師匠の反応
見慣れた師匠の部屋へと入った私は、促されるままに椅子に座りました。
師匠はデスクの傍にある椅子に座り、位置関係はちょうど医者と診察を受ける患者と同じように。
これじゃ診察ってより、気分は尋問を受ける敗残兵って感じですけど。
いっそ先手を取って謝ってしまおうかとも思いましたが、そもそも私は悪いことはしていないのですから、謝る必要はありません。
姫様と愛し合うこと自体には何の問題もありませんし、私には非など無いのです。
そう、もしも師匠が私達が恋人になったことを糾弾すると言うのなら、私は真っ向から戦ってみせようじゃありませんか。
……出来る限り、ですけど。
いやだって相手が悪すぎるんですもん。
「はい、これ」
椅子に掛けて最初に言われたのはそんな一言で、同時に私の手のひらには薬包紙に入った粉薬がのせられました。
はい、と言われましても私にはこの薬が何なのか全く知らされておらず、もちろん師匠と違って見ただけで判別するほぼ超能力に近い力は持っていません。
となると、師匠は私が情況証拠からこの薬が何なのか、答えを導き出せるだろうと判断して渡したのでしょう。
しかし師匠は無言のプレッシャーを私にかけてきて、今すぐにでも飲まないと潰すと言わんばかりの、殺意の篭った視線を私に向けています。
考える間もなく、私には飲む以外の選択肢はないのでは。
けど、何の薬かもわからずに師匠の薬をいきなり飲むのはあまりにリスクが高すぎるし、これはさすがに……。
「あの、師匠」
「あら飲めないの? 飲めないのならそれでも構わないけれど」
「いえ、そういうわけではないんですが、これは一体」
「だったら躊躇してないで早く飲みなさい、ほら」
「し、師匠?」
いつもより強引な、というかどこか子供じみた様子で薬の服用を私に強要してきます。
はっきりしているのは、これが碌な薬じゃないってことです。
今の師匠はどこからどう見ても冷静じゃありません、姫様が私を選んだという事実はそれほどまでに師匠にとってショッキングな出来事だったのでしょうか。
だとすれば、これは毒薬?
いや、師匠が姫様の悲しむようなことをするとは思えません、私が傷つけば姫様が心を痛めることぐらい、容易に想像できるはずなんです。
したがって、師匠は何があっても私に危害を加えることは許されません。
だったら、この薬は――
思考の間にも師匠から発せられる殺気から逃げ場を失った私は、時間稼ぎをするように薬包紙の包みを少しずつ少しずつ開いていきます。
師匠は私を傷つけられない。
しかし師匠は、おそらく私を傷つけたいのです。
師匠の今の表情をストレートに受け取るとするのなら、姫様を奪った下賤の輩をこらしめたいと、そう考えているように思えました。
少なくとも弟子に向ける顔じゃありません。
だとすれば、私を傷つけず苦しめる方法なんて、ひとつしかありません。
いや、師匠ならそういった手段をいくつか持っているかもしれませんが、私の思いつく方法は一つしか無かったのです。
ならば、何もためらうことなんてありません。
ですが一つだけ、どうしても私だけでは解決できない問題がありました。
「やっぱり飲めないのね」
「いや、と言うか……」
「言い訳は聞きたくないわ、あなたがどういう覚悟で輝夜と想いを通じ合わせたのか、よくわかったから。
あえて薬の正体を明かさずにいたけれど、その薬が何なのか、察しの悪いあなたでもとっくに気付いているはずよね」
「蓬莱の薬、ですか」
そう、私に渡されたのはおそらく本物の蓬莱の薬。
私がどれだけ頼み込んでも絶対に見せてくれなかった、師匠の功績であり罪でもある、何もかもの元凶。
わかってるんですよ、要するに師匠はこれを飲むことで、姫様の人生を背負う覚悟を見せてみろと、そう言いたかったのでしょう。
師匠は過保護な人ですから、いわば結婚相手の父親みたいなポジションで、うちの娘はお前にはやれんと言った心境なのだと思います。
理解できます、把握もしました、そして覚悟も済ませています。
いいでしょう、飲みましょう、飲んでやろうじゃないですか、それで姫様の永遠分の愛情を受け取れるっていうんなら、容易く飲み込んでみせましょう。
でも、ですよ。
「その程度の覚悟では、あの子の人生は預けられない」
「ですから、私の話聞いてくだ」
「嫌よ言い訳なんて聞きたくないわ。
そんな無責任さで、どうして輝夜のことを支えられると思ったの?」
うわあ、この人いつもにも増して面倒くさいぞお。
元から私の話を聞いてくれる人じゃありませんでしたが、今日は輪にかけて酷いです。
完全に自分の世界に入り込んで、出題から結論まで全て自己完結しちゃってます。
仮に私が豪快にこの薬を飲み干したとしても、これじゃあ許してくれるか怪しいものですよ、何かと文句をつけてさらなる条件を要求してくるかもしれませんから。
勢いに任せて飲まなくてよかったのかもしれません。
まあ、今のままじゃそもそも飲めないんですけどね。
「師匠」
「永遠ってのはそんなに簡単な物じゃないわ」
「師匠!」
「とても重い物なの、辛いものなの、それを一時の恋心でどうにかしようなんてっ」
「……あの、だから」
「甘いわ、甘すぎる、師匠として恥ずかしいわ、どうしてこんな考えの浅い弟子に育ってしまったのか……。
少しでもあなたに見込みがあると思ったのが間違いだったのね、一時の感情に流されて過ちを犯すなんて、所詮あなたは獣畜生でしか無かったのよ!」
「……」
ああ、もういいや。
イライラはとっくに最高潮で、相手が師匠だろうが我慢できる限界を超えています。
言ってやりましょうよ、ええ、好き勝手言われたんなら好き勝手言ってやるしかないんですから、言ってやろうじゃありませんか。
この際上下関係なんて関係なしです。
人の話も聞かないで、気持ちも知らず、聞かず、言いたい放題ボロクソ言ってくれて――!
「八意永琳ッ、話を聞けええええええええぇぇぇぇぇぇっ!」
勢いに任せて立ち上がり、永遠亭全体に響くほどの大声で私は叫びました。
初めてですよ、師匠のことを呼び捨てで読んだの。
いつもの師匠相手なら、呼び捨てで呼ぼうものならこっぴどく叱られて、その後のお仕置きで私は一週間は寝こむことになるでしょう。
もはや、お仕置きと呼ぶより拷問と呼んだほうが相応しいのかもしれません。
想像するだけで体が震えます。
それほどまでに恐れていたはずなのに、不思議と今の私には一切の恐怖はありませんでした。
「……うどん、げ?」
だって師匠ったら、ぽかんとした間抜けな顔で私を見上げてるんですもん。
いつもの聡明な師匠なんて跡形もありません。
そんな顔を見て怯えるわけがないんです、恐怖どころか、むしろ下克上を成し遂げた満足感で気分が高揚するほどで。
でも、これで満足してちゃあ駄目なんですよね、実に下らない本題はこれからなんですから。
どうして私が薬を飲まなかったのか、その理由を師匠にも分かるように説明してやろうじゃありませんか。
「はぁ……はぁ……い、いいですか師匠っ、あなたは人の話も聞かずに好き勝手言ってましたけどね、飲めって言うんなら私だって飲みますよ!
姫様のためだって言うんなら、それが師匠が許してくれるんなら、それはもう簡単に飲めちゃいます、不老不死だろうが永遠だろうがなんだって来やがれってもんですよ。
私だって生半可な覚悟で告白したつもりはありませんから!
ええ、飲んでやりますとも! こんな物一口で……そう、飲めるもんなら」
師匠の眼前に薬を突き付け、私は強く主張します。
考えても見てください、これ、粉薬なんですよ。
私に渡されたのは粉薬を包んだ薬包紙のみ、しかもオブラートもなければカプセルに入っているわけでもないんです。
「ねえ師匠、これでどうやって飲めって言うんです!?」
「それは……」
普段の師匠なら一目で気付くはずですよ。
それをじっと見て考えこんで、これが何よりも師匠が冷静じゃない証拠です。
「……あっ」
「そうです、そうですよ!」
どうやら師匠はようやく気付いたようです。
単純な話なんですよ。
医者じゃなくても、ただの人間でも、すぐに気付く致命的な欠落。
ねえ師匠――粉薬を、どうやって水も無しに飲めと言うのですか?
「私は最初から水をくれって言いたかったんです、それを遮って、私の話も聞かずにペラペラと自分のことばかり!
人の話はよく聞くようにって、こんな子供みたいなこと弟子に指摘されるなんて恥ずかしくないんですか!?
事が事ですから、師匠の気持ちもわからないでもないですが、それでもあんまりですよ!」
ほら下らないでしょう、笑えないぐらい下らないでしょう、でも言わせなかったのは師匠ですからね。
むしろ下らないからこそ私は怒ったんですよ、勝手に独りよがりに私の気持ちを否定してくれちゃって、それが条件だって言うんなら蓬莱の薬だろうが何だろうが飲んでやるっての。
水無しでも飲める人はいるかもしれません、でも私は無理です。絶対にむせます。
薬が胃まで到達しない可能性だってありますし、肺に入り込むと肺炎の恐れもあって結構危ないんですよ。
蓬莱の薬がどういった形で私の体に不老不死を与えるのか想像もつきません、ひょっとすると口に含んだだけで不思議パワーで不老不死を得られる薬なのかもしれませんが、師匠の反応を見る限りそれは無さそうです。
そもそも蓬莱の薬って粉薬でしたっけ……確か壺に入ってたはずですよね、わざわざ飲みやすいように粉末にしてくれたんでしょうか。
そこで気を使うなら水ぐらい用意して欲しかったです、師匠。
まあ、師匠は姫様に対してかなり過保護でしたから、そんな姫様が急に弟子と恋人になったなんて聞いたら、混乱してしまうのも仕方無いことなのかもしれません。
師匠に一言も相談せずに告白してしまったことに関しては、私にも非があるのでしょう。
ですが、だからといってこんな理不尽はあんまりです。
「なんてこと……私としたことが、冷静さを失っていたみたいだわ」
ため息吐きたいのはこっちですよ、まったく。
俯きながら額に手を当て、大きく息を吐く師匠はようやく普段の聡明さを取り戻しつつあるように見えました。
これなら、まともに話も出来るかもしれません。
「姫様から聞いたんですよね、私とのことを」
「ええ、惚気話をたっぷりとね、おかげで今日は朝から酷い目眩だったわ」
「そこまでですか……」
「そうよ、そこまでよ、そこまでなのよ!?
信じられるわけがないわ、あの可愛い可愛い輝夜が、よりによってこの優曇華と懇ろな間柄になるなんて!」
てゐの”つがい”と言い、師匠の”懇ろ”と言い、どうしてうちの住人は微妙に聞こえの悪い言葉を使うのでしょう。
言っておきますが私達、まだ肉体関係どころかキスすらしてませんからね。
しかも”よりによって”だの”この”だの、私を何だと思ってるんですか。
私だって恋ぐらいしますよ。
それに姫様が惚れてくれるぐらいなんですから、それなりに魅力はあるってことですよね。
ってことは私、自信持ってもいいんはずなんですよ、なのにこんな言われ方されたら自虐的にもなるってもんです。
「その薬、返してもらってもいいかしら」
「飲まないと認めてくれないんじゃないですか?」
「私が認めなかった所で、輝夜があなたを愛している以上はどうしようもないじゃない。
それに昨日の今日でこんな薬を飲ませるわけがないわ、千年経っても輝夜のことを愛していたら、その時に考えなさい」
そう言うと、師匠は私の手から薬をひょいと取り上げてしまいました。
少し残念なような。
さっきと言ってることが正反対ですしね、それだけ我を失ってたってことなんでしょうけど。
でも、今の言い方だと、千年後になら考えてもいいってことですよね。
千年なんて、姫様と二人ならきっとあっという間です、抱き合ってキスとか色んなことしてたら一瞬ですよ。
ただ師匠からしてみれば、私が何を言った所で”口でならどうとでも言える”としか思えないでしょうから、自信があるなら実行してみろと、そういう師匠からの挑戦状として受け取っておきます。
「限りある生命でなければ、あの子の心に傷跡は残せない」
「……急にポエムですか?」
電波でも受信したんでしょうか、まともな精神状態とは思えません。
まだショックから抜け出せてないんですかね。
「違うわよ、どうして私がこんなにも冷静さを欠いてしまったのか、その理由を言っただけよ。
たぶん私は、妬んでいたのでしょうね。
私にはどう足掻いても手に入れられない物――”死”を持つあなたが羨ましくて仕方なかった、だから嫉妬で感情を制御できなくなってしまった」
「私、まだまだ死ぬつもりはありませんよ」
「けれど死の可能性がある、ただそれだけで輝夜の心を揺さぶることが出来る。
絶対に消えない物より、いつか消えてしまう物を愛おしく思うのは当然のことだもの」
さっき姫様が泣いてたのも、たしかそんな理由でしたね。
だとすれば、私は余計に永遠の命が欲しくなります。
姫様の心を不安にするぐらいなら、有限の命なんて簡単に捨ててやりますよ。
それに、私を好きになった理由が”死ぬかもしれないから”なんて、そんなの嫌に決まってます。
私自身を好きになってほしい、そうじゃなきゃ恋とは呼べません。
「不安があるから心安らぐ瞬間が存在するの、揺らがない感情はただの無でしかない。
死なない私は、あの子に不安を与えることすら出来なかった。
天才なんて呼ばれてる私がどんなに頭を捻っても、有限の命を持つ優曇華には及ばなかった」
「姫様にとって師匠は家族みたいなものじゃないですか、わざわざ頭を使わなくても、姫様にとって師匠は大切な人ですよ」
一番や二番なんて関係なしに、私だって師匠のポジションが羨ましいと思いますから。
恋人にはなれても、家族にはなれませんからね。
「嬉しい言葉ね。
けど、あなたに敵わないという事実は変わらないわ。
何よりも現実がそれを証明してるじゃない、私から輝夜を奪ったのはどこの誰だったかしら?」
師匠は、たぶん姫様と恋をしたかったわけではないのだと思います。
ただ一番大事な人でありたかった、誰よりも優先される存在でありたかった、そんな独占欲を満たしたかっただけの話。
今まではその場所に自分が立っていました、二人は私が生まれるより前から一緒に居たのですから、その場所が誰かに奪われるなんて想像すらしていなかったのでしょう。
しかし、師匠が最も恐れていたであろうその瞬間は、何の前触れもなくやってきてしまった。
実際の順序付けなんて姫様にしかわかりません、実は今だって私より師匠の方を大事に思っているかもしれませんし。
でも重要なのは姫様がどう思っているかではありません、師匠が私の方が上だと、そう認識してしまったという事実なのです。
「ああ……ごめんなさい、これじゃまるで八つ当たりよね、今日の私はてんで駄目だわ、まるで使い物にならない」
師匠は頭を抱えながら、自分を諌めるように顔を伏せました。
「優曇華は何も悪くないのに。
選ぶのは輝夜で、もう答えは出てるのよ。
それでも納得出来ないなんて、これじゃまるで駄々をこねる子供ね」
「それもそれで、人間らしい感情だと思いますよ」
人間離れした師匠相手にこの言葉がフォローになるかはわかりませんが。
「似合わないでしょう?」
「感情に似合うも似合わないもありませんよ、たまにはらしくなくてもいいんじゃないですか」
「……優曇華に励まされるなんて、ますます自信が無くなってきたわ」
「師匠、実は意外と余裕ありますよね?」
師匠らしいと言えばらしいんですが、これならさっきまでのしょんぼり師匠の方が良かったです。
何度もいいますが、私は決してマゾヒストじゃないんです、、虐げられて悦んでるわけじゃないんですってば。
折角励ましたんですから、今ぐらいは素直にお礼を言ってくれたっていいじゃないですか。
私だって下心から励ましたわけじゃないんですから。
「ま、なんにせよ結果はもう変わらないんですもの、輝夜があなたを選んだ以上は、どうやったら二人が幸せになれるかを考えていくしかないわね」
「応援してくれるんですか?」
「しないと姫が悲しむじゃない」
あくまで姫様が第一なんですね、わかってましたけど。
知ってますよ、私なんてどーせただの実験動物なんです、姫様に比べれば塵芥みたいなものなんです。
「昨日の話を聞いて、輝夜がどれだけ本気なのか十分に理解したわ。
私が説得した所で引き裂くことなんてできるはずもない、不可能ではないでしょうけどあの子を悲しませることになってしまう、だったら私のやることはひとつよ。
もちろん、あなたがあの子を幸せにするために尽力することが前提だけどね」
「そんなの言われなくたってそうするつもりです」
他人に言われるまでもなく、私は自分の命をそのために使うと誓ったのですから。
「だったら問題無いわ」
良かった、絶対に許さないって言われたらどうしようかと心配してましたから、師匠が応援してくれるんなら百人力ですよ。
私が安心して胸をなでおろしていると、すぐに師匠は一言付け加えました。
「ただし――輝夜を泣かせたりしたら絶対に許さないから、それだけは理解しておいてね?」
とびきり意地悪に笑いながらそう言うものですから、私は思わず体をぶるっと震わせてしまいます。
しかも、表面上は笑っているように見えるのですが、目だけは完全に笑っていません。
と言うかこの師匠から発せられるピリピリとした感じ、これ殺気ですよね。殺す時の目ですよねそれ。
私、姫様から想われてなかったら今すぐにでも殺されるんじゃないかな……。
蛇に睨まれた蛙の気持ちが痛いほどわかります。
一筋縄では行かない人なのは身を持って体験してきましたが、これって本当に応援してくれてるんですかね?
どうやらまだ、手放しで喜ぶには早過ぎる状況のようで。
私のこめかみを冷や汗がつぅと流れて行きました。
どうして私の周囲には素直に祝福してくれる人が一人もいないんでしょう、泣きたくなってきますよ。