「ヘロストラトス」の発狂
十八歳の少年がナイフを振り回し生徒数人を殺傷して逮捕された。
この事件のことを大木はよく覚えていた。彼がその当事者だったからではない。彼が最後にその少年と会った時の体験が、今も大木の頭に根強く張り付いているのだ。
大木昌彦は昔からある疑問を持っていた。
どうせ死んでしまう人生に対して、なぜ人々はそれが永遠のものであるかのように執着するのか? 自分のなしたことを子孫に伝えることこそできるが、それはもう自分とはかかわりのないことであろうに?
もう一つ、人間は極力正義であることに固執し、またみずから正義であると思い込もうとする。
この世界で生きていくためには正義を棄てて悪に墮ちねばならないこともあるはずだ。だが、悪に墜ちてでも、自分が悪をなしていることに気づけない人間――大木にとってこの世で二番目にたちの悪い人間とはそのようなものであった。
そして、正義のために他者を破壊しようとする行動が、大木には虫唾の走るようなものに思われた。
確かに、自分のやっていることが悪であると知りながら、それをしつづけるには非常に勇気が必要だ。そうでなければ、精神をきっと病んでしまうに相違ない。だが、そのようなことが存在する限りにおいて、人類に進歩の色はほとんど見えてこないのである。
一方、自分を善だと思い込んでいる輩は狂気に走る。古来東西に於いてどれほどの人間がそうなり、あらゆるものを破滅へと導いてきたものか。
これだから人間はたちが悪い。まして他者に自分の人生を売り渡すようなことさえしてしまうのだから、彼は人類にたいして期待をしていなかった。
少年の名前は岩部亮といった。
彼に対して、大木は元から好い印象を持っていなかった。
成績もよく、礼儀もしっかりしている、そう先生たちからは認識されているようだったが、大木たちから見れば、いつも一人で人との付き合いも少なく、顔は常に陰気で人を寄せ付けない雰囲気があった。
岩部は比較的裕福な家の出身で、幼いころからよく海外に旅行に出かけたりしていて、その兄たちはいずれも有名な大学へと進学しており、亮もまたそのような道をたどることをみこまれていた。
一族の中で、彼は自分を明らかに浮いた存在だと認識していた。
しかし、それは必ずしも彼を素晴らしい人間にはしなかった。
岩部にとって、両親やあらゆる英雄は尊敬の対象たり得なかった。
なぜなら、彼らは変えようとはしていなかったからだ。
この世界の現実を。この世界の論理を。
世界に『名の残る』『輝かしい』『素晴らしい』業績を残したところで一体どうなろう? 結局、この世界のいわゆる『一般常識』の走狗を一人増やすだけではないか!!
きっと岩部亮の内面はそういうものだったのだろうと、大木は推定している。
「なあ、大木」
「……どうした」
「放課後、来てくれ。わかったな?」
ある日の朝、二人にしか聞こえない岩部はそうささやいた。
大木はその意味を解さなかった。大木は岩部と口を利くことがほとんどなく、大木の頭の中では、彼と話をしたのがこれがただ一度の記憶となっている。
同時に岩部に関する記憶として印象に残っているのもこれだけだ。他はすべて、完全な忘却の中。
教室内には誰もおらず、ただオレンジ色の夕日が内部を照らしている。整然と並んだ机といす、きれいに字の消された黒板。
大木がそこに入ってきた時、
確かに岩部はそこにいた。
それらが見守る中で、二人は一つの机をはさみ、相対する。
この時から、大木は違和感を感じていた。
何かがおかしい。
いや……、確実におかしい。
その原因は、岩部の表情だった。口元はきゅっと押さえてあるが、目つきが何か安定していない。この二つの部分が、どうにも調和していないのだ。
(こいつは体調が悪いのか?)
しかしそれを言及しようと思いかけ、再び大木は不吉な感じに襲われる。
「そろそろ卒業も近づいてきたが、進路はどうするつもりなんだ?」と問うてみる。
「大学だよ」
「そうか」
口調は普通だ。
「親からは留学するように言われてきてる」
「いいね」 あくまでお世辞で。
「いいね、か」
岩部は嫌な表情をした。
「本当はそうした所で、俺が何か世界に誇れる逸材になれるわけでもないが」
「やけに自虐的だな。ん?」
岩部はこの類の言葉を気に入らないのだろうと、最初は意った。
「留学なんて、知識を無駄に増やすだけじゃないか。俺は」
身を乗り出し、大木と顔を近くして、
「積極的に、この世を変えたいんだ」
そう言った。
「……知らなかったよ、あんたがそんなこと考えてるなんて」
大木は彼の心中を知りかねた。
できるなら、ここですぐさま逃げ出したい気持ちだったが、その何かを期待するような目を察ると、そうしてしまうのはためらわれた。大木がどのような言葉をこちらから発そうかと考えていると――
「いいや、むしろ想定内だったんじゃないか?」
これも予想外の言葉であった。
「あんたもほかの奴らとは違うから、ね」
もとの位置に退がると、岩部はどこか含みのある口調で話しだす。
「あんたにはクラスの連中とは違う空気が漂っている。ほかの奴らが至極つまらないことばかりしているように見えるところ、あんたは大いに違う雰囲気を放っている。次元が違うんだ」
「おまえもな」
大木はそういった。いや、そういうしかなかった。
大木にとって岩部は未知の具象にも近い存在だった。彼からそんなことを聞くのは初めてだった。
「今、世界がゆるやかだが、確実に崩壊しつつある」
また岩部の論題が大きく変わった。
「いや、ずっと前からな。過去のある時から世界は崩壊を始めた。今、それがはっきりと俺たちの前にあらわれてきている」
あまりにも壮大となる話題に、まごつく大木。
「崩壊? どういう意味だ?」
「人類は自分たちを地球における最高の存在だと思いこんだ。そして自分たちで勝手に地球を自分の そこにある自然を自分たちの奴隷におとしめた。
けど、僕らの先祖は分かっていなかった。人類は地球を超えられるような存在じゃなかった。それを知らないまま数百年も数千年も過ぎたおかげで、今、世界に色々な問題が起きてる」
大木は意外に思った。亮がそのようなことに関心を持つとは思わなかったからだ。
「そう……その一番大きなものは」
そして、岩部はうつむく。
「例のウイルスと言っていいだろう」
当時の大木にとって、あのウイルスはどこか遠い世界の話でしかなかった。人間をただの殺戮人形へと変えていく謎の侵略者……。
「あれがそろそろ日本に広まるのも時間の問題だよ。エボラとかSARSなんかよりも数倍怖ろしいと意うよ。人間を病人にするんじゃなくて、廃人にしてしまうんだからな! 地球め、どうやら、人間の知恵を悪用して人間を滅ぼそうとしてるらしい」
岩部にとっては、自分の進路などどうでもいいらしい。
「これは、人類の脅威だ。地球を破壊しつづけた人類文明への、大いなる復讐なんだ」
岩部の話し方や表情に大木はずっと違和感を感じていた。
悲しんでいるような、怒っているような、判別のつかない不可解なしゃべり方で抑揚も安定しない。まるで、精神的に異常を抱えているような……。
「結局、何が言いたい」
岩部の落ち着かない態度にいらつく大木。
だが、すぐには返事をしない。
「俺は英雄になりたいんだ」
またもや大きな転換を行う岩部。
「……あんたの話題にしたいことは何だ?」
できることなら、大木は今にも振り向いて逃げ出したかったのである。すぐに彼との話を打ち切りたかったのである。
そして同時に――
だが、大木の心の奥底に潜む嗜虐心を感じはじめていた。
「平然と非道なことをして、多くの憎しみを受けながら法律とかの網でそしりをまぬがれている、『悪い奴ら』――そいつらを」
開いた両手を左右に拡げ
「抹殺したいんだ」
一瞬、大木は意味が理解できなかった。
岩部はなおも自信ありげな表情でこう告げる。
「そいつらがいなくちゃ、さっき言ったと思うが――世界は良くならない。破滅への道はもう拓かれている。
人類をその道に連れていってはならない!!
無論俺にはそれほどの力はない。
だが、日本を、世界を変える第一歩となってみせる心がある!!
……俺には計画があるんだ」
決然たる、しかしどこか不安定な顔で岩部は答えた。
「計画…?」
「それは、ある武装集団に加わることなんだ」
「……何のために?」 先ほどからあっけに取られつづけている大木。
「彼らは秘密裏に武器を製造していて、国家打倒の計画をひそかに進めている。すでに百人以上の人がそれに関わっているらしい。みんな日本の未来を考えて行動している。
近いうちに俺もそれに参加するつもりなんだ」 どうやら岩部は本気のようだ。
「政府は外国と戦争をしようとしている。そして国民もそれに巻き込まれようとしている。彼らはそれを止めるために行動を起こすんだ。悪くない話だろう?
世界救済の一環としてな」
岩部はまるで大木がそれに賛成しているかのごとき口ぶりだった。
明らかに岩部は常軌を逸していた。長い間、そんなバカげた計画を秘めていたとは。大木は驚きというよりむしろ失望を感じた。
「不思議だな、岩部。あんたがそんなことを考えていたなんてよ」
「こんなことを口にできるのは、大木、おまえがほかの奴らとは違ってるからだよ」 大木を同志であると錯覚せる岩部。
「あんたの目は近いところじゃなく遠いところを察てる。将来自分がどのような道を進むか、常に見極めているかのような……。
他の凡愚どもには決して見いだせない目だ。だからこそおれはお前に言うんだ」
大木は岩部の話を本気にしてはいなかった。岩部の口調は真面目そのものだが、表情はどこか無表情で、それだけ察るともともと用意されていた原稿を棒読みにしているような感があった。
さらによく視ると、岩部の瞳孔は開いていた。それほど暗いわけでもないのに。
「なるほどたいそうな考えだ」
それから間をおかず続けて、
「あんたは自分が英雄がなれるとでも意ってんのか? 片っ端から気に食わない人間を殺して英雄を気どれるとでも意ってんのか?」
「…なんだと?」 いぶかる岩部。ほとんど正気のない様に見える目つき。
「違うな。おまえ勘違いしてるよ」
暗い口調でうつむく大木。
「あんたは彼らが正しいことをしていると意っているだろう。だが、そういう連中に限ってろくでもないことを考えてるもんだ」
「そうじゃない。あの人たちはみんな……」
岩部の反論に耳を貸すつもりは毛頭ない。
「あんたは今、その計画に数百人がかかわっていると言った。たったの数百人か? 日本の人口の何割だ? せいぜいその程度の人数で何ができる」
「これから彼らは人員を増やす、……」
「なるほどな、そうかもしれん。だが人数が増えたところで何だ? 単にどんちゃん騒ぎをする人間が増えるだけっじゃないかな」
「どんちゃん騒ぎ!? 革命のための争いをどんちゃん騒ぎだと!? おい、俺は真面目な話をしているんだ、途中で話を折るな!!」
高ぶった口調と平静にも見える顔で不気味さが増す。
「まあよく聴けよ、俺の話」
「ごく普通の一般人を殺したら、それはただの人殺しだ。誰の記憶にも残らない。逆に、政治的なお偉いさんを殺って英雄呼ばわりってのは方々に例がある。
おまえが加わろうとしてるグループも、そういう風にして讃えられたいんだろうな。自分たちが考える『悪人』を殺っちまえば、その分世界が善くなる……って、本気で思い込んでるんだろう。
けれどだ。そんなことをして、世の中が変わると考えられるか?」
ひきつる岩部。
「たとえお前がにくむ『悪人』が殺されようとだ、そいつに付き従っていた奴らが前の主人に似た人間を選ぶだろうよ。次にそいつになりかわるのは第二の『悪人』さ。おまえみたいな『すごい人』なんかじゃない。第二の『悪人』が同じ道をたどろうが、第三の『悪人』、第四の『悪人』が出現するだけさ、結局何も変りゃしない」
「彼らは、そいつらにとって代わるんだ!」
岩部は片手を握りしめる。
「とって変わる? 待てよ。
確かに日本中の人々は、日本が変わることを切望しているに違いない。だが、一方でこんな世界こそがいいんだと意っている奴らがいる……そいつらの数は、星の数ほどだよ。
だが、中でも暴力を使ってたてつくのはなかなか痛快だろう。めでたいアホがちょうどそんなものに憧れている。だがそれは、決して世界をいい方向に動かすまい」
「違う……」
「言い終わってない。もう少し聴け。
暴力的行為に実際に賛成する人なんてたかが知れてるぞ?
この世界を成り立たせている道理はあまりにも強力で、人間一人がそう変えられるもんじゃない。そいつはある点でこの世界のいろんな奴を煩わせているが、同時にたくさんの人を生かしている。
それを無理やり変えようとしたら……どれほどの労力がかかる?」
「決してありえない話じゃないはずだ!」
「むだだな。そんな道理に公然と逆らう人間はせいぜい変人扱いさ。悪ければキチ扱いか……。知らず知らずのうちに、みんな世界の道理に動かされ、操られている。だが知ったところで何か意味があるか? 俺はあきらめた。少なくとも暴力では世界なんていい方向には動かない……。大切なことだからな。
日本、いや世界の人口が一瞬で半減すれば変わるかもしれんが」
大木は落ち着いた口調で話し続ける。
「そもそも、学識も良くて家庭的にも恵まれた人間がそんなことに走るってことは、よく知っている。そんな人たちがどうなったか知っているか? 結局何も変えられないまま、自分を破滅へと追い込んでしまった。
おまえはそれにピッタリな例だ。やっぱりそいつらと同じような道をたどるよ――星もない、まっくらの道を」
ますます岩部はかたくなな面持ちになった。
「いや、俺は行く。世界を変えてみせる。少なくともその程度の意思は持っているつもりだ……俺みたいな 前例の人間みたいには……ならない」
岩部には、まだ頑強に抵抗する力が残っているようだ。
「だがやめておけ、家族はどうなる?」
「知ったこっちゃないさ!」 岩部はそっぽを向いた。
「ならいいが、その後はどうするつもりだ」
「俺は尊敬される人間になる。この日本のために活躍した、輝かしい名誉ある人間としてな」
輝かしい名誉ある人間――大木にとって、一番うさんくさいタイプの人種だ。
「はっ、なかなか素晴らしいよ。でもその時のお前は、本当に幸せだと言えるか?」
「それは幸せだよ!」
当然だ、という風にいらえる岩部。
「理解できない。育ちの違いがあるのかもしれんが」
大木の答えは岩部とは対照的だった。
「俺だったら気が変になるよ。たくさんの人間が自分を そしてそいつらは自分の善い所だけを偶像化しておがめ、生身のある本人をただのロボットみたいにし、その内面には決して触れようとしない……そんな、やつらばっかりがお前の取りまきになっちまうんだぞ?」
「それは……」
岩部の表情がこの時、決定的に――一瞬だが――ゆがんだ。
「……話を戻そうか。もしおまえらみたいな暴力で世界を動かそうとする連中が頂点に立ったとする。すると当然組織が肥大して行くことになる。でなきゃ日本全体を覆いきれねえからな。
組織が肥大化するってことは……つまりそれまで『日本のためだけに』で一貫していた活動に、色々な私利私欲が交っていくってことさ。
そうだろう? 一億人以上いる国民のうち、やましいことを考えながら表面で
『日本のためだけに!』
と唱えて裏では平然と自分の利益にしかならないことをやろうとする人間が一人もいないと言い切れるのか? むしろたくさん出てくると思うさ。
そうなると、もうその組織は『日本のためだけ』のものじゃなくなっちまう。日本を変えるつもりが結局は自分たちを変えるだけになっちまうかもしれないんだぞ? そのうち、『前のほうが良かった』とぬかす輩さえあらわれるかもしれない! いや、ちょっと待て。なんで正義を誇示したがる? 世界の歴史の中で、正義が悪を打倒するなんて分かりやすい展開なんて一度もない。どうそれを主張しようが、いつも陰で善悪を入れ替えることが起きてる。おまえらの場合も同じだろうよ。どうせ、絶対にもう一つの組織が『日本のため』と唱えておまえらを打倒するさ!
いや、そもそも。
普通の人間からすれば、お前らがやろうとしてるのは大迷惑なことだ。死んでも自分の名前を誇示したいがだけのヘロストラトス的な所業に過ぎない。いや、あんたが英雄気取りの生真面目だとしても同じだ。どうせ、お前らの活動は絶対に成功しない。なんせ国民がそういったもんにアレルギーを持っているようだからな……。お前らがどんなに善を主張しようと、おれたちにとっちゃどうでもいい。尊敬の対象になんかしたくもない。お前はどこまでいこうがヘロストラトスの二番煎じに過ぎない。どこにもお前の行動すべき理由はない」
大木は、この少年のことを心行くまで罵倒できるのがたまらなかった。
「そんなことをしてもお前をたたえてくれる人間なんてどこにもいない。せいぜい『ヘロストラトスの再来』と呼ばれて嘲笑を受けるだけだ。あんたを心から軽蔑するよ」
岩部の体はぶるぶる震えていた。おそらく、大木がそのような反応をすることを予想していなかったのだろう。
なんと愚かな人間だ、と大木は思った。こんな人間がいるから世界がどんどんづまりのどんづまりに陥っているというのに。
「誰もがあこがれているだろう。そんな世界にな。だが、それが現実の物でないからこそ、あこがれられるんだよ。もし本当にそんなことが起こったら…、あるのは恐怖だ。
暴力ってのは思ったほどかっこいいもんじゃない。もしお前が本当にその活動に参加し、戦争とは何なのか理解したら、とてもはしゃいでることなんでできやしないさ。まさかそれをお花畑だと思っているのか?
もしあんたが恐怖を感じ始めたら、もう手遅れだぜ。だれにもあんたを救うことなんてできないし、しようとも考えないだろう。昔のことを考えろ。誰にも事態が展開するのを止められなかった! いいか、亮。そしてそれに賛同するすべての馬鹿ども。ちょうど、おまえらはあの時と同じような破滅への穴道に陥っている。
あんたはその先をはっきりと知らないからそんなことが言える!
……わかってんのか? 『破滅』なんだよ!!」
岩部は何も言わないで大木の言葉を聞いている。感情の読み取れない、うつろな目で。
大木には岩部を危険な行為から救おうとする意思は全くなかった。彼はそれほど良識的な人間ではなかったし、むしろそれを気持ちがいいとさえどこかで考えていた。
「それでも自分の着飾った虚栄心で破滅に突き進むか? そうしたいならしてろ。何も言わないからな。どうなるか、どうするかはお前の自由。お前がどんな風に朽ち果て、滅んでいくか、なかなかの見ものだな。もっとも、本当にそうなってしまうのかはまだ未知数だが……」
(この時、大木は自分が胸糞の悪くなるほどの笑顔を浮かべているのに気付いた)
ただ、自分の進もうとする道の果てに何があるか考えない、岩部の愚かぶりに内心、失笑してしまったのだ。
いやもしかしたら、それがあまりにも行きすぎているがために、かえって大木の潜在意識が岩部を救おうと働きかけたのかもしれない。
やがて、岩部は大きくうつむいた。それから彼は大木に目もくれずカバンに手を出し、小さなポケットのチャックを引き開けた。
「それは…」 この時、さすがに大木も顔色を変えた。あるものが入っていたのだ。
鋭くてつやのあるものが。
「……何のために?」
そう言われた時、岩部はあまりにも嫌な気持ちであったに違いない。
「分かったぞ。それで『英雄的行動』に出ようとしたんだな」 大木はにやついてごちた。これでは岩部亮はますます侮らるべき存在ではないのか?
「普通にしゃれにならんな。いくらなんでもそれはないだろ? あんたの家族はどうなるんだ。社会生命とかにも影響するんじゃ――」
「訴えてやる!!」
すさまじい形相に岩部は立ち上がった。そこには先ほどの打ちのめされたような感じは一切なく、代わりにあふれんばかりの殺気が岩部の全身を包んでいる。
だが大木は岩部を怒らせたという実感はほとんど感じられない。
彼にとっては激しく怒っていたつもりだったのだろう――歯をむき出しにして。しかし目は驚くほど先ほどの不安定な状態を維持していた。
「なんでだ? お前を怒らせたのはお前自身だろ?」
岩部を眺めるうち、その違和感はますます募っていった。
「俺がいったい何を――」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ黙れ――っ黙れ!!
俺は高潔な存在だ。てめえら蟻どもより素晴らしい人間なんだよ! そんな栄光ある人間の俺が貴様らみたいな劣等種に見下げられてたまるか!
お前に俺を侮辱する権利があるか? お前は俺よりも上等だという保証があるのか!?」
「……」 大木は言葉を失った。岩部が想像以上に薄っぺらい存在であることに驚きを隠せなかったのだ。
それまで大木にとって不可解でありかつ神秘的なヴェールさえまとっていた岩部は、もはやただの朽ちかけた偶像と化していた。
「高潔な人間なら、そんな騷ぐようなまねはせんさ」
大木には岩部をことさらに批判する意思などなかった。
「うるさい! 俺はやるぞ。お前らが何と言おうと……」
「やめろ。声が大きい」
「それは問題にもならない。よくもこの俺を侮辱してくれたな!! せっかくお前を俺と同じ段階に引き上げようとしたのに! お前にそれを拒否する理由なんてどこにもないというのに!
なぜ、俺をこけにするんだ!」
理由を言うのさえ面倒くさい。
「失望したのさ」
不気味な表情で気色ばむ岩部は、
「俺が貴様に失望したんだ!」
「俺だって同じさ、あんたはもう少しであんたにほれるところだったってのに……」
おおきくもたれる大木。
「案外、節穴野郎だったとはな……」
岩部の顔がどすぐろく変色しつつある。
「俺の話を聴け、いいか、おい」
これ以上、耳障りは聞くまい。
大木は茫然とした顔の岩部を取り残して去っていった。
「やれやれ、もうこんなに日が暮れちまった! これじゃあ、明日までに宿題が完成できんぞ……」
一回も振り返ることはせずに。
だが、それまで大木は分かっていなかった。ちょうどこの時こそが、彼の人生を大きく変えてしまう一歩手前の地点であったことを。
× × ×
「そんなことがあったんだな…」
廃屋で二人の男が話している。暗いので表情は見えないが、聴いていた方はどうやら深い余韻にひったていたようだった。
「……そのあと、そいつはどうなったんだ?」
男は好奇心でそう問うてみる。
答えは、こうだった。
「あの後、学校の中で殺人を冒してつかまったそうだ」
「何だと?」 聴き手は信じられない、というような感じでうろたえる。
「話した通りだろ、様子がまるで違っていたって?」
すっかり落ち着きを取り戻した聴き手は、
「じゃあ……発症者だったのか?」
「さあな」 もう片方はまるで他人事のような口調で言った。
「学校の方ではすごい騒ぎになって、数日通しで当時感染者用に特別な収容所ってのがあって……そこに容れられたんだろうが、あれからあとは顔も見たことがない。
そこは確か街の中心部にあったと意うが……鉄柵に囲まれていて、内はよく見えなかった」
男はつづける。
「あそこは今さら爆撃を受けて灰になってるかもわからん。俺はあいつが今も生きてるとは考えないし、ああいうのがそう長生きするとも思えないからな」
そう語る男の頬には、一つの異様な色の筋がある。
それは見るからに痛そうな傷であった。
街のはずれで夜盗たちと出くわし、もみ合いになった際にナイフでつけられたものだ。
「結局あいつは何にもなれなかった。中途半端な意思と正義があるせいで、最後まで何もすることができなかった。
ああいう人間にもし、一線を越える力があったら、たしかにことを起こすだろうよ――名状しがたい事件、という形でな。だがそれでも奴は世界を変えられなかったろうし、世界を変えようとしたとさえ思われんだろう」
「そう言うんなら、まさしくこの社会で生きてけるようなタマじゃないな」
背後の壁によりかかりながらつぶやく初老の男。
「そいつにもし勇気があってだ、世界を変えようと何かをした時、世間の人間どもは何を言う? 誰もそいつの心の中を分かってくりゃしない。誰もがロボットみたい振る舞う中で、一人『誤作動』を起こしたやつを、ロボットどもは『粗悪品』と蔑むよ。
まして『誤作動』の果てに常識外の行動をとった人間に対して、正気気どりは『欠陥品』というレッテルをはりなおす。そしてなんでそいつが生まれたかも考えずに、世間から追い出してしまう! 道理で世の中がクソまみれなわけだ」
大木は相手の言葉を静かに聴いていた。相手が話し終わった後、ややあって大木は答えた。
「クソまみれ。いや、いつでもそうだったろう? 俺が心配してるのはそんなことじゃない。
『粗悪品』があるまじき失態を犯したところで、俺は眉ひとつ上げん。怖れるにもたらんよ。
むしろ怖いのは……」
低い声で。
「目的もないのに何か大事をしてしまうってことかな」
さきほどの軽快な声は、なにか後ろめたいものを漂わせるものに変化していた。
「人を殺して神のため、国家のため、なんて言う奴は怖くない。それはただのキチガイだからな。たいした見世物だよ。
やむにやまれぬ理由があるわけでもなく、そうしたいわけでもなく、ただ単なる現象として人を殺す! ウイルスは人間をそんな意味不明の『物体』に変えてしまう。
これ以上怖いものがあるか!?」
最後の方では、ほとんど叫びにも近くなっていた。
「……その時はいろんな言葉をこねくり回すんだろうな。狂気の沙汰だ、とか、人間のやることじゃない、とな」
男はここで、一気に声量を上げる。
「だが、げにそうなのはあんたたちの方だと言ってやりたいな! 人間の中で一人として狂気に染まる可能性のない人間なんてどこにもいやしないんだから。
あらゆる人間は狂気と理性のはざまで生きているんだ。理性的に見える人間がある一面では常軌を逸していたり、不可解に振る舞う人間に正気が宿っていたりするのは当然のことだよ」
大木は不審なものを感じた。
「それはどういうことだ? おれが言ったのは、人間が何の目的もないのに大ごとをしでかすってことに関してなんだが」
相手は腕を組み、深刻そうな口調で答えた。
「そこなんだ。あんたが言う『人間を超克した存在』の前に立たされた奴が、どんなことをやらかすかなんてわかったもんじゃない。もしかしたら人間の姿をした『何か』さえ驚かせるようなことをしだすかもしれないんだからな。いい勝負だよ」
「おまえがちょうどそういう奴だと思うが」
大木はきっぱりと言った。
「おれはもう狂っているさ。だからそんな心配はない」
しばらく黙っていたが、やがて顔をほころばせてごつ。
「やっぱり言うと意ってたさ、豊野」