本上尊の過去
それは尊が中学の時の話だ。彼には一つ下の恋人がいた。名前は香織。彼女は尊にとって幼なじみであり、妹のような存在であった。
その関係が変わったのは彼女が中学に入学してからだ。
『たけちゃんのこと好きなんだ』
その時の尊は今のように周りの人を拒絶せず、むしろ積極的に関わるような、そうやんちゃな性格をしていた。そして、思春期でもあったし何より小さいながらも香織に好意を持っていた。それが香織の告白により火がついたのだ。小さい火は大きな火になった。たったそれだけだ。そしてその火を消そうと現れたゴーストは命の火すらも消そうとした。
それは本当に平穏な日だった。たった一つを覗けば。それさえなければきっと尊は今のようにならなかっただろう。
そう思われる事件は容赦なく、尊の心を蹂躙した。
香織が尊の袖をつかんで言った。
「ねぇたけちゃん」
「どうしたんだ? 何か気になることでもあるのか」
「あそこに怖い人がいる」
香織はとても感がいい子だと尊は思っている。それは大概当たる。それは恐ろしい程に。そして、それは今動き出した。
男だった。道の真ん中にただ立っていた。それだけでは怪訝に思うだけだろう。だが、男の目を見たなら分かる。血走った目だ。それは狂気の目だった。それに気づくのに尊は遅れた。たった一瞬の遅れでそれは起こった。
目の前で血がまき散らされた。その血は。その赤は。香織から溢れ出していた。横から襲ってきたのだ。目の前の男は何だったのか。そして、横から襲ってきたのは。
その日、二人の殺人鬼が同じ場に居合わせた。偶然の偶然の偶然のそのまた偶然を通り越さなければ起こらない偶然がその日、その時起こった。
次に自分の血が溢れ出す。それはもう予定調和のように刺された。自分が刺されてからやっと香織に起こった出来事を認識できた。痛みはふりきれ意識が薄れる。地面に倒れ伏す前に香織の手を掴む。それは奇跡だった。たったそれだけのことさえ奇跡なのだ。この後はもう絶望のみが待っていた。だが、尊が二回目を刺され、香織が何度目か刺された時に偶然が起こった。警官が現れのだ。ただ巡回していた。警官は咄嗟に銃を握った。
ーーどん! どん!
その銃声は二度と鳴った。そこで尊は気を失った。冷たくなる手を震わせながら。
次に目がさめたのは病院のベッドだった。刺されたのに生きていることに尊は安堵を覚えた。そして、あの光景を思い出して飛び起きようとして両親に止められた。まだ、 怪我は治ってない、と。尊は大声で叫んだ。
「香織は! 香織はどうなったんだ!」
彼女は無事だ。その言葉だけが欲しかった。それなのに両親の顔は絶望的なまでに暗い顔をした。数分してからようやくぽつりと呟いた。
「目を覚まさないそうだ。このまま一生という可能性も……」
そこまで聞いて尊は叫んだ。それは悲しみだったか。はたまた刺されたやつに対しての憎しみだったか。尊はやがて声を小さくした。気力がなくなった。その表現が正しいだろう。尊は抜け殻のようになってベッドに倒れた。
そこから二日間熱にうなされ、その一週間後には退院した。香織は目を覚まさなかった。
「ああ。そうか」
尊の心はその時に壊れた。心は絶望で覆い尽くされ、その絶望で殻を作り上げた。それからの尊は人が変わった。中学での人に対する態度が冷たくなった。やがて、小説を一つ手に取ってからはまるで過去の何かを掴むように大量に読み始めた。それは何だったのか。そして今の尊ができあがった。
尊はいつの間にか朝になっていたことに気づいた。服が濡れているのにも気づいた。
それは過去の出来事を思い出したからだ。
「香織……俺は、いいのだろうか」
その問いに対する答えは返ってこなかった。その代わりとでもいうようにインターホンがなる。また来たのか。尊は玄関に向かう。予想通り、彼女はそこにいた。真奈だ。
「きたよ。……泣いてたの?」
尊は自分がそのままの格好で出てきたことを思い出した。そして真奈に図星を指されて慌てて誤魔化す。
「寝汗だよ。今起きたところだから」
「ねぇ今日は泊まっていくね」
聞き間違いだろうか。尊は眉を寄せてもう一度聞いた。
「なんだと?」
「今日はあなたの家にお泊まり。これは決定事項」
まるで尊の親であるかのような発言に尊は唖然とした。彼女の顔を見て本気だと分かり、尊は諦めた。こういう所は香織と一緒……そこまで考えて尊は凍りついた。香織と一緒。まるで香織みたいに。その笑みは香織みたいに。その頬を赤く染めた顔は香織みたいに。
すべては香織みたいだった。いや、香織そのものだ。
尊はそこで顔を上げた。そこには誰もいなかった。ハッと思い、急いで家の中に戻りあの時もらった祝と印されたものを探した。けれど、それは見つからなかった。まるでそれは幻のようであったかのように。
その翌日。尊の元に一つの知らせが届いた。その知らせは……。
ーー香織の死だった。