第九章 浄化
東部戦線の報告が来た。
報告書には「印持ちによる儀式」と書かれている。
儀式。複数の印持ちが同じ場所で同じ時間に印の力を使った。
組織的な印の使用。
報告書には帝国軍の命令があったとは書かれていない。
だが書かれていないことが、逆に前提とされていることを意味する。
帝国軍の東部戦線の戦略の中にある前提。
証明の必要がない事実。
結果。
東部戦線のスラブ系住民の組織的な殺害。
規模は数百名。
数百名。
規模。
今夜の報告書にも、二千人という前の報告書と同じ種類の数字がある。
死者の数は、印の進行の燃料の量だった。
量が多いほど、印の進行が強くなる。
ハルメアスが報告書を読んでいた時、兄が将校室に入った。
「見た」
ジュリアノスは言った。
印持ちの儀式を見たという意味。
現場にいたということ。
兄の身体に何かがある。
目の色の中にある光。
近い焦点の中に別の近いものが入っている。
興奮のような質。
印の使用で印が深くなった時に身体が反応する。
「良かった」
ジュリアノスは言った。
声には親切のような音がある。
だが今夜、別の質があった。
親切ではなく陶酔。
印の力の使用が快楽になった。
印の中の存在の意志と印持ちの自己の意志が同じ方向になった。
「浄化だ」
浄化という言葉がジュリアノスの口から出る。
ハルメアスは手を止めた。
「……浄化」
「そうだ。汚れを除去する」
「スラブ系住民が、汚れ」
「そうだ」
印の進行によって正義という概念が変わっていた。
印の中の存在の意志が正義の定義を決めている。
印持ちの人間性が印の中の存在の意志に置き換えられた。
「……帝国のため、ですか」
「帝国のためだ」
ジュリアノスの声には陶酔の質がある。
空虚の中に陶酔が入った。
正義は快楽になっていた。
それは印持ちの印の進行の最も危険な段階だった。
印持ちによる儀式の裏側には教団がある。
教団が印持ちを使った。
帝国軍には明確ではない。
だが印の読みで見る者には見える。
ハルメアスは印の読みで見た。
東部戦線の印の波を、遠い場所の印の影響として感じる。
印の使用によって印の中にある他の存在が大量の絶望のエネルギーを吸収した。
大量殺害の絶望から得たエネルギー。
大量殺害が印の進行の燃料になっていた。
印の中の存在が強くなると、印持ちの自己の意志が置き換えられる。
それが印の進行の構造だった。
兄の看過。
印持ちによる儀式の大量殺害を知っていて何もしなかった。
ハルメアスの印の読みで見えたのは、兄の印の中にある存在が儀式を見て満足したという感覚の波だった。
満足した。
印の進行の燃料が得られた。
印の中の存在は印持ちの行動の結果を、印の進行の利益として計算していた。
印持ちは、印の中の存在の道具になっていた。
「……兄は知っていて何もしなかった」
ハルメアスは呟いた。
「何を言っている」
ジュリアノスは冷たく言った。
「……いえ」
ハルメアスは視線を落とした。
疑問ではなく事実だった。
印の読みで見たことの確実性。
兄の看過とエリーゼの省略。
知っていて何もしなかった者。
複数いる。
別の組織で、別の理由で、同じ行為を何もしなかった。
共罪の萌芽。
アントワーヌ・デュポンが戦線に現れた日は、同じ月の末だった。
「フランシア大佐です」
彼は自己紹介した。
三十七歳。
外套の中には印の使用による戦功勲章がある。
印持ちだ。
だが別の種類の印持ちであることが見えた。
印の読みで見ると、印の中にある他の存在の声の質が、ハルメアスの印の中の声と異なっていた。
冷たいのではなく、冷静。
印の声を封じているのではなく、印の声と対話している。
対話とは、印の中の存在の声と対話をしているということ。
印の中の存在の意志と別の意志が同時にある。
別の意志。
アントワーヌの人間としての意志。
印の中の存在の意志とは別に存在していた。
人間性が印の進行によって消えていかない。
「印持ちとして、理性を保っておられる」
ハルメアスは言った。
「……見えるのか」
アントワーヌは静かに言った。
「印の読みで」
「そうか」
短い沈黙。
「封じるのではなく、対話する」
アントワーヌは言った。
「それが私の方法だ」
「……対話」
「声を意識の中に受け入れる。別の声と共にある」
「共存、ですか」
「そうだ」
印の中の存在と自己が共に存在する。
印の進行が続く中で、人間性が置き換えられるのではなく、印の中の存在と共にある。
それが理性を保つ別の方法だった。
「……どうやって」
ハルメアスは訊いた。
「妻と娘が死んだ」
アントワーヌは言った。
その事実を、言葉で言った。
印の中の存在の声とは別の声。
人間としての声だった。
「印を獲得したのは復讐のためだ」
「……復讐」
「そうだ。私の意志で印を獲得した」
アントワーヌの印の根源には、別の動機がある。
「印の中の存在と、私の意志は別だ」
アントワーヌは続けた。
「印の声は聞こえる。だが私の意志もある」
「……共存」
「そうだ。共に存在する」
ハルメアスの中に、希望の種が入った。
希望とは、別の印持ちの別の対応策があるという事実。
まだ実現していないが、まだあるという可能性。
印の中の存在の意志の方向に向かっていく印の進行とは反対の方向。
印持ちの人間性の残り。
「あなたにも可能だ」
アントワーヌは言った。
「……可能、ですか」
「まだ遅くない」
その言葉が、今夜のハルメアスの中に入った。
まだ遅くない。
まだ。
その言葉の中に、希望があった。




