが、どうせこれから考える余裕も無くなるのですから、問題視する必要も無いでしょう。
「それにしても、まさか昨日の今日で妹紅に会いに行くなんて思いもしなかった」
「憂いは早いうちに取り除いておきたいですから、おかげで妹紅さんも諦めてくれたようですし」
「あいつ諦めたんだ……」
「諦めたというか、慧音さんに相手を絞ったと言いますか。
姫様は私を選んでくれたわけですから、わざわざ会いに行く必要もなかったんですけどね」
「別に、私とあいつはそういう関係でも無いわよ」
「姫様が”あいつ”って呼ぶような相手を放って置けませんよ」
「あ……」
別に呼んで欲しいわけではありませんが、姫様が私のことを”あいつ”と呼ぶことはないのだと思うと、何だか複雑な心境です。
「特別な相手、だったんですよね」
「まあ、ね」
否定しても無駄だと悟ったのでしょうが、認められるとそれはそれでショックだったりして。
私の手で断ち切ったのですから、気にする必要も無いはずなんですけどね。
「その唯一無二ってのが気に食わなかったんです」
師匠だって姫様にとって特別な相手のはずなんですが、不思議とこちらには嫉妬心がわかないんですよね、何が違うんでしょう。
二人の関係に明確な呼び方が存在しないことが不安だったのでしょうか。
「鈴仙、少し目が怖いわ」
「私って、実は独占欲が強い方なのかもしれません」
虚勢と言ってもいいのかもしれません。
こうして触れ合っている今ですら姫様の存在はどこか遠くて、離せばすぐ手の届かない場所に行ってしまいそうだから。
強がらないと、不安で仕方ないんです。
「かも、じゃなくて強いのよ。
でも……あなたにだったら、縛られるのも悪くはないわね」
そう言うと、姫様は再び私の首の後ろに手を回し、そのまま私の顔を引き寄せました。
今度は優しく、慈しむようなキス。
「ねえ、鈴仙。
今晩も一緒に寝るの?」
唇を離すと、姫様は潤んだ目で私をみながらそんなことを聞いてきました。
……それ、もしかして誘ってます?
「姫様が拒まなければ」
「嫌、とは言わないんだけど……」
「何か都合の悪いことでも?」
「その……思った以上に早く、堪えきれなくなりそうだから」
何を? なんて無粋なことを聞いたりはしません。
我慢していたのは私だけではなかったと言うことです。
「はしたない私を、嫌いになったりしない?」
「それで嫌いになるなら最初から求めたりしませんよ、どうしてそんな発想になるんですか」
「ペース分配とか、私なりに色々考えてたのよ。
今度の週末にでも一緒に人里に出かけて手を繋いでみようとか、一週間ぐらいしたらキスをしようかな、とか。
勝手に計画を立てて、一人でそわそわして……子供みたいでしょう?」
「そんなことありません、かわいいですよ」
姫様の顔が一気に紅潮します。
それもまた可愛くて、思わず次の言葉が出そうになってしまう所を、私は何とか抑えました。
これ以上やったら、姫様とまともにお話できなくなりそうですから。
「はぁ、鈴仙相手だとそうなってしまうのよね」
「私の好かれたのが運の尽きですね」
「好きになってしまったのも運の尽きだったのよ。
気付けば計画なんて無かったことになって、二日目でキスまで済ませてしまったわ。
このままじゃ……」
姫様は次の言葉を躊躇うように体をよじらせると、甘い吐息を漏らしました。
私の心臓は破裂しそうなほど強く脈打ち、呼吸すら上手くできないほどです。
震える喉を無理やり動かして、口内に溜まっていた生唾を無理やり飲み込みました。
仮に姫様がその先の言葉を言わなかったとして、すでに出来上がっているこの状況を変えることはできないでしょう。
続きがなければ事は強引に始まるでしょうし、続きがあるのならその瞬間、歯止めは効かなくなってしまいます。
どちらにしろ、未来は確定したようなものなのです。
求めて、求められて、遮る理性も状況を応援してくれているのですから。
「今夜にでも、あなたに体を許してしまいそう」
今更になって、姫様の胸元が少しだけはだけているのに気付きました。
首から鎖骨にかけての肌はほんのりと汗ばんでいて、光を浴びて白く輝いています。
胸は呼吸の荒さに連動していつもより早く上下し、膨らむ度に微かに見える谷間が私を誘っているようです。
いや、実際に誘っているのでしょう。
じゃなきゃ、体を許すなんて言葉使わないはずですから。
「姫様、知っていますか」
ぐつぐつに煮立った脳はまともな思考を放棄し、すでに姫様の体にどう触れるかしか考えていませんでした。
その証拠に、意識しないうちに私の手は姫様の耳へと動いていて、耳の縁を愛撫するようにゆっくりと撫でています。
私の指が動くたび、耳に走るぞくぞくとした甘い感触に、姫様は大きく息を吐きました。
「今宵は、満月なんですよ?」
だから何なんだ、と思うかもしれませんが、要するにちょうどいい言い訳を見つけたのだと言いたかったのです。
月の狂気に照らされて、気持ちを抑えきれなくなってしまったのだと。
それなら、理由としては及第点ぐらいはもらえる気がして。
「そう、満月なのね」
「はい、満月なんです」
「なら……仕方ないわね」
てゐはおろか、師匠にだって通用しない、穴だらけの言い訳。
でも、それでいいんです。
これは自分で自分の背中を押すための、自己暗示のようなものなのですから。
「ほら、好きに触って」
姫様は私の視線がちらちらと胸元に向いているのに気付いていたのでしょう。
”仕方無い”、そう言った直後に、自らの手で襟元に手をやり、自らの胸元をさらに露出させました。
見えるか見えないかのギリギリのラインで止め、次に私の手をにぎると、肌と服の間に導きます。
「ひめ、さま……」
ぷつりと、理性の糸が切れる音が聞こえました。
虚勢も、言い訳も、建前も、何もかも欲望の前には無意味なんです。
まだ満月すら出ていないのに、私たちの理性は、強く互いを求め合うことによる狂気に飲み込まれていきました。