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第一章 第三話

女の子同士の恋の物語です。


去年、碧が一年生の頃、粗暴な三年生の先輩達に悩まされます。

何とかしたい碧ですが、なかなか思い通りには行きません。

そんな中、期末試験と言う碧を悩ます問題も近付いて、成績優秀な悠貴子に容赦の無い指導を受けます。

二人っきりで悠貴子の部屋で試験勉強していた碧は……

碧と悠貴子のお話、第三話です。

Ride On!


第一章


第三話


駅から少し離れた高級住宅街に碧の自宅が有った。

 碧の自宅は、一階が設計事務所で二階と三階が住居になっている。

 車が五・六台止められる庭へと入った碧が、事務所から出て来た女性を見付けた。

「あ、舞さん」

「碧ちゃん、今帰ったの?」

「はい」

 舞と呼ばれた三十代前半位の女性は、しわの寄ったシャツにジーパン姿で、文字通り、化粧っ気の無い顔に微笑を浮かべていた。

 長い割には、手入れがされていない飛び跳ねた髪の毛を手櫛で撫でながら、

「今日は皆上がったし、私もこれから帰るとこ」と、舞が碧に伝えた。

「あ、お疲れ様でした」

「それと、社長は打ち合わせで遅くなると思うわ」

「はい、分かりました」

「なんだったら、一緒に食事に行く?」

 薄い色のルージュを引いただけの顔に、微笑を浮かべながら誘う舞に、

「ありがとう、でも、叔父さんが用意してくれてるから」と、碧は微笑みながら断った。

「そうだったわね、じゃ、また今度ね」

「はい」

 舞は、碧に手を振ってから、自分の車に乗って帰って行った。

 それを見送った碧は、

「舞さんたら、相変わらずね、もうちょっとお洒落したらいいのに、せっかくの美人さんがだいなしね」と、苦笑いを浮かべながら呟いた。

 家の中に入り二階に上がると、テーブルには夕飯が用意されてあり『チンして食べてね』と、書かれたメモが置いてあった。

「叔父さん、何時もありがとう」

 碧は、夕食に一礼をしてから、おかずを電子レンジに入れて、着替える為に三階にある自分の部屋へと向かった。

 夜になって、風呂から上がった碧が、

「叔父さん、遅いな……まあ、お付き合いも有るだろうしね」と、十一時を回った時計を見て呟いた。 

 洗いあがった洗濯物を浴室横の乾燥室に干してから部屋に戻った碧は、お気に入りの曲をベッドの上で時折ギターを弾きながら時間を忘れて聞いていた。

 そして、ふと時計を見ると、

「あ、やば……」と、一時に成りそうな時刻に気付いて、慌ててヘッドフォンを外した。

 寝る前にトイレを済ませた碧が、ミルクを飲む為にキッチンに向かうと、キッチンに明かりが点いていた。

「叔父さん、帰ってるのか」

 碧がキッチンの入り口に立つと、一人の男性がテーブルに座っていた。

「おじ……」

 碧が声を掛けようとして躊躇った。

 叔父は、水割りグラスを両手で握り、テーブルに臥しながら、

「ごめん、ごめんね、姉さん……俺みたいな屑が生きていて……」と、呟きながら肩を小さく震わせていた。

 テーブルには写真立が置いてあり、笑っている二人の男女が写っていた。

「叔父さん……」

 碧の声に気付いて、叔父は体をゆっくりと起こして碧に背中を向けたまま指で涙を拭った。 

「碧ちゃん、まだ、起きてたの?」

 明らかに酔っている叔父が、碧へと振り向いて微笑んだ。

 四十歳位の叔父は、髪を短く切りそろえて、鼻の下に豊かな髭を蓄えている。

「うん、もう寝るけど……」

 碧が冷蔵庫に近付きながら、

「また、泣いてたの?」と、叔父を見ずに訊ねた。

「うん」

 外国人かと勘違いする様な彫の深い顔を曇らせて、叔父は小さく頷いた。

「時々、姉さんの事、思い出すんだぁ」

 碧は冷蔵庫からミルクを出してコップに注いでいる。

「若い頃、仕事もしないで馬鹿やってた俺がぁ、姉さん騙して、姉さんの金を、使い込んじゃってぇ……」

 水割りグラスの氷をカラカラと回しながら語っている叔父を、碧は黙って見ていた。

「義兄さんに、それが、二人の結婚資金だったて教えられてぇ、俺、姉さんに謝りに行って……そしたら姉さん……」

 叔父は水割りを一気に飲み干して、

「姉さん言ったんだよ『そのお金の大切さが分かるんなら、きっと変われるわよ』って、そう言って、笑って、許してくれたんだよぉ、自分達の結婚が一年も遅れたのに、屑だった俺を、俺を、許してくれたんだよぉ……」と言って、飲み干したグラスに再びバーボンを注いだ。

「でも、それが切っ掛けで叔父さん真面目に働くようになって、今じゃ小さいけど設計事務所やってるじゃない」

「小さいは余計だ……」

「ははは、でも、母さんもきっと喜んでるよ」

 笑っている碧を見て、

「でも、でも、姉さん、事故で義兄さんと一緒に死んじゃって、俺、俺、何の恩返しも出来なかった……」と、俯いてしまった。

「私が小学校四年の時だったね」

「うん」

「でも叔父さん、私を引き取ってくれて面倒見てくれてるじゃない、母さんも安心してるって」

「そうかな……」

「うん、きっとそうだよ」

 碧はミルクを飲み干して、

「じゃ、私寝るから、洗濯物は籠に入れといてね」と言って、グラスをシンクへと入れた。

「うん、お休み」

「お休み」

 キッチンを出て碧は、

「叔父さん、酔っ払うと何時もあれなのよねぇ……」と、呟いた。

「まいったなぁ……あれをやられる度に、私もお母さんとお父さんの事、思い出しちゃうのよねぇ……」

 碧は階段を上りながら、頬へと流れた一筋の涙を指で拭った。

「辛いのは、叔父さんだけじゃ、ないんだぞ……」

 止め処無く溢れてくる涙を両手で交互に拭いながら、碧は自分の部屋へと入って行った。

ーーー◇ーーー

 何日かが、事も無く過ぎたお昼。

 碧と悠貴子が、学食で昼食を取っていた。

「もう直ぐ期末だけど、碧、大丈夫?」

「ぐっ、食べてる時に、嫌な事言わないでよ」

 恨めし気な目で睨んでいる碧に、

「と言う事はぁ、勉強してないのね」と、冷やかな目で悠貴子が睨み返した。

 碧は、悠貴子から目を逸らして、

「やってるもん……」と、悪戯がばれた時の子供の様に弱々しく答えた。

「……嘘おっしゃい」

「……」

「中間試験忘れたのぉ?追試の嵐、懲りてないのぉ?」

「……」

「試験前、特訓しますから、一緒に試験勉強するわよ、良いわね」

「はい、宜しくお願いします……」

 碧は悠貴子に現実を叩き付けられて、普段でも余り美味しくない学食のチャーハンの味が、益々味気無い物に成ってしまった。 

「二人とも、隣、いいかな?」

 碧の後ろから、女子生徒が声を掛けて来た。

「あ、智子、千鶴」

「どうぞ」

 碧と悠貴子は二人を笑顔で迎え、二人は碧と悠貴子の隣に座った。

「どう、元気してる?」

 小柄でショートヘアーが似合う、健康的に日焼けした千鶴が微笑みながら尋ねた。

「ふっ、元気よ、千鶴は?」

「もちろん、元気だよう!」

 明るく答える千鶴を見て、

「相変わらずね」と、碧が苦笑いを浮かべた。

「智子、どうかしたの?怖い顔して……」

 黒縁眼鏡を掛けた、気の強そうな感じの智子が深刻な顔で、

「貴方達の事、そろそろ噂に上がり始めて来たわよ」と、碧と悠貴子の顔を見ながら静かに言った。

「……私達の事」

 顔を曇らせる悠貴子の前で、

「そっかぁ、ぼちぼち来たか……」と、碧も顔を曇らせた。

「中学の時から、結構噂になってたからねぇ」

「そうね、此処には西中から四十人ぐらい来てるし……」

 千鶴と智子が深刻そうに顔を見合わせた。

 碧が、煩わしい思いで頭をかきながら、

「興味半分な連中が、面白がって言ったんだろうけど、ほんと、放っといてよって感じ……」と、吐き捨てる様に言った。

「仕方ないよ、普通の人に同性愛なんて理解出来ないもの、理解出来ないものは、否定するか排除する」

 智子の話を聞いて、

「そして、馬鹿は面白がって騒ぐ……」と、碧は諦めた様に溜息を付いた。

「私達が何をしたって言うのよ……」

「碧の言い分は分かるわ、愛する事が悪い事なのかって、でもね、私は同性に対して友情以上の愛を感じる事は出来ないわ」

「だからって……」

「分かってる、だからって、貴方達の事を否定はしない、むしろ、友人として応援したい」

「智子……」

「同じ中学だったから私達絶対に聞かれると思うの、その時はしらを切るけど……何処まで隠し通せるか……」

「でも、なんか辛いな……」

「えっ?」

 皆が悠貴子を見ると、悠貴子は悲しそうに俯いていた。

「隠さなきゃいけないなんて、なんか、嘘を、自分に嘘を吐いているみたいで……」

「お雪……」

「だからって、宣伝して歩く訳にも行かないでしょ」

「智子、それはそうだけど……」

 苦笑いしている碧に、

「碧はどうなの?」と、智子が尋ねた。

「私も辛いと思ってる」

「……そう」

「誤魔化す為に、嘘吐いて、取り繕って、更に嘘吐いて、自分で自分を傷付けて……」

「碧……」

「私達が何か悪い事したの?女の子同士で愛し合っちゃいけないの?って、時々、大声で叫びたくなるわ」

「ストレス溜まってんのは分かるけど、そんな事したらお祭りよ」

「……分かってる」

「でも、私も碧と同じ気持ちよ」

「お雪……」

 優しく微笑む悠貴子に、碧も微笑を返した。

「智子や千鶴には感謝してます!」

 碧が二人を交互に見てから、テーブルに手を着いて少しおどけて頭を下げた。

「何時も味方になってくれて、それだけでも、心に余裕が出来るわ」

「後、さっちゃんや恵子、高田君と杉山君も味方になってくれて嬉しかった」

 悠貴子と碧が顔を見合わせて微笑んだ。

「なんとか、理解者が増えると良いんだけど……」

 考え込んでいる智子に、

「理解者?」と、碧が小首を傾げた。

「うん、味方は多い方が良いもの」

「でも……」

「分かってる、迂闊には言わないわ」

「そうそう、同性愛なんて聞いたら、条件反射でキモッ!ってなっちゃうからね……」

「千鶴……」

 碧は、本人達を目の前にして歯に絹を着せない千鶴を見て苦笑いを浮かべた。

「千鶴、何時も言ってるけど……あんたね、喋る前に一度、言葉を脳味噌通してから喋りなさい」

「えっ?あっ、あはっ、あっ、ごめん、あ、あの、私、何も、貴方達の事、キモイなんて、思ってないよ……」

 千鶴は智子に諭されて、申し訳無さそうに謝った。

「分かってるわよ」

 碧は千鶴に微笑んでから、 

「でも、千鶴の言ってる事は間違って無いわ……」と、諦めた様に大きく溜息を付いた。

「ねぇ、智子、テレビとかで、変なオカマとか出てるじゃない、オネェとか言ってさ、あれって同性愛って馬鹿にしてるの?」

 千鶴の問い掛けに、

「さぁね、面白可笑しく茶化しているとは思うけど」と、智子が白けた顔で言った。

「確かに、あんなの見てると、同性だったら誰でも好いみたいな感じ、あれ嫌だわ、私は、お雪の事が好きなんだからね」

「そうね、私も碧の事が好きなの」

 微笑んでいる悠貴子に、

「それと、同性愛だって聞くと、直ぐにHな事に結び付けるのよねぇ、私達は高校生らしいお付き合いって奴なんですもの、ねっ」と、碧が同意を求めた。

「ふふふ、そうね」

 見詰め合って微笑んでいる二人に、

「で、高校生らしいお付き合いって?」と、智子は眼鏡を光らせて尋ねた。

「えっ?」

「未だに付き合った男子も無く、独り身の私に御教授願いたい」

 真剣な顔で訊ねる智子を見て、碧と悠貴子は、少し困った様に顔を見合わせた。

「キス、ぐらいは、OK?」

 真剣な顔の智子が、鼻息荒く身を乗り出して、

「それとも、それ以上?」と、碧に迫った。

「あ、いや、そりゃ、今時の高校生なんだからね……その、キスぐらいは、OK……かな、って、ねっ、お雪」

 顔を赤くして戸惑っている碧に振られて、

「えっ?ええ、そうねぇ……キスぐらいなら……」と、悠貴子も顔を赤くして俯いてしまった。

 恥ずかしそうにしている二人を白けた目で観察して、

「……分かりやすい二人ね」と、智子が呆れた。

「智子、どう言うことよ……」

「二人はキスまでの関係だって事」

「なるほど、私も高田君とキスしたよ」

「えっ!」

 皆が驚いて千鶴の方を向いて、

「何時の事よ!」

「何で報告しないのよ!」

「そうよ、水臭いわよ!」と、攻め立てた。

 脳味噌を通さず、条件反射で白状してしまった千鶴は、

「えっ、あのね、その……」と、後悔しながら、たじろいだ。

 皆に攻め立てられ、戸惑っている千鶴に、

「さぁ、正直に報告願いましょうか」と、智子が、黒縁眼鏡の奥で怖い目をキラリと光らせて尋ねた。

「あの、私達、高校が別々になっちゃたでしょ、それでね、卒業して、ちょっと寂しいなって思ってて、春休みに高田君が私の家に遊びに来て、それで……」

「春休みの時!」

「随分と昔じゃないの!」

「ははは、だね……」

 恥ずかしそうに俯いている千鶴に、

「なんで黙ってたのよ」と、碧が不満そうに言った。

「だって、恥ずかしいもん……」

「なら、何で今になって白状した?」

 智子に、刑事の様に尋問されて、

「あの、智子が二人もキスしたって言うから……」と、口篭りながら答えた。

「あっ、そうよ、碧もお雪も何時キスしたのよ!私ばかりずるい!二人も報告しなさいよ!」

 立ち上がって迫る千鶴を見て、

「えっ、あの、それは……」と、碧はたじろいだ。

「どうなの?何時したの?」

 好奇心に目を輝かせて更に迫る千鶴に、

「いや、その、実は……」と、碧は顔を逸らした。

「なんなの?」

 碧の態度を不信な目で見ながら智子が尋ねると、

「実は、その、まだ……してない……」と、碧が言い難そうに口篭った。

「えっ、してないの!」

「うん……」

 碧は頷くと、悠貴子と一緒に顔を真っ赤にして俯いた。

「噂に成るぐらい何時も一緒に居た仲良しさんがぁ、えっ、なに?キス如きがまだなの?そんな事、とっくにしてると思ってたのに」

「私も」

「だって、私達、付き合いだしたのは中三の夏だよ……」

「そうよ、まだ一年経ってないのよ……」

「十分長いじゃない?私も高田君と付き合いだしたのその頃よ」

 恥ずかしそうに顔を真っ赤にして俯いている二人を見て、当てが外れた二人は、不満そうな顔で椅子に座りなおした。

「だったらなに?キスぐらいならって、希望的意見なわけ?」

「はい……」

 恥ずかしそうに俯いているふたりを見てから、

「つまらん……」と、智子が憮然と上を向いた。

「ごめん……」

「さて」

 智子が改めて千鶴の方へと向いて、

「それでは、詳しいお話を伺いましょうか、先輩」と、好奇心に目をキラリと輝かせた。

「へっ?」

「うん、私も聞きたい、キスの先輩!」

「うんうん」 

 皆に迫られて、顔を真っ赤にしながら戸惑っている千鶴に、

「お昼休みの時間は、まだまだ長いわよ」と、口元に意味深な笑みを浮かべて智子が更に迫った。

「えっ、そんな……」

 昼休みの学食で三人に取り囲まれて、千鶴は洗いざらい、事細かに、大切な甘い思い出を白状させられた。 

ーーー◇ーーー

 その日の放課後、清掃当番で少し遅くなった碧が音楽室へと向かっていた。

「キス、か……」

 昼休み、千鶴に白状させた事が、碧の頭に過ぎった。

「そりゃ、私だって、正常に成長してるんだから……」

 未知への好奇心と羞恥心が入り混じり、やり場の無い悶々とした思いが込み上げて来た。

「キスしたい、したいとは思っては居るけど、どうすりゃ良いのよ?」

 千鶴の成功例を聞かされても、それがそのまま応用出来るとは思えない。

「タイミングなのよねぇ……」

 ある意味、夢見たいな甘いシュチュエーションを碧は期待しているが、現実においてドラマの様なタイミングは期待出来るはずもない。

「よしっ!この夏の目標だ!」

 そんな目標より、目前に迫った期末試験への目標を立てるべきなのだが、碧の脳内は、悠貴子の柔らかそうな唇で埋め尽くされていた。

 音楽室のある旧校舎の階段を碧が昇ろうとした時、鈴木達が階段を下りて来るのが見えた。

「あれっ?先輩」

「あっ、東郷……」

 気不味そうな顔で碧を見ている鈴木に、

「どうしたんですか?」と、他の部員も見ながら碧が尋ねた。

「先輩達が、練習、するからって……」

 言い難そうに話す鈴木に、

「先輩って、三年生ですか……」と、碧が鈴木を睨み付けた。

 無言で頷く鈴木に、

「それで、また逃げて来たんですか」と、碧が悔しい思いを込めて訊ねた。

「おい、東郷、言い過ぎだぞ」

「でもっ!」

 鈴木を庇う様に川崎が碧の前に立つと、

「先輩達も部員なんだ、練習しても良いだろ、俺達は邪魔しない様にしているだけだ」と、言い訳をした。

「でも、部外者も居るんでしょ、それで良いんですか?」

「……」

 碧の言葉に鈴木と川崎は黙ってしまった。

「碧ちゃん、そんなに怒らないで」

「千佳ちゃん……」

 千佳と順子が階段の下で立っている碧に近付き、

「外で練習しよ……」と、千佳が遠慮気味に碧に言った。 

「私、大丈夫だから、部活、辞めないから」

「千佳ちゃん……」

「だから、外で練習しよ」

「……」

 千佳と順子の訴える様な目を見て、

「うん……」と、碧は二人の思いを理解して頷いた。

 碧達が外へ出ようとした時、行き成り爆発音が響いた。

「ひっ!」

 身を屈めて、爆発音に続き工事中の様な騒音が響いている階段の上を、碧は恐る恐る見た。

「な、何なんですか、あれ……」

 訳が分からずに、碧が鈴木に尋ねると、

「先輩達だよ」と、鈴木が短く答えた。

「先輩達って、でも、何やってんですか、あれ」

 鳴り止まない騒音の中、

「ヘビメタ、だって……」と、鈴木が吐き捨てる様に答えた。

「ヘビメタ?今時?」

 碧は、呆れた様に階段の上を見て、

「でも、あれって、演奏なんてレベルじゃ無いでしょ」と、眉を顰めた。

「あれじゃ、ドラムやアンプ、部の備品なのに壊されちゃいますよ」

「待て!東郷」

 階段を昇り始めた碧の肩を掴んで鈴木が止めると、

「止めさせないと、壊されますよ!」と、碧は鈴木の手を振り払った。

「川崎先輩も、良いんですか!先輩もあのドラム使うんでしょ!」

「……」

 碧に言われて、川崎は悔しそうに俯いた。

「いいです、もう、先輩が問題起こすなって言うんなら、私、先生に言って来ます」

「えっ、まてっ!」

 止める鈴木の言葉を振り切って、碧は職員室へと向かった。 

 新校舎の二階にある、職員室のドアを勢いよく開けて、碧は中を見回した。

 そして、顧問の先生を見付けると、

「林先生!」と、呼びながら近付いて行った。

「ん、なんだ東郷」

 初老の教師が飲んでいた湯飲みを置いて碧の方へと向くと、

「先生、三年生の事、何とかして下さい!」と、教師の前に立った碧が訴えた。

「三年生?ああ、あいつらか、あいつら、何かしたのか?」

「何かって、先生、ご存知無いのですか?」

「だから、何のことだ」

 面倒臭そうに訊ねる教師に、

「無茶苦茶じゃないですか!演奏なんて言って、楽器壊しますよ、あいつら!」と、詰め寄った。

「楽器を壊したのか?」

「そうじゃなくて、壊しそうなぐらい滅茶苦茶演奏して、いえ、馬鹿騒ぎをしてるんですよ!」

「馬鹿騒ぎかどうか、僕はあまり音楽の事は詳しくないからな」

「そんな……」

 碧の訴えに、まるで関心が無いかの様な顧問の態度に、碧は呆れた。

「どうせ旧校舎だろ、他に部活もやってないし、迷惑にはならんだろ」

「でも、あのままじゃ壊しますよ、壊したら弁償させるんですか」

「皆で使ってた物なんだろ、じゃ、その生徒が壊したからって、責任を一人に押し付る事なんて出来ないだろ、経年劣化と言うのもあるし」

「経年劣化って……」

「壊れたら、部費で修理すればいいだろ」

 噛み合わない会話に、碧は苛々を募らせ、

「そんな問題じゃありません!」と、叫んでしまった。

 顧問の教師が煩わしそうに碧の方へと向いて、

「なぁ、東郷、お前、何が言いたいんだ?」と、明らかに迷惑そうな顔で言った。

「何がって……」

「そりゃ、三年生の評判が悪い事は知っている、だけど、同じ軽音部だろ、彼等には彼等なりの表現と言う物があるんだ、お前一人が、一概に否定する事は出来んだろ」

「部外者だって混じってるんですよ」

「入部希望の生徒かも知れんだろ」

「三年生ですよ……有り得ません」

「あのな、東郷、そう言う事はな、個人の自由という範囲も有るんだ、彼らを悪だと最初から決め付けて、お前の考えを押し付けるのもどうかと思うぞ」

「……」

「まぁ、暴力事件や窃盗をしたって言うなら、話は別だがね」

 顧問の、全くお門違いの対応に、碧は呆れて声が出なかった。

「それにね、僕は今年度で定年なんだよ、煩わしい事に巻き込まないでくれるかな」

「……」

「部員同士の問題は、部員同士で話し合って決めなさい」

 開いた口が塞がらないと言う言葉を、碧は始めて体験した。

 もう何を言っても無駄だと感じた碧は、

「……分かりました」と、礼もせずに身を翻して職員室を後にした。

「林先生、何か問題でも?」

 騒ぎを聞いていた教頭先生が、林先生に尋ねると、

「いえいえ、自分の主張が通らない事に、我侭を言ってただけですよ」と、何事も無かったかのようにに答えた。

「そうですか……」

「居るんですよ、全てに置いて、自分の言い分が正しいと思っている子供が、はははは」

 顧問の教師は笑ってから、残っていた既に冷めてしまったお茶を飲み干した。

ーーー◇ーーー

 職員室を出た碧が、旧校舎裏の中庭へと続く廊下を歩いていた。

 三年生達への怒りが、既に情けない思いとなって、碧は半ば無気力に陥っていた。

「……もう、どうにでもなれって感じね、馬鹿馬鹿しい……」

 軽音部の皆が練習している中庭に出て、碧は順子達の居る所へと向かった。

 既に、工事の様な騒音は止んでいたが、四階の窓から、馬鹿笑いしている声が時折聞えた。

「碧ちゃん」

 碧に気づいた順子が碧へと近付いて来た。

「順ちゃん……」

「どう、だった?」

 碧の様子を見て、期待出来ない事が分かってしまった順子が、碧に遠慮気味に尋ねた。

「うん……」

 どう報告して良いやら分からない碧は、黙って俯いてしまった。

「相手にされなかったろ」

「えっ」

 鈴木の、結果が分かっていたような口ぶりに、碧は少し驚いた。  

「俺達もね、何もしなかった訳じゃないんだよ」

「先輩」

「まぁ、座れよ」

 鈴木がレンガを積んだ花壇の淵に座ると、碧も隣に座った。

「去年、三学期に入ってから、先輩達、あんな感じになってね」

 碧の方を見ず、鈴木は俯き加減で話し出した。

「俺達も、引退した三年生の先輩達や先生に相談したんだけど、何の解決にも成らなくて」

 溜息を付いてから、

「それどころか、三年生の先輩から注意を受けて、かえって奴等は逆ギレしたみたいでね、更に凶暴になってしまったんだよ」と、悔しそうに話した。

 碧にとって、そんな話は既にどうでもよかった。

 結局は、何をやっても解決しない。

 それは、碧自身、既に知っている事だったから。

 そして、答えは分かってはいたが、

「でも先輩、どうするですか?これから……」と、碧は鈴木に尋ねた。

「どうもしない、どうにも出来ない……」

「でも……」

「東郷の気持ちは分かるって言ったろ、でもな、変に逆らって奴等が逆切れして、誰かが怪我でもしてみろ、部活の活動停止だぞ、文化祭にも参加出来ないんだぞ」

「ふっ、まるで脅迫ですね」

 碧が、やけくそ半分、馬鹿にした様に言うと、

「どうとでも言え!俺は、文化祭に出たいんだ!」と、鈴木が碧を睨んだ。

「奴等が勝手に部活以外で問題起こして処分を受けたって、俺達には関係ない、でもな、部活で部員同士で問題起こして見ろ、どうなるかは分かるだろ、それだけは絶対に避けたいんだ」

「先輩……」

「俺は、軽音部が好きだ、だから守りたい、あんな奴等の為に、軽音部を汚されたくない、だから、その為だったら、どんな我慢でもしてやる!」

 普段に無く真剣な目で睨み付ける鈴木に、碧は力強い迫力を感じた。

「すまん、分かっている、これは俺の勝手な心情だ、東郷に無理強いする積りは無いけど」

 鈴木は普段の柔らかい笑顔に戻って、

「でもな、協力はして欲しいんだ」と、碧に微笑んだ。

「……」

 碧は、モヤモヤした気持ちの中、何もしない事意外に何か無いのかと考えたが、そんな事は直ぐには思い付かなかった。

 だけど、三年生に対しての怒りだけで動いていた自分より鈴木の方が、部活の事を真剣に考えていた事だけは分かった。

 完全に納得は出来ないものの、

「分かりました、先輩……」と、碧は鈴木に頭を下げた。

「うん、ありがとう」

 その時の鈴木の笑顔を見て、碧の鼓動がドキッと一つ高鳴った。

ーーー◇ーーー

 何日か過ぎたある日。

 碧は選択科目の音楽の授業を受けていた。

「お雪も、音楽選択してくれたらよかったのに……」

 美術と音楽の選択科目授業では、二クラスを分けて合同でしている。

 その為、同じ音楽を選択すれば、一組の悠貴子と二組の碧は一緒に授業を受ける事が出来たのだが、悠貴子は美術を選択していた。

 恋人同士とは言え、お互いを束縛しないと言う、暗黙のルールがある二人。

 言ってみれば、碧が美術を選択すれば良い事なのに、碧はそれを譲らなかった。

 しかし、音楽、特にロックが好きな碧にとって、学校の授業はただ退屈なだけで、

「ああ、私が美術選択すればよかったなぁ」と、碧は今更ながら思っていた。

 そんな退屈な時間の中、碧は深く悩んでいた。

「くっそう……タイミングが掴めないのよね……」 

 期末試験が迫り、連日、悠貴子の部屋で試験勉強している碧は、

「二人っきりなのに、何でタイミングが掴めないのよ……」と、悩んでいた。

「大体、お雪が悪いんだわ、何もあんなに真剣にならなくても……」

 自分の不甲斐なさを棚に上げて、容赦の無い悠貴子の厳しい指導に碧はうんざりしていた。

「無理やり押し倒して、キスをする……いやいや、その後のお雪の復讐が怖い……第一、そんなムードの無いファーストキスは絶対に嫌よ……」

 等と、思春期の乙女は悩んでいた。

「東郷さん」

 授業が終わり、教室を出ようとしていた碧が先生に呼び止められた。

「何でしょうか、加藤先生」

 立ち止まった碧が振り返ると、

「ちょっと、職員室で聞いたわよ」と、先生が近付いて来た。

「えっ?何の事です?」

 訳が分からずに聞き返す碧を睨むように見て、

「貴方、職員室に怒鳴り込んだんですって」と、問い詰めた。

「ああ、この間の……」

 林先生に抗議しに行った事を思い出し、

「怒鳴り込んだって程のものじゃないんですけどね……」と、照れながら答えた。

「ほんと、馬鹿ね」

 呆れてみている先生に、

「馬鹿って……」と、碧は不服そうに唇を尖らせた。

「黙ってられないって事は分かるけど、林先生に言っても無駄よ」

「ええ、十分に分かりました」

「私は非常勤の講師だから、あまり貴方達に構ってやれないけど、副顧問として、あの三年生の事は気にはしていたの」

「だったら、なんとかして下さいよ」

 投げ遣りな態度で碧が言うと、

「なにを?」と、先生が冷たい口調で問い返して来た。

「なにをって、三年生の横暴な態度をです!」

 先生の言い方に腹を立てた碧が、怒鳴るように訴えた。

「音楽室を独占して、私達追い出して、しかも、部外者を連れ込んで、備品を乱暴に扱って、私達、あんな環境では練習出来ません!」

「鈴木君達は、それでも練習しているわよ」

「鈴木先輩は……」

 鈴木の事を言われて碧は言葉に詰まった。

 鈴木の気持ちが分かった今では、ただの事なかれ主義者だと碧は言えなかった。

「あのね、三年生は毎日来るわけではないでしょ、受験を控えた今、時間を作って好きな音楽をやりに来たんだから、先輩に譲ってあげたら?」

「そんな……」

「備品を乱暴に扱ってるって、東郷さんがやっているジャンルに比べたら、彼らのやっているジャンルの方が激しいって事じゃないの?」

「そんなレベルじゃありません!現に、ハイハットだって、スネアだって変形しているし、バスだって変な傷み方してます!アンプだって、あんな使い方してたら、どうなるか分かりませんよ!」

 大声でまくし立てる碧に、

「そんな事、分かっているわよ」と、先生は困ったように言った。

「えっ?」

「貴方が言いたい事は、十分理解しているわよ」

 申し訳なさそう俯く先生に、

「理解、してるって……」と、碧は不思議そうに尋ねた。

「私も色々とやったの、でも駄目だった」

「駄目だった?」

「あのね、どんな生徒でも留年しない限り三年で出て行くの、だから周りは、身を縮めて目と耳を閉じていれば通り過ぎて行く嵐みたいに思っているの」

「そんな……」

「高圧的な態度や、粗暴な振る舞いも、周りの生徒がどう感じようが、それは一個人の感想であって、彼らの個性に文句を言う権利は無いって」

「個性って……」

「それが周りの教師達の意見よ」

「……」

「彼らに付いては、軽音部だけの問題じゃなくて学校の問題なの、結局、事件でも起こさない限り、学校側は対応しようとはしないわよ、あのね、例え脅迫や傷害事件が起きたって“いじめ”だ何て言葉を濁したりするのよ、それさえも、関われば煩わしいんだから、見て見ぬ振りする学校は沢山あるわよ」

「……」

「私も何とかしたいとは思っているけど、どうにも出来ない、それにね、正直言って、あんな子達には係わり合いたく無いって言うのも本音なの」

「でしょうね……」

「御免なさい……」

 申し訳なさそうに俯いている先生に、

「でも、先生は私達の味方なんだ」と、碧がニコッと微笑んだ。

「えっ?」

「誰も味方に成ってくれないって、不安じゃないですか」

「……」

「先生一人でも、味方になってくれるんなら、少し安心です」

 微笑んでいる碧を見て、

「ごめんね、大した事は出来ないけど」と、申し訳なさそうに微笑んだ。

「でも、二学期からは私も時間が取れるから、勤務の火曜と木曜日は部活に出れると思うの」

「ほんと?」

「ええ」

「じゃ、先生が来てくれる日は、私達、安心して練習出来ますよね」

 嬉しそうにしている碧に、

「それは、どうかな……」と、先生が自信無さそうに苦笑いを浮かべた。

「だって、林先生なんて、まったくの幽霊顧問ですよ」

「幽霊顧問って……しょうがないでしょ、世界史の先生なんですもの」

「少しでも、今の環境が良くなるんだったら、私、嬉しいです」

「東郷さん……」

 期待を込めた笑顔の碧を見て、先生は少し不安になっていた。

 そんな先生の気持ちを察して、

「まぁ、三年生の態度が変わらなくても、味方が傍に居てくれるだけで、私達も心強いですから」と、慰める様に言った。

「うん、どれだけ力になれるか分からないけど、頑張るわ」

 笑顔を浮かべる先生に、

「じゃ、失礼します」と、碧は一礼をして音楽室を出て行った。

ーーー◇ーーー 

「でね、嬉しかったのよ、ほんと」

 悠貴子の部屋で、悠貴子と向かい合わせにローテーブルの前に座って、碧が嬉しそうに話している。

 ナチュラルな木目を基調とした家具並び、女の子らしいレースで飾り付けられたカーテンに寝具。

 ハードカバーの書籍が並ぶ書棚には、デフォルメされた可愛らしい縫ぐるみが幾つか置いてあった。

 そんな悠貴子の部屋で、

「先生に一人も味方が居ないんじゃ無いかって、不安だったのよ」と、嬉しそうに今日の出来事を話していた。    

「はい、そんな事より、次の問題」

「……」

 感情を一切感じられない冷たい悠貴子の言葉に、

「まだ、やるのぉ?……」と、碧が上目使いで悠貴子を見ながら、尻込みした。

「あのね、まだやるのって、まだ、始めたばかりでしょ」

「……」

「せめて、平均点は取ってよね」

「……」

「分かってるの」

「はい……」

「はい、次、二つの数式をグラフで表した時、交わる点は何処か?」

「……」

 悠貴子が示す問題を見て『なんでabcを曲がった線にしなきゃいけないのよ……』と、文句を言いたかったが、碧は悠貴子の顔色を見て、大人しく問題に取り組む事にした。

 問題を解きながら、

「あのさ、私達、付き合ってるんだよね……」と、碧がぼそっと言った。

「今は、関係ありません」

 悠貴子にきっぱりと言われて、

「でもね、もうちょっと、その、雰囲気とか……それなりの会話とか……」と、遠慮気味に言った。

「今は、必要ありません」

「もう、疲れたぁ!」

「もう少し問題が進んだら休憩します」

「……」

 事務的な悠貴子の回答に、碧は諦めて問題に専念する事にした。

 それから一時間ほど、みっちりとabcやxyzと格闘して、碧は精魂尽き果てていた。

「……」

 やっと休憩時間となって、オーバードライブで脳味噌がフリーズしてしまった碧は、ローテーブルに倒れ込んでいた。

「はい、お待たせぇ」

「ふにゃ?」

 お盆にアイスティーを入れたグラスを乗せて、悠貴子が部屋へと帰って来た。

 悠貴子は碧の隣へと座ると、ストローを挿したグラスと一緒にフレッシュとシロップを並べた。

「碧、フレッシュとシロップ入れる?」

「たっぷり入れて、脳味噌が甘いものを欲しがってるの……」

 虚ろな目で訴える碧に、

「はいはい」と、笑いながら返事をして、悠貴子はフレッシュとシロップを二つづつ入れた。

「はう、美味しい……」

 アイスミルクティーを一口飲んで、碧は勉強から開放された時間に安らぎを感じた。

「休憩したら、現国よ」

「いっ!」

 安らぎのひと時に、行き成り槍を突き刺され碧は目を見開いた。

「まだ時間はあるでしょ」

「九時には帰らないと……」

「自転車で十分ほどでしょ、碧の家まで」

「……」

 出来れば残りの時間を、悠貴子との甘い時間にしたかった碧は、当てが外れて落ち込んだ。

 そんな碧の隣に座って、微笑を浮かべながらアイスミルクティーを飲んでいる悠貴子を見て、

「なに?お雪、楽しそうね」と、碧が不思議そうに尋ねた。

「ええ、楽しいわよ」

 悠貴子が、微笑みながら碧の方へと向くと、

「だって、碧と一緒ですもの」と、少し頬を染めて言った。

「えっ……」

「試験勉強だけど、最近ずっと一緒だもの」

 その時の悠貴子の笑顔が、とても優しくて、とても綺麗で、碧の脳内温度が急上昇した。

 そして、のぼせた様な少しぼやけた視界に、悠貴子のピンク色の柔らそうな唇だけがはっきりと見えた。

「お雪……」

 自制心と言う物が、本能と言う物に踏み付けられて身動き出来ない状態になった時、碧は悠貴子の両肩に手を置いていた。

「えっ?」

 突然の事に悠貴子が驚いていると、碧はそのまま悠貴子を押し倒した。

「きゃっ!」

 短い悲鳴と共に押し倒された悠貴子は、辛うじて、グラスをローテーブルに置いた。

「碧……」

 真剣な目で見詰めている碧に、悠貴子は少し戸惑った。

 突然の事で、碧が何をしようとしているのかは分かってはいるが、心の準備が出来なかった悠貴子に未知への不安が膨らむ。

「……」

 碧が黙ったまま悠貴子へと顔を近付けると、悠貴子は目を閉じて体を硬く縮めていた。

 碧の唇が近付いて来る、ほんの数秒の時間を、目を閉じながら悠貴子はとても長く感じていた。

 その長い時間に悠貴子の心中では、碧への思いと好奇心への期待とが入り混じり、鼓動が高鳴り体が熱くなって来た事を感じていたが、急に不安が込み上げて来て、それが恐怖に変わった。 

 悠貴子の唇へと数センチに迫り、碧が目を閉じた瞬間、

「いや……」と、小さく言って悠貴子が顔を逸らした。

「えっ……」

 碧は、何が起きたのか分からずに寸前の所で止めて目を開けた。

 そして、目を硬く閉じて顔を逸らしたままの悠貴子の横顔を見ながら、碧はゆっくりと体を起こした。

「ごめんなさい……」

 見詰めている碧に、悠貴子は目を閉じたまま謝った。

 そんな悠貴子を見て、

「はぁ……」と、溜息を大きく付いて、碧は悠貴子の体の上から降りた。

「私こそ、その、ごめん……」

 悠貴子に背を向けて、碧が謝った。

 強引な事をした事で、碧は申し訳なさと後悔で落ち込み、そして、恥ずかしくて悠貴子の顔が見れなかった。

 体を起こして乱れたスカートの裾を直すと、悠貴子は膝を抱えて座ってる碧の背中に凭れ掛り、背中どうしを会わせて座った。

「ごめんね、碧の気持ちは……嬉しいの……」

 呟くような小さな声で悠貴子が言うと、

「ううん、私こそごめん……」と、碧が力無く誤った。

「怖かったの……」

「怖かった?」

「うん……」

「……そっか」

 背中を寄せて座っている二人に、暫くの沈黙が流れた。

「ねぇ、私達が出会った時の事、覚えている?」

 沈黙を破って悠貴子が碧に尋ねた。

「えっ?ええ、覚えているわよ、中学一年の時でしょ」

 背中越しに碧が答えると、

「あの時って、碧、酷かったわね、くすっ、まるで大昔の女番さん」と、笑いながら悠貴子が言った。

「やめてよ、その話は……」

 過去の恥ずかしい自分を思い出し、碧は更に落ち込んだ。

「凄かったわよね、小学校出たばかりなのに、先生にまで喧嘩売って」

「だから、止めてって……」

「あの時でも碧、背が高かったから……あっ、今、何センチ?」

「……百七十八cm……」

 口篭りながら答える碧に、

「今でも、貧弱な男子なら敵わないわね」と、楽しそうに悠貴子が言った。

「それも、気にしてるんですけど……」

 落ち込む様な事ばかり言われて、碧は『もしかして、これってお雪の復讐?』と、勘ぐった。

「でも、そんな碧が大好きです」

 背かなに伝わる、悠貴子が笑っている感触に、

「お雪……」と、碧は少し戸惑った。

「私ね、両親を事故で亡くして、その上、小学校六年生の時に大好きだった従姉のお姉ちゃんが癌で死んじゃって、あの頃って、なんか物凄く荒れちゃってて……」

「従姉のお姉さん?それは初めて聞いたわ」

「うん、私にね、ギターを教えてくれた三つ年上のお姉ちゃんなの」

「そうなの」

「優しくて、綺麗で、大好きだった……でも、お姉ちゃん、中学三年生の時に癌で……」

 悲しい思い出を話す碧は、抱えていた膝を更に強く抱えた。

「高校に合格した時、お姉ちゃんのお墓に報告に行って、涙が止まらなかったの」

「どうして?」

「私、お姉ちゃんの成れなかった高校生になって、なんか、それが、とても、悲しくて……」

「碧……」

 碧が泣いている事を、悠貴子は背中で感じた。

 人は生きている限り当然年を取り、死んだ人を追い越してしまう。

 そんな当たり前の事を悲しく感じた、碧の従姉に対する気持ちが悠貴子には分かった。

「愛してたの?……」

「かも知れない、小学生で、その時は良く分からなかったけど……愛していたと思う」

 暫くの沈黙の後、

「お父さん、お母さん、そしてお姉ちゃん……大好きだった人達が死んじゃって……ふっ、あの時の私って、全世界の不幸を背負い込んじゃった様な気で居たからね」と、碧が苦笑いを浮かべた。

「そうだったわね、最初は嫌な子って印象が強かったけど、碧のご両親が亡くなってる事聞いて、何となく気に成っちゃって」

「それで、こっちが無視してるのに、勝手に構いに来て」

「なかなか勇気が要ったのよ、あの頃の碧に声を掛けるの」

「ははは、それで、えっと……なんだったかなぁ?なんか言い争いしてたんだっけ?その時お雪が「寂しいのは貴方だけじゃないのよ!』って、私にビンタを与えてくれた」

「ふふふ、その後、二人とも壮絶なビンタ合戦で、頬が思いっきり腫れちゃった」

「ははは、周りで見ていた女子が泣きながら止めに入ってくれたっけ」

「ふふふ、そうだったわね」  

 笑いながら背中どうし合わせていた二人が向きを変えて、お互いの肩を寄せ合った。

「あんな事したのに、お雪ったら、また私に構って来て」

「うん、怖いもの知らずってとこかしら?」

「ほんと、馬鹿じゃないのって思ったわよ」

「もう、碧ったら、酷い!」

「ははは、でも、嬉しかった……」

「えっ?」

「なんか、お雪が私の寂しさを埋めてくれているみたいで……」

「碧……」

「お雪だって、寂しかったのにね」

「うん、碧のとは全然違うけどね」

 碧が悠貴子の肩に手を回して抱き寄せる。

「どうなの、お父さんとは会え無いの?」

「うん、向こうにも、向こうの都合が有るからね……」

 悠貴子が少し顔を曇らせて、碧の胸に凭れ掛った。

「もう、諦めてる……」

「何度かは会ったんでしょ?」

「ええ、小さい頃はね、でも本宅が優先だもの」

 少し笑った悠貴子が顔を曇らせて、

「もう、顔も忘れたわ……」と、悲しそうに呟いた。

「碧と違って、私のお父さんは生きているけど……」

「生きているのに会えないって、それはそれで悲しいよ、私は、ある意味、今は納得しているもの」

「それだけじゃないの」

「なに?」

「最近思ったのよ、私のせいで、私が生まれたから、お母さん、他の人と結婚も出来ずに居るんじゃないかって……」

「そんな」

「お父さんは、私の事を認知はしてくれたけど、本宅の奥さんの手前、お父さんの会社で働いていたお母さんを同じ所に置いておく訳には行かなくて、こっちの支店に転勤させて……お母さん、一人で可哀そう……」

「お雪……」

「でも、転勤は結果として、碧に出会えたから、良かったかも」

 寂しそうな顔で碧を見て、

「でも、お母さん、可哀そう……」と、悠貴子は碧の胸に顔を埋めた。

「お雪……」

 泣いているのか、小刻みに震える悠貴子を、碧は強く抱き締めた。

「何時も私は一番じゃなかった、本宅のお兄さんとお姉さんが一番で、私は要らない子……お母さんだって、私のせいで悲しい思いして、やっぱり私は要らない子、私なんか生まれて来なければ……」

「やめてよ!」

 胸に寄りかかっている悠貴子の肩を掴んで引き離し、碧が悠貴子を睨み付ける。

「そんな事、言わないでよ!」

 悠貴子の言葉が情けなくて、碧は涙を浮かべながら、

「要らない子だ何て、言わないでよ!私が、私がお雪の事、一番好きな事知ってるくせに、そんな事言わないでよ!」と、叫ぶように言った。

「碧……」

「私じゃ駄目なわけ!私がお雪の事、一番愛していても駄目なの!お父さんやお母さんには敵わないかも知れないけど、私じゃ駄目なの!」

 涙を浮かべている碧を、暫く黙って見詰めて、

「貴方に会えて、本当によかった……」と、悠貴子は抱き付いた。

「お願い、お雪、そんな事は二度と言わないで」

「うん、ごめん……」

「お雪は、私の為に生まれて来たの、私が一番貴方と出会いたかったの」

 碧の言葉が悠貴子の心へと優しく染込み、悠貴子の心を躊躇わせていた足枷を解かした。

「神様、感謝しています、碧と会わせてくれて、本当に感謝しています」

「お雪……」

 強く抱き締めて来る悠貴子を、碧は強く抱き締めた。

「私、碧の事が好きよ、愛している」

「うん」

「でもね、上手く言えないけど、碧の思いを素直に受け入れるのが怖くて……」

「お雪……」

「不安だったの、やっぱり女同士って、変よね、だから、碧が何時か私から離れて行くんじゃないかって……」

「そんな!」

「だけど、碧は私の居るべき場所を教えてくれた、そして貴方の居る場所を教えてくれた」

「ええ、私は此処に居るわ」

 悠貴子は碧から体を離して、

「だから、今なら、怖くない……」と言って、静かに目を閉じた。

「じゃ、覚悟してね、もう、絶対に離さないから……」

 碧の言葉に悠貴子は目を瞑ったまま頷く。

 そして、ゆっくりと、碧は静かに悠貴子と唇を重ねた。

 悠貴子の暖かさが、碧の唇を通して伝わって来る。

 悠貴子の柔らかさが、碧の唇を通して伝わって来る。

 まるで、二人が溶け合う様に伝わって来る。

 今は何も考えない、考えられない、ただ、至福の中に二人は身を任せていた。

 唇を離した碧の顔を、潤んだ瞳で暫く見詰めていた悠貴子が、

「私も碧を絶対に離さない……」と、碧を強く抱き締めた。

 女同士で愛し合う事への不安。

 それを、碧なら、きっと消し去ってくれる、悠貴子にはそんな思いもあった。

 そして、二人は再び唇を重ねてから少し離れて、お互いの顔を見て、

「くすっ」と、笑った。

 お互いの想いを繋いだ口付け、所詮、それが幼い恋心だったとしても、二人にとっては大切な大切な思い出。

 悠貴子は碧の額に自分の額を付けると、

「じゃ、現国は明日ね」と、くすっと笑った。

 碧もくすっと笑ってから、

「だ、ま、れ」と言って、自分の唇で悠貴子の口を塞いだ。


最後まで読んで下さってありがとうございました。m(__)m

感想等いたたけましたら幸いです。

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