↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

引退公爵は貴族の世を終わらせたい

掲載日:2026/10/22

 

 引退公爵は、貴族の世を終わらせたい


 王宮の庭では、白い薔薇が盛りを迎えていた。


 楽団の奏でる音楽が流れ、招待客が芝生の上を行き交う。その中央で、アレクは婚約者から別れを告げられた。


「あなたとの婚約は、解消させていただきます」


 セシリアの声はよく通った。近くにいた者たちが会話をやめる。彼女の父である侯爵は、止めようともせず、娘の隣に立っていた。


「理由を聞いても?」


 アレクは静かに尋ねた。


「公爵位を弟君にお譲りになっただけでなく、王宮にもお顔を出さず、領地のことにも口をお出しにならない。これでは、わたくしの父も困ります」


 セシリアは視線をそらさずに答えた。


「君と結婚するのは、私だと思っていたが」


「そういう言い方をなさるから……」


 セシリアの頬が赤くなった。


「わかった。書類はそちらから届けてくれ。私も署名しよう」


 アレクの返事があまりにもあっさりしていたせいか、侯爵が眉をひそめた。


「アレク殿。両家の結びつきが失われる意味を、よくお考えいただきたい」


「お考えになったから、ここで申し出たのでは?」


 アレクが返すと、侯爵は口を閉ざした。


 アレクは二人に一礼し、人の輪を離れた。


 この国には、四つの公爵家がある。


 東西南北にそれぞれの領地を持ち、その中央に王室の直轄地があった。軍も財も、四家と王室とで大きな差はない。王冠を戴く者も、公爵たちの同意なしに国を動かすことは難しかった。


 婚姻は、その均衡を保つための手段だった。


 アレクが爵位を弟に譲ったことで、侯爵家が欲しがっていたものは、婚約相手の手からなくなった。それだけの話である。


「アレク。もうお話は済んだの?」


 振り向くと、義母が立っていた。


 華やかな薄紫のドレス。その胸元に、青い石が光っている。


 アレクは足を止めた。


 銀の細工で小さな葉を重ね、その中央に雫形の石を留めた首飾り。


 母の形見だった。


「……それを、どこで?」


 義母は胸元に指を添えた。


「ああ、これ? しまっておくのももったいないでしょう。お父様がお許しくださったのよ」


 青い石が揺れた。


 その瞬間、アレクの鼻先に紅茶の香りがよみがえった。


 窓辺の椅子。風に膨らむカーテン。自分の頬に触れる、母の冷たい指。


『これは、お祖母様からいただいたものなの。いつか、あなたの大切な人に渡してね』


 母は笑っていた。


 けれど、その頬には涙が流れていた。


 頭の奥に、鋭い痛みが走った。


 アレクはこめかみを押さえた。足元の芝生が遠のき、代わりに、雨に濡れた灰色の道が見えた。


 見知らぬ建物。窓を埋める灯り。机の上に重ねられた紙。


(いや、知らないのではない。忘れていたのだ)


 身分のない国で生きたことがある。役所に勤め、道路や水道の工事を調べ、支払われた金の行方を追っていた。偉い者の親族だからという理由で、仕事のできない人間が責任ある席につく。そのせいで何が起きるかも、知っていた。


「どうしたの? 顔色が悪いわ」


 義母の声で、庭に引き戻された。


 アレクはゆっくり手を下ろした。


「その首飾りは、母が私に残したものです」


「でも、あなたが持っていても使えないでしょう?」


「それは母の財産です。返してください」


 義母の笑顔が消えた。


「こんな場所で、何を言うの。もう少し大人になって――」


「留め金を、ご自分で外せますか。侍女を呼びましょうか」


 周囲の視線が集まり始めた。


 義母は唇を結び、首の後ろに手を回した。外した首飾りを差し出すとき、青い石を握り込んだ。


 アレクは彼女が手を開くまで待った。


「ありがとうございます。財産の管理は、きちんとしなければなりませんね。使い込みは感心しません」


 受け取った銀は、温かかった。


 それがひどく不快で、彼はハンカチに包んで内ポケットへしまった。


「お前は、何をするつもりだ」


 声をかけてきたのは、今の公爵である異母弟だった。


「婚約を解消して、首飾りを返してもらった」


「そういうことではない。最近、桃源国の使節と会っているそうだな」


「ああ。話が面白い」


 桃源国との国交が開かれたのは、つい最近のことだった。


 海の向こうにあるその国では、役人を試験で選ぶという。貴族の爵位がなくても学べる場所があり、商人が自分の船を持ち、農民が土地を買うこともできる。


 使節から聞いたときは、珍しい仕組みだと思った。


 今なら、その話の続きを聞きたかった。試験を誰が採点するのか。学ぶ金のない子どもはどうするのか。役人が不正を働いたら、誰が調べるのか。


「こちらの事情を話してはいないだろうな」


「私は引退した。政治には関わらない」


「父上が心配している」


「なら、そう伝えてくれ。爵位も軍も、お前に渡した。王宮で何かを要求するつもりもない」


 弟はしばらく兄の顔を見つめていた。


 やがて、安心したように息を吐いた。


「それならいい」


 その背中を見送り、アレクは庭の隅へ歩いた。


 噴水の向こうに、白髪の男が立っていた。北の国境を守る辺境伯である。


「久しぶりだな、アレク」


 辺境伯が声をかけてきた。


「伯爵も、お変わりなく」


「お前は変わった。子どものころより、静かになった」


 辺境伯は、アレクがまだ幼かったころ、何度か母とともに滞在した屋敷の主だった。


 あの屋敷では、台所に入っても叱られなかった。厩の子どもたちと遊び、兵士に木剣の握り方を教わり、夕方になると皆で焼きたてのパンを分けた。


「覚えているか。馬丁の息子に負けて、泣いたことを」


「泣いていません」


「では、目に砂が入ったのだったな」


 アレクは、今日初めて笑った。


「伯爵は、彼を叱りませんでしたね」


「勝った子どもを、どうして叱る」


「父なら、公爵家の子に勝つなと叱ったでしょう」


 辺境伯の笑みが薄れた。


「国境では、敵の矢は家名を選ばん。腕の立つ者を育てなければ、皆が死ぬ」


 アレクは噴水を見た。


 水の向こうでは、父が義母を伴い、侯爵と話していた。婚約がなくなっても、彼らの園遊会は何事もなく続いている。


「伯爵。領地に、空いている建物はありますか」


「何に使う」


「学校を作りたいのです。家名ではなく、学びたい者が入れる学校を」


「金は?」


「私個人の財産があります。母の遺産も。横領されてなければいいのですけど……桃源国から教師を招くことも考えています。まずは読み書きと計算から。冬の間だけでも通えるようにしたい」


 辺境伯はすぐには答えなかった。


「お前の父親は、嫌がるぞ」


「許可などいりません」


「王宮で政治には関わらぬと言っているそうだが」


「ええ。それは守ります。議席も、官職も要りません」


 アレクは内ポケットに触れた。


 前世では、血筋で仕事が決まることを理不尽だと思っていた。それなのに、この世では公爵家に生まれたというだけで、命令する側に立っていた。


 弟に爵位を譲りさえすれば、離れられると思っていた。


 だが、母の形見一つ守れなかった。母が残したものさえ、父が許したというだけで他人の胸に飾られる。


「貴族の世を、壊したいのです」


 辺境伯の目が細くなった。


「四公爵家と王室を相手に、戦う気か」


「学校を一つ作ります」


 アレクは答えた。


「学んだ者に仕事を頼み、働きに応じて金を払う。伯爵の領地で育った子どもが、家名を尋ねられる前に、自分のできることを示せるようにしたい」


「それで、変わるか」


「変わらなければ、二つ目を作ります」


 しばらくして、辺境伯が低く笑った。


「昔もそうだったな。木剣で負けた翌朝、誰より早く庭に出ていた」


「今度は、泣きませんよ」


「ああ。砂の入らぬ場所を用意しておこう」


 楽団が新しい曲を奏で始めた。


 アレクはもう、庭の中央を振り返らなかった。




いつもお読みいただき、ありがとうございます!


誤字や脱字をご指摘いただけることにも、心より感謝しております。

とても助かっています。


作品を楽しんでいただけましたら、ブックマークや★★★★★で応援していただけると嬉しいです。


短編なのにブックマーク? と不思議に思われる方もいらっしゃるでしょうか?


ブックマークがポイントにつながりますので、よろしくおねがいします。


また、ページ下部にある「ポイントを入れて作者を応援しよう」からポイントを入れていただけましたら、大変励みになります。


これからも、どうぞよろしくお願いいたします。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。