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深淵の印  作者: らっすん
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第七章 選ばれし器


 印の声が近くなった夜の翌日。

 接触があった。


 塹壕の東側の補給路。

 ハルメアスは一人になった。


 一人になる時間は副官としての仕事に組み込まれている。

 補給の確認には一人で現場を見る必要がある。


 だがそれは弱点でもあった。

 一人になる時間を、相手は計画に入れていた。


 補給路の入り口。

 土の崩れた壁の裏側。


 塹壕の本体から別の通路で辿れる場所。

 狭い通路。身体が窮屈になる。

 注意力が分散する。


 裏側に入った瞬間、声があった。


 言葉ではない。

 意味を持つ声。


 印の中に入るような声。

 印の中にある他の存在の声と同じ質。

 だが他の存在の声ではない。


 別の存在の声だ。

 印の外側にある存在が、印の質の声で意味を伝えている。


 印を持つ者のみが感じる声。


「あなたこそ選ばれし器」


 その意味が印の中に入った。


 十六歳の夜、印の中から「選ばれし者」と聞いた。

 今夜は「選ばれし器」。


 者と器。

 人間と入れ物。


 変化していた。

 印が進行している。


 土の壁の裏側に人物が見える。


 長い外套を羽織った男。

 年齢は三十代後半。

 外套の裾が泥に汚れている。


 潜入した痕跡が全身にある。

 見えることを避ける訓練された動き。

 だが見える場所にいる。


「深淵の徒」


 男は自己紹介した。


「あなたの印の特殊性を知っている」


 ハルメアスは声を出さなかった。

 印の読みで相手の印を見る。


 印持ちの技術。

 相手の印の深さと、印の中にある他の存在の質を読む。


 男の印は深い。

 ハルメアスの印レベル一に対して、この男はレベル三以上。


 深い印には多くの知識がある。

 印の中にある他の存在が伝えた情報。


「印の中にある声を聞いているだろう」


 男は言った。


「あなたの印は印の最初の種子を持っている」

「……最初の種子」

「他の印持ちにはない。帝国の研究者も知らない事実だ」


 印の最初の種子。

 印の中にある他の存在の古い部分。

 印を最初に世界に持ち込んだ存在の種子。


 その種子を持つ印持ちは、印の力の根源に近い。


「何を求めている」


 ハルメアスは言った。

 言葉が出る。


 八年間何も言わなかった。

 だが今は言葉が出る。

 それも印の進行による変化だった。


「何も求めていない」


 男は答えた。


「あなたの印を見るためにここにいる」

「見る、だけか」

「今夜は。次には別の方法がある」


 男は外套の中から印の文書を出した。


 印で書かれた文字。

 印持ちの間で使われる印の言語。


 帝国軍の公式には存在しない言語。

 だが印持ちの間では共通語だった。


「読めるなら、読んでいい」


 男は文書を土の壁の上に置いた。


「印の進行が次の段階になった時、また来る」

「……次の段階」

「そうだ。器が完成に近づく時だ」


 男は消えた。


 見える範囲の外に出る。

 素早く、訓練された動き。


 印の読みで見ると、男の印の存在は遠くなっていく。

 潜入と撤退に訓練された印持ちの動き。


 ハルメアスは印の文書を手に取った。


 印の言語の記号を読む能力はある。

 印の使用によって開く能力。


 文書の内容は深淵教団についてだった。


 印を組織的に使わせている組織。

 印持ちを集めて印の力を目的に使わせる。

 帝国とは別の組織。


 別の組織が印持ちを集めている。

 帝国軍の印の使用が唯一ではなかった。


 印の世界の別の面が、今夜初めてハルメアスの中に入った。


「あなたこそ選ばれし器」


 その言葉が印の言語の記号として文書にあった。


 選ばれし器。

 印の根源に近い印持ちのこと。


 帝国に使われている印持ちが、別の組織に選ばれている。


 支配されていることの裏側。

 別の組織が見ているという事実。


 支配の中に、逃げる方向があるかもしれない。

 その可能性が印の中の声と同じタイミングで近くなっていた。


 印の進行の中で、印の中の存在の意志の方向に向かっていく。

 だがその反対方向に、人間性を維持する方向に向かう可能性。


 それが今夜、印の中に入ったある種の光だった。


ーーー


七日後、エリーゼ・ヴァルナーが配属された。


「情報部の中尉です」


 彼女は自己紹介した。


 身長はハルメアスの肩の高さまで。

 長い髪が帽子の裏側に半ば収まっている。

 塹壕の入り口に立った姿。


 情報部。

 帝国軍の情報収集と分析を行う部隊。

 印持ちの監視も仕事の一つだった。


 監視とは、印持ちの行動を記録すること。

 行動の全てを見る。

 夜の行動も含まれる。


「副官の行動のレポートを作成するために配属されました」


 エリーゼは言った。

 声には平静がある。


 内側にある何かを見せない訓練された動作。

 だがその訓練の中に何かの存在がある。

 見える者には見える。


「……分かった」


 ハルメアスは答えた。


「報告は第一王子殿に」

「はい」

「夜の行動も記録するのか」

「……必要があれば」


 短い沈黙。


「では、案内する」


 ハルメアスはエリーゼを将校室へ案内した。


 歩きながら、印の読みでエリーゼを見る。

 印の読み。相手の印の開口の有無と質を見る技術。


 エリーゼの印の開口はある。

 だが印を持っていない。


 印の開口があるのに印を持っていない。

 印が入る空間は人間の中に最初からある。

 印を持っていない者にも開口は存在する。


 しかし、印を持っていない者の開口には、印の中にある他の存在の声がない。


 声がない開口。

 それは空虚だった。


 空虚の中には、印が入る可能性だけがある。

 何も入っていない空き間。


 だがその空き間の周囲に、別のものが入っていた痕跡がある。

 印の読みで見る者には、印の開口の周囲の波として感じ取れる。


「……何か」


 エリーゼが訊いた。


「いや」


 ハルメアスは視線を戻した。


「何でもない」


 だがエリーゼの目には、何かが宿っていた。

 空虚の中にある何か。


 それが何なのか、ハルメアスにはまだ分からなかった。


 将校室に着いた。


「ここが私の部屋だ」

「……狭いですね」

「塹壕だからな」

「そうですね」


 エリーゼは部屋を見回した。

 見ることを開く訓練された動き。


「報告書はここに」


 ハルメアスは机の上を指した。


「毎晩、記録をつける」

「……分かりました」


「質問はあるか」

「いえ」


 エリーゼは短く答えた。


「では、持ち場を案内する」


 二人は将校室を出た。


 雨が降り始めていた。

 塹壕の泥の壁が濡れていく。


 エリーゼの目は、ハルメアスの手袋に覆われた左手を一瞬見た。

 印が隠されている手を。


 その視線に、ハルメアスは気づいた。

 だが何も言わなかった。


 監視が始まった。


 だがそれは一方的な監視ではなかった。

 ハルメアスもエリーゼを見ている。


 印の読みで。

 空虚の中にある何かを。


 互いに見る。

 互いに隠す。


 それが二人の関係の始まりだった。


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