引退公爵は貴族の世を終わらせたい
引退公爵は、貴族の世を終わらせたい
王宮の庭では、白い薔薇が盛りを迎えていた。
楽団の奏でる音楽が流れ、招待客が芝生の上を行き交う。その中央で、アレクは婚約者から別れを告げられた。
「あなたとの婚約は、解消させていただきます」
セシリアの声はよく通った。近くにいた者たちが会話をやめる。彼女の父である侯爵は、止めようともせず、娘の隣に立っていた。
「理由を聞いても?」
アレクは静かに尋ねた。
「公爵位を弟君にお譲りになっただけでなく、王宮にもお顔を出さず、領地のことにも口をお出しにならない。これでは、わたくしの父も困ります」
セシリアは視線をそらさずに答えた。
「君と結婚するのは、私だと思っていたが」
「そういう言い方をなさるから……」
セシリアの頬が赤くなった。
「わかった。書類はそちらから届けてくれ。私も署名しよう」
アレクの返事があまりにもあっさりしていたせいか、侯爵が眉をひそめた。
「アレク殿。両家の結びつきが失われる意味を、よくお考えいただきたい」
「お考えになったから、ここで申し出たのでは?」
アレクが返すと、侯爵は口を閉ざした。
アレクは二人に一礼し、人の輪を離れた。
この国には、四つの公爵家がある。
東西南北にそれぞれの領地を持ち、その中央に王室の直轄地があった。軍も財も、四家と王室とで大きな差はない。王冠を戴く者も、公爵たちの同意なしに国を動かすことは難しかった。
婚姻は、その均衡を保つための手段だった。
アレクが爵位を弟に譲ったことで、侯爵家が欲しがっていたものは、婚約相手の手からなくなった。それだけの話である。
「アレク。もうお話は済んだの?」
振り向くと、義母が立っていた。
華やかな薄紫のドレス。その胸元に、青い石が光っている。
アレクは足を止めた。
銀の細工で小さな葉を重ね、その中央に雫形の石を留めた首飾り。
母の形見だった。
「……それを、どこで?」
義母は胸元に指を添えた。
「ああ、これ? しまっておくのももったいないでしょう。お父様がお許しくださったのよ」
青い石が揺れた。
その瞬間、アレクの鼻先に紅茶の香りがよみがえった。
窓辺の椅子。風に膨らむカーテン。自分の頬に触れる、母の冷たい指。
『これは、お祖母様からいただいたものなの。いつか、あなたの大切な人に渡してね』
母は笑っていた。
けれど、その頬には涙が流れていた。
頭の奥に、鋭い痛みが走った。
アレクはこめかみを押さえた。足元の芝生が遠のき、代わりに、雨に濡れた灰色の道が見えた。
見知らぬ建物。窓を埋める灯り。机の上に重ねられた紙。
(いや、知らないのではない。忘れていたのだ)
身分のない国で生きたことがある。役所に勤め、道路や水道の工事を調べ、支払われた金の行方を追っていた。偉い者の親族だからという理由で、仕事のできない人間が責任ある席につく。そのせいで何が起きるかも、知っていた。
「どうしたの? 顔色が悪いわ」
義母の声で、庭に引き戻された。
アレクはゆっくり手を下ろした。
「その首飾りは、母が私に残したものです」
「でも、あなたが持っていても使えないでしょう?」
「それは母の財産です。返してください」
義母の笑顔が消えた。
「こんな場所で、何を言うの。もう少し大人になって――」
「留め金を、ご自分で外せますか。侍女を呼びましょうか」
周囲の視線が集まり始めた。
義母は唇を結び、首の後ろに手を回した。外した首飾りを差し出すとき、青い石を握り込んだ。
アレクは彼女が手を開くまで待った。
「ありがとうございます。財産の管理は、きちんとしなければなりませんね。使い込みは感心しません」
受け取った銀は、温かかった。
それがひどく不快で、彼はハンカチに包んで内ポケットへしまった。
「お前は、何をするつもりだ」
声をかけてきたのは、今の公爵である異母弟だった。
「婚約を解消して、首飾りを返してもらった」
「そういうことではない。最近、桃源国の使節と会っているそうだな」
「ああ。話が面白い」
桃源国との国交が開かれたのは、つい最近のことだった。
海の向こうにあるその国では、役人を試験で選ぶという。貴族の爵位がなくても学べる場所があり、商人が自分の船を持ち、農民が土地を買うこともできる。
使節から聞いたときは、珍しい仕組みだと思った。
今なら、その話の続きを聞きたかった。試験を誰が採点するのか。学ぶ金のない子どもはどうするのか。役人が不正を働いたら、誰が調べるのか。
「こちらの事情を話してはいないだろうな」
「私は引退した。政治には関わらない」
「父上が心配している」
「なら、そう伝えてくれ。爵位も軍も、お前に渡した。王宮で何かを要求するつもりもない」
弟はしばらく兄の顔を見つめていた。
やがて、安心したように息を吐いた。
「それならいい」
その背中を見送り、アレクは庭の隅へ歩いた。
噴水の向こうに、白髪の男が立っていた。北の国境を守る辺境伯である。
「久しぶりだな、アレク」
辺境伯が声をかけてきた。
「伯爵も、お変わりなく」
「お前は変わった。子どものころより、静かになった」
辺境伯は、アレクがまだ幼かったころ、何度か母とともに滞在した屋敷の主だった。
あの屋敷では、台所に入っても叱られなかった。厩の子どもたちと遊び、兵士に木剣の握り方を教わり、夕方になると皆で焼きたてのパンを分けた。
「覚えているか。馬丁の息子に負けて、泣いたことを」
「泣いていません」
「では、目に砂が入ったのだったな」
アレクは、今日初めて笑った。
「伯爵は、彼を叱りませんでしたね」
「勝った子どもを、どうして叱る」
「父なら、公爵家の子に勝つなと叱ったでしょう」
辺境伯の笑みが薄れた。
「国境では、敵の矢は家名を選ばん。腕の立つ者を育てなければ、皆が死ぬ」
アレクは噴水を見た。
水の向こうでは、父が義母を伴い、侯爵と話していた。婚約がなくなっても、彼らの園遊会は何事もなく続いている。
「伯爵。領地に、空いている建物はありますか」
「何に使う」
「学校を作りたいのです。家名ではなく、学びたい者が入れる学校を」
「金は?」
「私個人の財産があります。母の遺産も。横領されてなければいいのですけど……桃源国から教師を招くことも考えています。まずは読み書きと計算から。冬の間だけでも通えるようにしたい」
辺境伯はすぐには答えなかった。
「お前の父親は、嫌がるぞ」
「許可などいりません」
「王宮で政治には関わらぬと言っているそうだが」
「ええ。それは守ります。議席も、官職も要りません」
アレクは内ポケットに触れた。
前世では、血筋で仕事が決まることを理不尽だと思っていた。それなのに、この世では公爵家に生まれたというだけで、命令する側に立っていた。
弟に爵位を譲りさえすれば、離れられると思っていた。
だが、母の形見一つ守れなかった。母が残したものさえ、父が許したというだけで他人の胸に飾られる。
「貴族の世を、壊したいのです」
辺境伯の目が細くなった。
「四公爵家と王室を相手に、戦う気か」
「学校を一つ作ります」
アレクは答えた。
「学んだ者に仕事を頼み、働きに応じて金を払う。伯爵の領地で育った子どもが、家名を尋ねられる前に、自分のできることを示せるようにしたい」
「それで、変わるか」
「変わらなければ、二つ目を作ります」
しばらくして、辺境伯が低く笑った。
「昔もそうだったな。木剣で負けた翌朝、誰より早く庭に出ていた」
「今度は、泣きませんよ」
「ああ。砂の入らぬ場所を用意しておこう」
楽団が新しい曲を奏で始めた。
アレクはもう、庭の中央を振り返らなかった。
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