第六章 夜の声 BL描写アリ
夜になると、兄が呼ぶ。
「呼ぶ」という言葉は正確ではない。ハルメアスの印が感じる。遠い位置にある第一王子の印の存在が、印を通じて「今ここに来い」という意味を伝える。言葉ではなく、意味が直接伝わる。印同士の間に構築される通信の一つ。印持ちの間では「呼び出し」と呼ばれる。
呼び出しは拒絶できない。呼び出し側が強い印を持っている時には、呼ばれた側に拒絶する力がない。ジュリアノスの印はハルメアスの印より深い。印の中にある他の存在がより近い。その深さが呼び出しの強さになる。
拒絶できない。その事実がある限り、呼び出しは命令と同じものだ。
ハルメアスは呼ばれた夜に、将校室の奥側の個室に向かう。足が動く。意志ではなく、印が動かしている。左手の甲の下で、印が微かに脈打つ。熱を持つ。兄の印と共鳴している。
第一王子の個室は狭い。土の壁に木張りの一面。ランプが一つ。温度は塹壕の泥の温度と同じで、暖かさはない。狭い。冷たい。暗い。その三つが兄の場所だ。
この空間の中で行為が行われる。場所は戦争の中にあるが、行為は八年間の中にある。場所は現在だが、行為は過去から続く。
ハルメアスは入る前に、玄関の土の上で動作を停止する。入ること自体に、身体の中で何かが抵抗する。八年間の事実の積み重ねで、この抵抗は慢性的になっている。慢性的なものは習慣になっていて、習慣になったものは感情の外側にある。感情の外側にある抵抗は、身体の反応になっている。
しかし今夜も、微かに感じる。それは完全に習慣になっていない証拠だ。その微かな抵抗が、ハルメアスの人間性の残りの一つだ。残りの一つ。それが微かに感じる動作の中にある、人間という事実の証拠だった。
「入れ」
ジュリアノスの声がある。声には今夜も親切のような音がある。親切が支配と同じ声で出る。それがハルメアスが幼少期から、愛とは何かの感覚を歪めた根源だ。兄にとっては、弟を支配すると弟に親切にするは同じ行為だと信じている。
信じているのか、知っていて信じているのか。区別できない。ジュリアノスの信じる事実の真実は、永遠に分からない。
ハルメアスは入る。ランプの光が揺れる。兄の影が壁に伸びる。ジュリアノスは立っている。軍服の上着を脱いだ姿。白いシャツの袖を捲り上げている。腕に刻まれた印の線が見える。青白い光は消えているが、紋様は残っている。
「お前は俺のものだ」
ジュリアノスは言った。言葉は淡々とある。命令ではなく、事実の陳述のような声で。ハルメアスは何も言わない。八年間、同じ場面が繰り返される。場所が変わっても、王宮の地下室が戦場の塹壕になっても、「お前は俺のものだ」という事実の陳述は変わらない。
印の構造の中で兄が上位にある。その事実が永続する。印の構造が変わらないから。永続する。今夜も。明日も。印の力がある限り。その無限の中を生き延びる中で、愛とは何かが問いにならなかった。
兄が近づく。足音が土の床に響く。ハルメアスの身体が硬直する。兄の手がハルメアスの肩に触れる。冷たい指先。触れた瞬間、皮膚が震える。
「緊張しているな」
低い声。親切のような響き。しかし親切ではない。兄の手がハルメアスの顎を持ち上げる。顔を見る。目を見る。冷たい目の色。しかし目の奥に、別の何かが燃えている。所有欲。支配欲。愛欲。三つが混じって、一つの視線になっている。
兄の指先がハルメアスの唇に触れる。唇を辿る。軽い圧力。しかし圧力の下に、命令がある。声が落ちる。
「開けろ」
ハルメアスの唇が開く。意志ではなく、習慣が開かせる。八年間で身体に刻まれた反応。兄の指が口の中に入る。舌に触れる。歯に触れる。喉の奥まで入る。ハルメアスの喉が反応する。咳き込みそうになる。しかし抑える。八年間で学んだ。抵抗すると長引く。受け入れると早く終わる。
兄の指が口から出る。濡れた指先が、ハルメアスの首筋を辿る。冷たい唾液が皮膚を這う。首筋から鎖骨へ。鎖骨から胸へ。兄の手がハルメアスの軍服のボタンを外す。一つ、また一つ。布が開く。肌が露わになる。ランプの光が胸を照らす。
兄の視線が胸を見る。所有するように見る。見ることが支配の開始になる。
「お前の身体は俺のものだ」
声が耳元に落ちる。熱い息が首筋に当たる。冷たい指先と熱い息。温度の矛盾が身体を混乱させる。兄の唇が首筋に触れる。吸う。皮膚を吸う。歯が軽く噛む。ハルメアスの喉から小さな声が漏れる。痛いのか、それとも別の何か。自分でも分からない。
兄の手が胸を這う。乳首に触れる。指先で弄ぶ。摘む。捻る。ハルメアスの身体が震える。意志とは無関係に、身体が反応する。八年間で学んだ反応。習慣になった反応。感じてしまう。感じたくないのに、感じてしまう。身体の裏切り。
兄の手が腰に触れる。ベルトを外す。布を下ろす。下半身が露わになる。冷たい空気が肌に触れる。ハルメアスの身体は震えている。兄の手が太腿の内側を辿る。皮膚が震える。指先が深く入る。侵入の感覚。
ハルメアスの喉から声が漏れる。抑えきれない声。兄の指が動く。中で動く。開く感覚が広がる。痛みがある。しかし痛みの中に、別の感覚が混じる。快楽。痛みと快楽が混濁する。どちらがどちらか分からない。
兄の呼吸が荒くなる。熱い息が耳元に落ちる。
「お前は反応する」
声が耳元で囁く。熱い吐息が耳朶を濡らす。
「俺の手に反応する。俺の声に反応する。お前の身体は俺を知っている」
事実だった。身体は知っている。八年間で覚えた反応。拒絶したいのに、身体は受け入れている。兄の身体が押しつける。壁に背中が押しつけられる。逃げ場がない。石の壁に背を当てた十六歳の夜が、泥の壁に背を押しつけられる今夜に重なる。
兄が深く入る。痛みが走る。鋭い痛み。身体が裂かれるような痛み。しかし痛みの中に、印が応答する。左手の甲に熱が生まれる。青白い光が皮膚を這い始める。手の甲から、手首へ。手首から、腕へ。光が這う感覚は、何かが身体の中に入る感覚。虫が皮膚の下を這うような異質さ。
印の開口が広がる。身体が開くと同時に、印が開く。二つの開口が同時に起こる。兄の動きが激しくなる。身体が揺れる。壁に背中が擦れる。印の光が広がる。上腕へ、肩へ。青白い光が身体を這い上がる。
同時に、兄の腕の印も光る。二つの印が共鳴する。光が脈打つ。心拍のように脈打つ。印同士が接続する。接続の瞬間、意味が流れ込む。支配の方向が確認される。兄から弟へ。上位から下位へ。その方向が、印の構造の中に書き込まれる。刻まれる。固定される。変えられない。
ハルメアスの身体は汗で濡れている。冷や汗。恐怖と快楽が混じった汗。兄の呼吸が耳元で激しくなる。熱い息が何度も落ちる。ハルメアスの喉から声が漏れる。抑えきれない声。痛みと快楽が混じった声。印の光が全身を覆う。身体の奥で何かが開く。大きく開く。印の開口が最大になる。
その瞬間、声が聞こえる。遠い声。冷たい声。印の中にある他の存在の声。
「あなたこそ選ばれし者」
意味が流れ込む。兄の身体の中にある支配の重みと同時に、印の中にある遠い何かの存在。二つの存在が、同時にハルメアスの身体を満たす。兄が深く押しつける。最後の一押し。熱いものが身体の中に注がれる。同時に、印の光が身体の中に沈む。皮膚の表面から、深い場所へ。印が身体の一部になる。今夜も。
兄の身体が離れる。冷たい空気が汗で濡れた肌に触れる。ハルメアスは壁に背を当てたまま、動けない。身体は震えている。太腿の内側に、痛みと濡れた感覚が残っている。印の光は消えている。しかし熱は残っている。印が刻まれた場所が、じんじんと熱を持っている。
兄が衣を整えている。冷たい目が、もう一度ハルメアスを見る。満足の視線。所有を確認した後の視線。
「愛とは?」
ハルメアスは言った。言葉が出る。今夜は言葉が出る。声は小さい。かすれている。しかし言葉になっている。八年間、何も言わなかった。何も言わないが唯一の生存戦略だった。その中で、言葉が出る。言葉にならなかった問いが、言葉になった。印の深い場所にある声が今夜近くなった。その事実と同じタイミングで。
「何を」
ジュリアノスが停止した。愛という言葉が弟の口から出る。今夜の事実だ。兄にとっても、弟が言葉を言うことは想定していなかった。何も言わないのが当然だった。その当然の外側にある事実が、停止になった。
「愛とは何だ?」
ハルメアスは繰り返した。声は震えている。しかし問いは明確だ。八年間の中で初めて、問いを口にする。愛とは何か。兄が愛と呼ぶものは、本当に愛なのか。
「愛は」
ジュリアノスは言った。声の質が微かに変わった。親切のような響きが消え、冷たい真実だけが残る。
「お前と俺の間にある。それだけだ」
その言葉には、支配と愛が同じ言葉として扱われている。兄にとっては、お前を支配すると、お前を愛しているは同じ意味の言葉だ。愛とは支配の別の名前。兄の正義と弟への行為が、同じ構造を持っている。支配を愛と呼ぶことで正義になる。正義と愛が同じ言葉になっているこの兄の中には、人間の悪の極みの種がある。
行為が終わった後に、ハルメアスは個室を出る。塹壕の通路を歩く。歩く動作の中に、逃げるという感覚がある。今夜の場所から。兄の身体から。印の接続から。しかし逃げる先はない。塹壕の奥には将校室があり、将校室の奥には個室がある。次の夜にも呼ばれる。
呼ばれるのは印の構造で決まっている。決まっている事実から逃げるのは、印の構造を変えること以外にはできない。印の構造を変えるためには、印の深い場所にある何かに触れることか、印を消すことが必要だ。いずれにしても、印の深い場所にあることが必要になる。それは印をさらに深くするリスクを持っている。
逃げる先がない。逃げる方向があるのに、その方向には別の拘束がある。拘束の中にある逃げる動作が、ハルメアスの今夜だった。
印の中に声がある。冷たい声で、今夜も「あなたこそ選ばれし者」という意味を伝える。今夜の行為で、その声は少し近いになった。印の接続の度に、印が深くなる。印が深くなるほど、声も近くなる。近くなるとは、封じるのが難しくなるということ。難しくなるの中に、逃げる先がないという事実の別の面がある。
封じるのが難しくなることと、逃げる先がないこと。その二つの事実は同じ方向に向かっていた。印の深い場所にある他の存在が近くなるのと、兄の支配が変わらないのが同じ方向にある。それは印の中にある何かに向かっていく方向だった。その方向が逃げるとは反対の方向になっていたことは、ハルメアスの今夜には見えていなかった。
夜の最後の時間に、塹壕の縁に誰かがいる。フリードリヒだ。今夜も塹壕の縁で外を見ている。夜の雨の中に。外を見ることが習慣になった夜の巡回の一つ。習慣になった動作には、理由がある以上の頻度で行われる動作がある。
必要になったのがいつかは明確ではない。その必要とは、見ることが知る方向に必要になったという意味だった。ハルメアスが通る足元の音に、フリードリヒは気づいた。王子の姿が通る時に、フリードリヒは何も言わなかった。言わなかったのは今夜も言うべき言葉がない。言葉がないことの中に、言葉にならない何かがある。
何を見たかは、フリードリヒの目に刻まれている。今夜も。印の光の青白い色と、王子の歩く姿と、その姿が持つ逃げるという動作の質。逃げるとは何かから離れるということ。何から離れているのかは、今夜のフリードリヒにはまだ見える範囲の外にある。
しかし見える範囲の外にある事実が、少しずつ見える形になっていく。それが印の中にある事実と同じ速度で向かっていく。見る者にとっては、見える時が来る。
フリードリヒは塹壕の中に戻った。何もなかった夜のように。塹壕の泥の壁には、アルファンス国の兵士の腕が、今夜もまた少し洗われて、指の根元がはっきり見える。
塹壕の底では、見える形になっていくものが二つある。死者の腕と、印の中にある声。その二つの事実は、今夜のフリードリヒには一つしか見えていない。しかし見える日は、少しずつ近くなっていた。




